第三章 清正公信仰成立前後―豊国社(豊国大明神)との繋がりを中心に―
第一節 豊国社(豊国大明神)の広がりと、清正公信仰への影響
権現信仰とは神仏習合の流布にともない、神と仏は一体であると考えられたものから生 まれたものである。そこから本地垂迹の思想が誕生し、仏が神の姿で現われるという考え となった。近世になると、人が神に祀られる信仰へと姿を変えていき、豊国大明神や東照 大権現などを生み出した(註 1)。
こうした中で、加藤清正を神に祀る清正公信仰が生まれたのではないかと考える。江戸 時代の旅行記である古川古松軒の『西遊雑記』では、本妙寺のことを「清正権現之社」と 記している(註2)。同じく旅行記である橘南谿の『西遊記』によれば、加藤清正を祀る現 在の日蓮宗寺院である本妙寺は民衆レベルでは清正公の社、すなわち神社として考えられ ていたことが下記の文書から読み取れる。
肥後国熊もとに、加藤清正の霊を祭りて清正公の社という。熊本にては別ての大社 にて、一国の尊敬はなはだし。宮居のありさまより社頭の木立まで神さびたれば、年 ふるく祭り来たれる事とぞ思わる。誠に天正のむかし、天下大いに乱れ英雄豪傑きそ
い起こり、武勇の大将かずかずありし中に、今の世にいたるまで神霊をあがめ、縁も なき人の祭りとうとむは、只此清正公一人なり。誠に清正の人となり、義を先として いつわりを行なわず、勇にして頗る仁慈の心あり。其比の武士の中にては殊にすぐれ てぞ見えし。
誠に人心の義に感ずるは和漢とも同じ事にて、唐土にても人多き中に、関羽のみ今 に神と祭り、諸国とも尊むあまり、日本の地まで関帝堂というものを建てて、長崎辺 の人は甚だ尊信する事なり。清正も其事跡は異なれども、其勇敢義烈の気象、関羽の 風あれば、人心の帰する所ありて、後世までも其神を祭れるにや。
(橘南谿 「清正公(熊本)」『西遊記』)
『西遊記』の著者である橘南谿には、本妙寺は関帝と同じようなに偉人を祀った神社で あって、日蓮宗寺院という認識は全くなかった。彼は「誠に天正のむかし、天下大いに乱 れ英雄豪傑きそい起こり、武勇の大将かずかずありし中に、今の世にいたるまで神霊をあ がめ、縁もなき人の祭りとうとむは、只此清正公一人なり」と述べ、清正公は戦国武将を 神に祀る習俗としては長く祀られており、珍しい例だと考えている。その上で「誠に清正 の人となり、義を先としていつわりを行なわず、勇にして頗る仁慈の心あり。其比の武士 の中にては殊にすぐれてぞ見えし」と述べ、清正公の勇ましさと慈悲の心によって民衆に 愛された結果祀られていると考えた。
このように信仰されている清正公だが、その起源は明確になっていない。先に述べた池 上尊義によれば、清正公信仰は加藤清正の祈願寺であった本妙寺が加藤清正の死後、清正 の霊を祀る加藤家の菩提寺になったが、加藤家の改易にともない寺領を維持することが難 しくなったので、庶民に清正公霊廟であることを売り出したことにより清正公信仰が成立 し庶民に広がっていったのではないかという(註3)。しかし、この池上の論では、加藤清 正の死後、しばらくの間、本妙寺と清正公霊廟が別々に成立していたことや同時代に広が った豊国大明神や東照大権現などのいわゆる権現信仰の影響について言及していない。特 に生前、加藤清正は豊臣秀吉への敬愛が強かったので、豊臣秀吉を神として祀った豊国信 仰の影響は大きかったと思われる。その上、日蓮宗の信者は加藤清正だけでなく、多くの 者がいたのに何故加藤清正だけが信仰の対象にまでなれたのか、わからない。言い換えれ ば、日蓮宗の信仰という点だけでは加藤清正が神格化し、祭祀の対象になったことが説明 できていない。
