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「人を神に祀る習俗」と流行神

ドキュメント内 清正公信仰の研究 (ページ 99-150)

第六章 近世・近代の清正公信仰 第一節 清正公信仰の歴史的変遷

第二節 「人を神に祀る習俗」と流行神

福田アジオによれば「中央」と「地方」の関係は「中央集権的体制を是として、それに 貢献する地方であり、地方自治体であった。近世の町村から行政的役割を奪って、市制町 村制の町村へ移し、その町村を広域合併させて、住民にとって帰属意識も希薄な広域行財 政単位としての市町村に拡大した」という(註1)。この考えをふまえると、流行神は近世 の都市を中心に徳川家康のような権力者から佐倉惣五郎のような反逆者までもを神として 認める多様で寛容な庶民を伝承母体として成立したものが、中央集権的体制にとって、そ の体制を維持する上で是とされず認められなくなり、衰退した信仰とみることがもできよ う。このことから従来の「人を神に祀る習俗」の研究では中世的な信仰が祟り神系の性格 であり、近世以降の信仰が顕彰神系の性格ではないかという考え方とは異なった結論が導 ける。それは近世の打ちこわしがおきた時に清正公の霊の噂が広がったように、民衆の伝 承母体が大きく変化するような事態、幕府による国替えや取潰し、あるいは疫病の流行、

天災の発生といった条件が揃えれば祟り神系の性格を持つ流行神が成立するというもので ある。いわゆる江戸時代の流行神という言葉で括られていた中にこうした祟り神系が存在 していることが考えられる。清正公信仰を例にとると、疫病除けなどの神として広がった のは清正公 200 回忌の文化 7 年(1810)から明治元年(1868)頃まで間、長く見ても昭和 15 年(1940)の本妙寺事件が起きるまでだと考えられ、こうした側面で見ると流行神にな る。近代化の過程で流行神が誕生する側面をよく表している事例とも言えるだろう。

つまり、「人を神に祀る習俗」は「中央」の影響によって「地方」の民俗社会(伝承母体)

の崩壊あるいは変化の危機の中で生み出され、あるいは消えていった信仰であると見るこ とができないだろうか。具体的にいえば、自分たちの暮らす土地の支配者が代わる時に既 得権などが侵害される恐れがある時ではなかろうか。加藤家によって城内の糞尿の使用権 を認められた八島家が、細川時代にも清正公の絵を守ってきたことや幕府から弾圧を受け た不受布施派が清正公信仰と深い関わりを持っていたことなどにそれは表れている。それ ゆえに生前人々を救った実績(記憶あるいは歴史)がある人物が、その人格を持ったまま、

人神になったのではなかろうか。「地方」が「中央」に従順した場合などには「中央」の英 雄・徳川家康や乃木希典などが「地方」が「中央」と一定の距離を持つことを考えた時に は郷土の英雄・佐倉惣五郎などが人神として祀られたのだろう。そして、加藤清正などは

「地方」からは郷土の英雄として「中央」からは国家の英雄として時には祀られる存在だ ったのではなかろうか。

また、流行神の最大の特徴は流行と祀り捨てであるが、流行神といわれる神の多くが何 某八幡社やあるいは何某稲荷社などであり、継続性にこだわって見れば八幡社あるいは稲 荷社の一部になるのであるのではなかろうか。清正公信仰という中に権現信仰・御霊信仰・

軍神信仰が入れ込まれているように。これは中央集権的な体制の中で様々な信仰が生き残 るための姿としても受けとめることができる。逆に、こうした中に入り込むことができな かったものが流行神になっていったとも考えられる。近代において、このような動きが激 しくなったのは日露戦争以降だった。松本博行は「戦時下の人の交流を契機に民俗の地域 性が崩れ均質化が進んだ」と指摘している(註2)。こうした視点から「人を神に祀る習俗」

と流行神の再検討が必要となると考える。

明治 5 年(1872)には神戸市中央区に楠正成を祀る湊川神社が、明治 7 年(1874)に仙台 市青葉区に伊達政宗を祀る青葉神社が造られ、いわゆる郷土のために貢献した人、あるい は郷土出身・所縁の偉人を祀る顕彰神が、明治維新後、各地に生まれた(註3)。これらの 顕彰神は、近代における中央集権的体制の成立に対して、郷土が相対的に意識されていっ た結果であり、「中央」と「地方」という関係が生まれ、その中で成立したとも考えること ができる。顕彰神への信仰は、人々の郷土への想いにその信仰の源があると考えられる。

