第四章 流行神としての清正公信仰 ―民衆へ清正公信仰の広がり―
第二節 天明の打ちこわしと清正公の流行神化
池上尊義や田中春樹は享保年間(1716~1735)頃から本妙寺は積極的に清正公を祀りは じめ、文化7年(1810)の清正公 200 回忌以降に庶民に広がったと考えている。しかし、
この時期に清正公信仰が関東・中部・関西の民衆へ何故爆発的に広がったのか、その理由 は両者とも言及しておらず、考察する必要がある。
清正公信仰だけでなく、この時期、江戸などの都市では多くの流行神がもてはやされた ことが『江戸神仏願懸重宝記』(1814)や随筆類などからも知られている(註 1)。こうした ことをふまえると、清正公信仰の普及の背景には、この時期に流行神が広がる普遍性のあ る要因が考えられる。それは文化年間に入るまで度々おきた自然災害と、それにともなう 幕藩体制の動揺が考えられる。
まず、天明年間には大飢饉が全国的におきていた。浅間山の噴火などが原因によるもの だった(註2)。浅間山は天明 3 年(1783)8 月 5 日 大噴火し、溶岩流と火砕流が発生、群 馬県側に流下した。長野原町や嬬恋村鎌原地域など吾妻川流域を中心に 1500 人の死者を出 した。その後、天候不順により東北地方を中心に約 10 万人の死者を出した。
熊本では阿蘇を中心に天明の大飢饉の影響を受けている中、天明6年(1786)には熊本 の中心部を流れる白川が氾濫を起こした。この相次ぐ自然災害で熊本の民衆は疲弊し、天 明7年(1787)には熊本城近くで打ちこわしがおきた。5月 18 日に古魚屋町・呉服町・中 唐人町・新町2丁目で打ちこわしがおき、19 日に川尻町で打ち壊し、22 日に宇土町で打ち 壊しが発生した。この打ちこわしの中心人物が清正公の霊だという話が広がった。そのこ とが『翁草』に記されている(註3)。
(又)肥後熊本の城下、五月中旬大に騒動す。其来由は、近来熊本に歩札商(不実相場 の類歟)頻に流行て、諸人常の産業を捨て、此空体の商を専らとす。故に米穀其外諸色 の価ひ殊の外貴く成て、諸民大に苦しみ窮す。仍て太守より救の米銭をされ、歩札を制 せらるれ共、聊不用、偏に是に耽る者計なり、故に牙婆の者段々多く成り、坪井六軒町、
亀井修験堂の裏に集会所を構へ、古町、新町にも別業をしつらひ、此手法を立て、水前
寺広湖等に遊舟を浮べ、絃歌の声絶えず、此商の繁栄いはんかたなし、而るに丙午の秋 の暴風、又は山湖にて、城下半洪水湛へ、長六橋、坪井橋、流失し、田畑多く損じけれ ば、是に乗じ益諸価貴く成り、丁未春より晴間なく、雨打しきりぬる故、麦作悪きに付 て、猶々彼徒勢ひを得て、たがひに励み合ふほどに、米穀日々に高直なる事、古居様し なし、斯く熊本物騒なる故にや、天変もしげく、幡雲空に現じ、異星阿蘇嶽の上に現ず。
然るに五月十三日昼頃、歩礼所の家々より群鼠逃去事夥し、諸人怪しみ思ふ所に、同十 七日夜、雨頻に降けるに、何者よも不知大勢来て、坪井六軒町、万家藤三郎家を打潰す。
翌十八日昼頃、藤崎祗園の両社より烏夥く群り散て、熊本中に鳴わたる事喧し。同暮頃 より何となく熊本騒立て、唯今猛勢打寄ると云や否、西は一駄橋の手前竹の馬場にて勢 揃して、怪敷者共東西へ颯と別れて、西は頭人百五人、白麾を振て、其党の者、各白鉢 巻に白下帯赤裸にて家々へ責蒐る、東は赤麾赤鉢巻赤下帯にて、相図は太鼓螺貝を以て 隊備をなし、大将は前髪の大兵、大坊主大の男なり、其徒雲霞の如く、四方へ馳散て、
一時に此商の者の家を破却し、財宝帳面を粉灰みじんにして、偏に算を乱せるが、如し、
去れ共人を傷ふ事なし。適是に立会者は蹴散され、少々怪我する者は有れ共、死傷の者 は一人もなし、斯く家々を破却する中にも、法華宗をば少し容赦する様子なり。太守よ りも人数を出されけれ共、渠等が働き電光の如くにて、はかばか敷鎮る事不克、鎌田郡 兵衛一組引率して、粉骨を尽し働ければ、さしもの者共、何地へか馳せ散けん、一瞬に 消失たり。其徒と覚しき者を漸く三人搦て、穿議有けれども、皆々見物に出たる者共に て、嘗て怪敷事なし。十九日にも押寄るとて、町中以の外騒ぎ、太守より厳敷手当有し か共、雑説計りにて、其後は何事無く静まりぬ。総じて今度の騒ぎ、何者の企なるや、
熊本中に聊も知人なし、尤国中にも一向是を不知、何国いか成者の所為なりや、奇怪の 事共なり。然るに横手、雲谷山吉祥寺、鎮守堂の多門(聞カ)天を横手五郎と称す、此 像は金海山釈迦院の開基、弉善大師一刀三礼の作にして、丈六の尊像なり。加藤清正熊 本築城の時、横手郷侍の子に、大力の童子有り、五郎と称す、是を呼出して試らるに、
鬼神をもとりひしくべき無双の大力なり、故有て辜せられぬれ共、猶其勇猛を賞せられ、
