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二百回忌と清正公信仰の広がり

ドキュメント内 清正公信仰の研究 (ページ 41-44)

第四章 流行神としての清正公信仰 ―民衆へ清正公信仰の広がり―

第一節 二百回忌と清正公信仰の広がり

流行神とはある時期突然流行し現世利益の神として信仰され、そして祀り捨てられる神 のことをいい、清正公信仰にもこうした側面があるのではないかと考えられる(註 1)。加 藤清正の没後、200 年近く経ったころから流行神的な側面を持ち始めたと思われる。この頃 になると、加藤清正は浄瑠璃・歌舞伎の題材に取り上げられるようになり、民衆にも広く 知れ渡るようになる。渥美清太郎によれば「清正が戯曲に出現したのはすこぶる遅く、そ れは徳川氏が自家にゆかりある史上の事跡を脚色を禁じたので、信長・秀吉時代を背景と する戯曲が多く現れなかったためである」という(註2)。それを裏付けるように享保年間 になると加藤家への幕府の姿勢が変化をしはじめる。享保 16 年(1731)に徳川吉宗が本妙 寺に寄進された『清正記』を閲覧したことが知られている(註3)。

此清正記三巻集記奉寄進本妙寺畢

古橋左衛門又玄 在判

此清正記三巻将軍吉宗公可有 御覧之旨肥後本妙寺本寺本國寺へ以浅草幸龍寺本妙寺 へ可申遣之由享保十六年六月十三日申来る因玆従本國寺本妙寺へ申遣し同年七月従肥後 細川越中守殿江戸へ被差上 将軍家御覧の後明年享保十七年春本妙寺へ御返辨也 肥後本妙寺宿坊本國寺塔頭

勧持院日遙 在判 (『清正記』第三巻)

この『清正記』の日遙の後書きによれば、徳川家の祈願寺であった浅草幸龍寺を通して 徳川家はこの書を手に入れている。また、『清正記』巻三に「我死せば具足を着させ太刀か たなをはかせ棺に入納へし末世の軍神たらん」と遺言を残したとも記されている。これは 先に見てきたように、武士にとって八幡神として祀られることは武士の誉れであることが 意識された上で、清正公を軍神として位置づけ、彼を顕彰することが目的だとも考えられ るのではなかろうか。田中春樹によれば、この時期、将軍吉宗によって加藤家子孫が旗本 として召し抱えられており、「幕府による加藤家のいわば名誉回復がなされたと考えていい だろう」と述べている(註4)。

その背景には享保 17 年(1732)に西日本でおきた享保の大飢饉の影響も考えられる。こ の大飢饉では害虫などの被害により多くの餓死者を出し、肥後ではその前後から旱魃や害 虫の被害が出ている(註5)。大飢饉の混乱に乗じて加藤家所縁の者や細川家に不満がある 者たちが騒動を起こさないように、細川家や幕府が加藤清正や加藤家の名誉の回復を幕府 が行なうように図ったのではないか、それが細川家が『清正記』を将軍家に差し出す行動 になったとも考えられる。

このような幕府や細川家による加藤家への締め付け緩和の流れを受けるような形で清正 を題材とした芸能が自由になされるようになっていく(註6)。寛政8年(1796)に大阪の

豊竹座で『鬼上官漢土日記』(近松柳助作)という浄瑠璃が演じられ、「地震加藤」が取り 上げられた。それまでも『本朝三国志』(享保4年)『祇園祭礼信仰記』(宝暦7年)『三国 無双奴請状』(安永5年)『比良嶽雪見陣立』(天明6年)などでは清正が脇役では出てきて いたが、主役は初めてだった。征韓役における清正を脚色したもので、海上で妖気を感じ た正清(清正)が久吉(秀吉)の怒りをかえりみず帰国し、岸沢判官(石田三成)の陰謀 をくじくという話であった。

翌年の寛政9年(1797)には歌舞伎で大阪・中の芝居で『けいせい遊山桜』が行なわれ、

「毒酒の正清」が取り上げられる。文化4年(1807)には大阪・大西豊竹座で『八陣守護 城』が浄瑠璃でなされ、「毒酒の清正」が再び取り上げられ、翌年には大阪中の芝居で歌舞 伎として演じられるようになる。高野信治によれば清正公信仰は芝居・謡曲などの芸能の 影響によって成立したと述べているが、加藤清正が亡くなって 200 年近く経ってから芸能 は生まれており、清正公信仰を拡大させるのに芸能は役に立ったのにすぎないと見る方が 適切だと思われる(註7)。

清正公信仰の中心地である本妙寺で最大の祭りである頓写会が本格的にはじまったのは 文化 7 年(1810)の清正 200 回遠忌あたりからだといわれている。それ以前は本妙寺で浄 池院法事が行なわれていただけであった(註8)。

こうした中、清正公 200 回忌を向かえ、清正公信仰が各地で盛んになったといわれてい る。京都、大阪、丹波、肥後での清正公の霊験や奇談が載っている『清正公大神祇霊験記』

という本が京都で刊行された(註9)。また、文政元年(1818)に書かれた本妙寺所蔵の『仕 立て之覚』には清正公の画像を大阪で販売させてほしいという申し立てが書かれており、