それゆえに、近年、こうした郷土への想いの変化あるいは郷土そのものの変化が顕彰神へ の信仰を揺らがす可能性もあると考える。今後、市町村合併などにより今までの郷土の消 滅により郷土の人々によって顕彰されなくなり、忘れ去られて行く時代もくるのではなか ろうか。それは顕彰神から流行神への変化を意味する。こうした側面は、近代以降、加藤 清正が熊本県を表象するものとして位置づけられ信仰の対象になったのに比べて、宇土や 八代などの旧藩主であった小西行長や人吉の相良頼房などが今ではほとんど信仰の対象さ れていないことに既に表れているのではなかろうか。

(註1)福田アジオ 2006「市町村合併と伝承母体 -その歴史的概観―」『日本民俗学』

245 日本民俗学会 p16

(註2)松本博行 1996「戦争と民俗」『現代民俗学入門』吉川弘文館 p280

(註3)湯田栄弘 2002(初版 1985)『仰清正公~神として人として~(増補再版)』加 藤神社p340、小松和彦 2006『神になった人びと』光文社 p162―173

近世・近代の清正公信仰を通して、権現信仰・流行神信仰・軍神信仰といった「人を神

に祀る習俗」の移り変わりを見てきた。この信仰の変化は「人を神に祀る習俗」に対する 庶民の期待の変遷であった。それは御利益の変化、信者の変化に表れた。これらの変遷を 読み解くことが民俗学における歴史理解だと考える。つまり、民俗を各時代の庶民が描い た歴史として捉えることにより、時代設定が可能になるのではなかろうか。具体的にいえ ば民俗事象の中に見られる歴史的な痕跡を追う、あるいは古文書の中に現在に続いている 民俗事象を読みとることが考えられる。こうした作業により民俗学における歴史的な視点 が生まれる。これまでいわれてきたような民俗学が追うべき課題である民俗の変化する側 面を読み解くことができるのではなかろうか。

これに対して民俗の変化しない側面はどのように考えればよいのか。清正公信仰でいえ ば戦国武将である加藤清正を信仰の対象とし、毎年誕生日であり、命日である 6 月 24 日(7 月 24 日)に供養としての意味を見出し、「ハレの日」として祭りが大なり小なり行なわれ 続けている点である。これは郷土の英雄を尊敬の念でその地域の人々が供養し続けるとい う、一地域社会、「地方」の中で完結しているものだといえよう。

このように民俗の変化する側面と変化しない側面は、一見すると対立するように思われ るが実際には共存している。それは近代の中で政治、経済、文化などを集中させ、均一化 された流れにしようとする「中央」と、それに対して無数に広がろうとする「地方」の関 係に似ている。

例えば、近代が生み出した新たな神である英霊と呼ばれるものは「中央」の力が「地方」

に及び、戦争の歴史が付随するため、祖霊にならなかったのではなかろうか。祖霊は、死 霊が在る年月が経過し、ほかの祖霊という複合体に融合して、それ自身の個性が没却しい ったものだとされている(註1)。そして、祖霊は人々の「家」の永続への願いを背景に成 立しているといわれ、その背景にある郷土との繋がりが深く、時代を越えて変わらず続い てきたもの、民俗の変化しない側面だと考えられてきた。それに対して、英霊は中央集権 的体制による徴兵令という国民皆兵の思想が「地方」の中に入り込んで作り上げられたも のだともいえよう。これは民俗の変化する側面だともいえよう。一般の人々にとって戦争 が身近になったということの反映でもあった。

こうしたことは「中央」の乃木希典のような軍人たちとの繋がりの中で、軍神として位 置づけられた一地域の大名に過ぎなかった清正公の護符を加藤清正と縁も所縁もない人が 求めることにも表れる。英霊は戦争という歴史の中にあり、これまでの考えをふまえれば

「地方」の祖霊が「中央」の影響を受けた結果が英霊だと考えることも出来よう。そのた め、英霊は戦争が忘れ去られるにつれて、祖霊と変わらぬ存在になっていく可能性がある と考える。

また、「地方」が「中央」といかに関わるかを考えた姿が人神の性格になっていくと考え られる。清正公信仰において、清正公の性格が時代によって変容することにそれは見られ る。江戸時代、幕藩体制に不満を持った時、清正は反権力の象徴として姿を現し、近代に なり、「中央」を守る軍都として熊本が発展していく時には軍人の理想的な英雄として姿を 現している。

こうしたことをふまえると「地方」で発生した民間信仰が「中央」まで広がるものの中 には、その時代の人々の思いや考えを強く反映したものがあることがわかった。言い換え れば、それは「地方」発信の新しい民俗である。その典型的なものの一つが清正公信仰で

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