そこで、清正公信仰の成立期に影響を与えたと思われる豊国信仰の広がりを踏まえつつ、
加藤清正を祀る清正公として祀る清正公信仰はいかに成立したのか、検討したい。まず、
豊臣秀吉が「豊国大明神」とよばれ、神になるまでの経緯を見たい。
慶長 3 年(1598)に豊臣秀吉が発病し伏見城で没した。それと同時に阿弥陀ヶ峰神廟造 営開始された。その時、豊臣秀吉を「新八幡」と呼ばせようとした動きがあった。『伊達成 実記』には「秀吉公、新八幡ト祝申スベキ由御遺言ニ候ヘドモ、勅許ナキニヨツテ、豊国 ノ明神ト祝申シ候テ東山ニ宮相定メラレ候」とあり、また、『当代記』には「阿弥陀ヶ峰新 八幡堂へ各社参、是太閤秀吉公を神に崇め奉り、八幡大菩薩と号す也」とある(註4)。
このように豊臣秀吉を八幡にしようとする動きがあったが、この動きにはどういった意
味があるのだろうか。その意味が考える上で役に立つものとして、時代は下るが『狗張子』
六巻に「亡魂を八幡に鎮祭る」という話がある(註5)。
寛永のはじめつがた、吉川某の家人松岡四郎左衛門と聞えし者は、武にほまれあり。
心ざししぶとく、正直の武侍なり。
しかるを傍輩の讒によりて、打首にして殺されたり。
すでに死期におよびて言やう、口惜くも、あらぬ讒言に依て命を失なふ事はちからな し。せめて腹をだにきらせず、打首にせらるゝこそ無念なれ。来世たましひきえて果な ば是非なし、きえずしてある物ならば、此うらみは報ずべきものをとて、歯がみをして 首をぞ討れける。
七日の後四郎左衛門が亡霊あらはれて、生たる時の姿のごとく、讒せし者は親子なが ら、打つゞきて死絶たり。
それのみにかぎらず、道に行あふともがら、男女老少立どころに死するもの、一千餘 人に及べり。
僧をやとうて經をよみ、種々事とぶらへどもしるしなし。
埋みたる塚をかざり、陰陽師に仰せて、まつらるれどもしづまらざりければ、社をつ くりて八幡と號し、祭を初めて祝ひ鎮めしより、 亡魂のうらみとけて、そののちはなが く静まりぬ。
(「亡魂を八幡に鎮祭る」『狗張子』六巻)
この話では、打ち首になり人に災いをもたらした侍の霊は僧侶によって供養されても成 仏することなく、陰陽師によって祀られても災いは静まらず、八幡に祀られることによっ て、はじめて祟りが落ち着く。『狗張子』は、中国の書物の意訳であるという点も考慮しな ければならないが、この話に象徴されることは武士にとってみれば死後、八幡に祀られる ということは重要な意味をもっていたと思われる。
それを裏付けるように、宮崎県にある生目神社は明治維新になるまで生目八幡宮といわ れ、平安時代末の武士である平(藤原)景清が八幡宮の神として祀られているような事例 もある(註6)。生目八幡宮には江戸時代には肥後藩の庶民が参詣にいったことが『生目八 幡参詣日記』などから知られており、武士が八幡として祀られることが古くから肥後でも 知られていた。
ところが、豊臣秀吉は結果的に「新八幡」ではなく、慶長 4 年(1599)には後陽成天皇よ り「豊国大明神」の神号が送られることになる。その際には吉田神道の影響が大きかった とされている。このことに関して、柳田國男は「豊臣秀吉は死ぬ時に遺言して、我を新八 幡と斎うべしと命じたが、それは勅許なきによって、豊国大明神の祠号を称したという説 がある。多分それには何かの誤聞があったので、人を新たに祀ってこれを新八幡というこ とにあるいはこの時代頃からだんだんと、反対が多くなって来たことを意味するのではな かろうかと思う」と述べている(註7)。
こうして生まれた豊国大明神は、豊臣秀吉ゆかりの家臣団などによって各地に分霊され