この頃、上方で清正公信仰がはやり始めていることがわかる(註 10)。

『武江年表』によれば文化7年(1810)に「六月二十三日、二十四日、白金覚林寺にて、

清正公二百年忌供養開帳」とあり、江戸でも清正公信仰が広がり始めていた(註 11)。文 政2年(1819)には埼玉県北葛飾郡吉川町高久では「清正公大明神」の銘が刻まれた笠付 型の石像が造立されている。正面には、甲冑姿で右手に扇、左手に刀を持った姿の清正が 彫られている。普門品供養のために造立されたものであった(註 12)。

文政 4 年(1821)には、前述した鹿子木量平によって熊本県八代市に貝洲加藤神社が建 立され、開拓の神、土木の神として清正公が祀られるようになる。また、鹿子木によって

『藤公遺業記』が書かれ、清正公の土木関連の偉業が熊本を中心に広く知られるように なっていったと考えられる。

『松濤棹筆』の弘化 4 年(1847)の文中には「近年、清正公とて、日蓮徒清正を祭ること 流行す。中村の妙行寺その根本、後に近来、熱田秋葉寺の北向きにも祭る」と記録があり、

愛知県でも清正公信仰が流行しはじめたことが伺える(註 13)。

そして、安政 6 年(1859)には清正公 250 遠忌を向かえ、中村恕斎が記した『恕斎日録』

などによれば、本妙寺では法要・開帳がなされ、参道では見世物興行がなされ賑わったこ とが知られている(註 14)。法要は 2 月 18 日から 29 日までなされ、19 日・20 日に追善法 会が行なわれた。

この年の 8 月 20 日は細川家の菩提寺である秦勝寺で肥後細川家の祖である細川藤孝の 250 年忌も行なわれていたが、こちらは細川家とその家臣団だけでなされていた。この違い は細川藤孝への信仰は顕彰神的なものであったのに対して、清正公が民間信仰の一部とし

て流行神的に流行していた証しだともいえよう。

安政 6 年は前年度同様にコレラが流行った年で世相不安が高まり、城下では女性たちに よる悪霊祓いの俄か踊りが盛んになったことも知られている。こうした世相も清正公信仰 を盛んにした要素だと思われる。

『武江年表』によれば、文久 2 年(1862)に「三月二十四日より始まり、大川端細川侯 中屋敷清正公社、開扉参詣をゆるさる。是れより毎月二十四日、詣人群をなせり(肥後国 熊本勧請の像を模刻し、あらたに勧請せられし所にして、等身の像といふ)」とあり、細 川の江戸屋敷でも清正公信仰が盛んになってきていることがわかる(註 15)。

この細川家の江戸屋敷における清正公信仰の隆盛は、清正公信仰の中だけの問題ではな いと思われる。吉田正高にによれば、天保改革が本格的にはじまる前後になると、江戸都 市民が様々な藩の江戸屋敷内鎮守へ参詣するという行動が多発化し、流行神化したという

(註 16)。そして、その原因は「大名屋敷内鎮守への参詣熱の高まりや、その流行神化と いう現象は、旧来からの信仰空間(寺社)への祈願では納まらなくなった江戸都市民の意 識の表れだといえる。つまり、より強力な霊験が必要となった時には、不可侵領域として 敬遠されていた大名屋敷の非日常性が、江戸で暮らす人々にとってむしろ未知の力を持つ 場として期待されたのである」という。

このように見てくると清正公信仰の広がりには天候不順や世相不安が大きく関わってく ることが見えてくる。そこで、清正公信仰が最も流行ったとされる 200 回忌前後の流れを、

この点に着目しながら詳細に見ていきたい。

(註1)宮田登 1997『江戸の小さな神々』青土社 p55-56

(註2)渥美清太郎「加藤清正物」(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 1960『演劇百科 大事典』2巻 p65)

(註3)『清正記』(武藤厳男ほか 1971『肥後文献叢書(2)』歴史図書社 p63)

(註4)田中春樹 2000「庶民の信仰としての清正公信仰」『名古屋市博物館 研究紀要』

23 名古屋市博物館 p16

(註5)本田彰男 1960『肥後近世明治前期気象災害記録』 熊本農業経済学会 p13

(註6)渥美清太郎「加藤清正物」早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 1960『演劇百科 大事典』2巻平凡社p65-66、大隅和雄 2000『日本架空伝承人名事典』平凡社 p154-155

(註7)高野信治 2005「武士の民俗神化と伝承の共有化 -「武士神格化一覧・稿」の 作成を通して-」『九州文化史研究所紀要』第 48 号 九州大学九州文化史研究所

(註8)新熊本市史編集委員会 2001『新熊本市史 通史編 第三巻 近世Ⅰ』熊本市 p 1040-1044

(註9)田中春樹 2000「庶民の信仰としての清正公信仰」『名古屋市博物館 研究紀要』

23 名古屋市博物館 p22

(註 10)田中春樹 2000「庶民の信仰としての清正公信仰」『名古屋市博物館 研究紀要』

23 名古屋市博物館 p16

(註 11)斎藤月岑 1968『増訂武江年表 第 2』東洋文庫

(註 12)庚申懇話会 編 1980 『日本石仏事典 第二版』雄山閣 p355-356

ドキュメント内 清正公信仰の研究 (ページ 41-44)