吉祥寺に此五郎を多門(聞)天といはひこめ給ふ。爰に奇異成は、其忩劇の日、此像見 えず、諸人怪て、扨は大前髪は此尊像ならめと風説す、大赤男は藤崎社の仁王尊、大坊 主は清正なりとぞ。其両日本妙寺清正の廟中以の外鳴動し、藤崎仁王の足に泥付き、眼 輝尋常ならずとて、右三ヶ所へ参詣夥し。誠に邪を退け、災難を払ひ給ふ霊験ならん歟、
始に烏群り、終りに熊本に溢れし、其徒一瞬に消失たる抔、さらに人間業にあらず、他 国の家潰とは、主意大に違て、熊本平安の為に神霊のなす所ならん歟、されば前の太守 は世挙て称嘆せし良将なしりが、主将かはれば、忽国風妄に成る事、古今例多し、前代 に名を得たる堀平左衛門も、今度色々の落書を見るに、歩札の者共の賄賂を請たりと見 えて、当春諫書を表せし、弓削を賞して、堀を謗る事甚だ喧し。其後は町方へ号令厳敷、
廻りの役人も大勢差出さるゝ処、十九日夜、川尻町又々騒動二軒打潰し、二十二日夜は 宇土に於ても、九軒打崩候由、追々召捕へらるゝ者数十人有之共、皆其徒にてはなし。
故に一日或いは二三日過て皆差免され、兎角右溢者の所為不分明なる処に、古町より三 人罷出、私共右の頭人にて御座候、御尋の儀御返答可申旨自ら訴へ出るに付、先牢舎申 付られ、打崩されたる者共も差控被申付けると承候計にて、其落着は不知。又五月二十 九日より六月朔日迄、金峯山甚だ鳴動せしとかや、実にも唯ならぬ珍事なり。仰清正の
霊今に於て凛々たる事普く世に知る所なり、是故に、太守本城に居る事不克、城外花畑 と云る館に住せられ、本城は番城たり、清正廟は今以て太守よりの奔走丁寧一方ならず、
年々の祭祝、熊本中挙つて参詣し、色々の作物善美を尽し、祈願を籠るに、霊験あらた 成事他に越たり。かゝる神威まのあたりなれば、今度の怪も有間敷に非ず、奇なる哉。
(神沢貞幹「諸国飢饉」『翁草』)
この『翁草』という随筆は神沢貞幹という人物が書いたもので、安永元年(1772)に一応 稿を成したが、さらに百巻を加えたところ、天明八年(1788)の京都の大火にその過半数を 失い、寛政三年に 82 歳で再び完成したものである。内容は世話・武功談・奇事・逸話など があり、その中の一つとして熊本の打ち壊しの話が取り上げられている。先の内容を要約 してみると以下のようなことである。
阿蘇嶽の天空に奇妙な星が姿をみせ、5月 13 日から鼠が逃げるなどの異変が起こりはじ め、同 17 日の夜には何者かによって万家藤三郎家が打ち壊される。翌 18 日の昼頃には清 正公ゆかりの藤崎八旛宮と北岡祇園社の両社から烏が多く散っていって、熊本中で鳴き叫 んだ。夕方になると再び何者かが熊本で暴れた。彼らは白鉢巻白下帯をつけたものたちと 赤鉢巻赤下帯をつけたものたちで、東西に分かれて商人の家を襲った。ところが、彼らは 死者を出すことなく、法華宗ならば容赦をした。鎌田郡兵衛は一組引率して彼らを追った が、彼らは一瞬に消えるという不思議な行動を起こした。19 日になると静まったが、彼ら が何者だったのか、わからなかった。奇怪だと人々が思っていると、藤崎八旛宮の仁王と 横手五郎をモデルにして作られた多聞天像、そして本妙寺の清正公の霊の仕業だという話 が広がった。人々は3ヶ所の寺社に参拝した。政治批判などの様々な落書も書かれた。
5 月 19 日の夜にも川尻で打ちこわしがおこり、22 日は宇土でも打ちこわしがおきた。そ して、5月 29 日から6月1日に金峯山が甚だ鳴動したという。
「諸国飢饉」『翁草』の著者である神沢は最後に清正公の霊の力は今も残っているとまと め、熊本城に清正公の霊はおり、そのため、細川家はそれゆえに花畑の館で生活するしか ない、今も清正公の霊験はあらたかだと書いている。
終末を思わせるような情景描写で、熊本の天明の打ちこわしが書かれ、清正公たちの霊 は細川家に仇する者として世直しの存在として考えられていたと思われる。
しかし、これらの清正公の霊の話については管見の及ぶ限り、熊本には残っていない。
だが、天明の打ちこわしがあり、この話はそれをもとに作られていることは間違いない。
清正公の霊の話が残っていない理由として、肥後藩は天明 7 年(1787)5 月・7 月、寛政 9 年(1797)11 月に落書禁止令を出して、情報の統制をおこなった影響があると思われる。
しかし、6代宇土藩主で、のちに8代肥後藩主にもなった細川斉茲の夢枕に立った清正 公を神像(名古屋市・秀吉清正記念館所蔵)にしたというものは残っている(註4)。細川 斉茲は、天明の大飢饉に窮民救済に尽くしたといわれている人物で、この清正公神像には、
文政7年(1824)の年号が入っており、200 回忌以降に造られた可能性が高いが、『翁草』
との関わりを考えると大変興味深い。また、肥後藩の江戸屋敷には『武江年表』によれば、
文久 2 年(1862)に「三月二十四日より始まり、大川端細川侯中屋敷清正公社、開扉参詣 をゆるさる」とあり、時代は 200 回忌以降になるが、細川家が清正公を祀っていることが