ていく。蜂須賀家政・至鎮父子による阿波・小松島、前田利長による加賀・金沢などがあ る(註8)。そして、熊本にも加藤清正の手によって豊国社が創建されたのといわれている。
慶長 4 年(1599)11 月 29 日付で肥後国阿蘇大明神長善房寺社中に宛てた判物(『阿蘇文書』)
によると、清正が「豊国大明神」の分霊を自らの領国である肥後に勧請し、分霊する予定 であったことがわかるとともに、阿蘇社の復興・所領宛行という現実問題が「豊国大明神」
の「明神」によって決せられたことがわかっている(註9)。また、『舜旧記』慶長 18 年(1613)
12 月 1 日条によれば熊本城の北東にある立田山に豊国社が造営され、京都・豊国本社の萩 原兼従によって社家の任命なども行なわれたという(註 10)。
『肥後国誌』「五町手永 麻生田村」には「豊國大明神宮迹 立田山ニアリ舊曰加藤清正 侯領國ノ時豊國大明神宮ヲ此所二造立アリ 天満宮ヲ他ノ地ヘ移シ給ヒシ其迹ナルヘシ大 閣秀吉公慶長二丁酉年八月十八日□逝同四巳亥年四月十八日 正親町帝勅賜豊國大明神元 和元年大阪落去以後廃セラル 今ヤ其迹ノミ存ス 明和二年ノ冬土中ヨリ燈籠ノ笠石ヲ堀 出セシニ弘治年中天満宮ニ寄進ト見ヘタリ」とある(註 11)。
現存する熊本の豊国社に関する主な資料としては立田山から発見された金瓦がある(註 12)。他には本妙寺に伝わっている「豊臣秀吉肖像画」や「豊國大明神 秀頼八才」と書か れた「豊臣秀頼筆豊公神号(慶長五年)」がある(註 13)。そして、現在も立田山の山頂に 向かう中腹の一角に、現在も小さいながら豊国大明神が祀られている。「豊国さん」と呼ば れ、脳の神さんとして信仰を集めている。いつの頃から脳の神として祈願がされだし、ま た、どうして太閤秀吉と脳の神が結びついたか不明であるが、「頭神豊国大明神」と刻まれ た石が立てられている(註 14)。
こうした豊国信仰の影響を受け、清正公信仰が成立したのではないかと思わせる資料が ある。それは本妙寺に伝わる「加藤清正肖像画」である。大倉隆二は、この肖像画に関し て「(前略)清正像も熊本本妙寺、京都本圀寺、同寺塔頭勧持院、愛知妙行寺などに古い作 例がある。本妙寺(のもの)は清正の子忠広ら近親者が、清正没(慶長十六年)後間もな く、供養のため描かせたものらしい。束帯姿で神殿に祀られた神像形式の供養像であるが、
この形式は遺例から見て、一連の秀吉像が先駆的作例と思われ、本図は本妙寺蔵秀吉像(慶 長五年ごろの制作)を手本にして描かれたと思われる」と述べている。また、大倉は「(前 略)一般に武家の肖像画は像主の近親者や恩恵を受けた者が、像主の命日などにそれを掛 けて供養する宗教儀礼上の必要性と、故人追慕のために描かせたものが多い」ともいう(註 15)。
清正公信仰は絵画分析の観点からすれば、豊国信仰をもとに成立したことになる。また、
肖像画だけでなく、各地に残されている加藤清正の像も衣冠束帯姿の神像の形式になって おり、神道の影響を受けていることを想像させる。
池上尊義は、本妙寺は天正 13 年(1585)に大阪に建立されたもので、天正 16 年(1588)
に清正が肥後半国の領主になった時に本妙寺開山日真も下向し城内法華坂の天台宗旧跡三 宝院に止住し、これを瑞龍院と改め、慶長 5 年(1600)に本妙寺を城内に移築したものだ という(註 16)。清正公霊廟は慶長 16 年(1611)に加藤清正が死去し、熊本城の西方の中 尾山の中腹に造営された。慶長 19 年(1614)に本妙寺が焼亡し、元和 2 年(1616)に忠広 のすすめにより本妙寺が清正公霊廟に再建されたと述べている。
本妙寺の成立と清正公霊廟の成立は別の時期であったというのである。つまり、清正公