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清正公信仰と神仏分離令

ドキュメント内 清正公信仰の研究 (ページ 69-76)

第五章 軍神としての清正公信仰 ―近代国家と清正公信仰―

第一節 清正公信仰と神仏分離令

軍神とは戦の神をさす言葉で後に戦で死んだもの、特に近代以降の戦争で死んだものを 神として祀ったものを示すようになり、日露戦争以降、多くの軍神が生まれた。こうした 軍神の影響を受けながら清正公信仰が近代以降大きく変化し、日本各地に広がっていった と考える。

そこで、まず近代と信仰との関わりについて考えてみていきたい。安丸良夫は「天皇の 神意的絶対性を押しだすことで、近代民族国家形成の課題をになうとする明治維新という 社会変革のなかで、皇統と国家の功臣こそが神だと指定されたとき、誰も公然とはそれに 反対することができなかった。(中略)近代日本の天皇制国家のための良民鍛冶の役割を

各宗教がにない、その点での存在価値を国家意思の面目に競いあうことであった」と述べ ている(註1)。

清正公信仰においても例外でなく、明治政府の国策に合わせるように熊本にある本妙寺 の清正公霊廟の位置付けが大きく変わっていった。江戸時代には古川古松軒が『西遊雑記』

の中で本妙寺のことを「清正権現之社」と記し、頓写会も一般には「清正公御祭礼」とさ れていることが多かったといわれるように神仏習合の甚だしい信仰であった。そのため、

神仏分離令の影響を強く受けることになる。その様子を湯田栄弘の『仰清正公~神として 人として~(増補再版)』をもとに見ていきたい(註2)。

熊本城にある清正公を祀る加藤神社の建立は、慶応 4 年(1868)に熊本藩主細川韻邦の 弟・長岡護美の建議からはじまった。神仏分離令にともなって、明治元年には朝廷より神 祭仰出され、清正公霊廟を神道儀式にて祀りはじめる。清正公霊廟と本妙寺は神社、寺と して分けられ、本妙寺の僧すらも社殿に入れないという事態が起こった。しかし、その後、

本妙寺の要望により清正公霊廟は再び引き渡さられることになり、本妙寺で祀られていた 清正公の衣冠束帯姿の像が御神体とされ、熊本城内に神宇を創建し錦山神社と公称し明治 4 年(1871)7 月 7 日に遷宮された。その後、藩庁庶務掛より本妙寺に対して、8 月 5 日限り で御霊屋(浄池廟)を、拝殿・諸堂なども 15 日までに解体するように命令が出て解体され、

本妙寺における清正公信仰は痛手を被る。

一方、錦山神社では同年 12 月 12 日には木兼能・韓人金官の両霊も合祀され、現在の祭 神が揃うが、明治 6 年(1873)に熊本城に熊本鎮台が置かれ、城内が悉く陸軍用地に編入 された為に陸軍と神社側との対立が生まれ、明治7年(1874)には錦山神社京町台に改築 遷座をするこになる。明治8年(1875)には錦山神社の社格が県社に列せられる。

ところが、明治 10 年(1877)に西南戦争がおき、戦火から逃れるために錦山神社は事前 に御神体を健軍神社に移されるが、錦山神社の社域も交戦の衝路となり手水鉢以外建物悉 く焼失する。また、本妙寺の本堂もこの時に消失した。このように熊本の清正公信仰の中 心地であった錦山神社と本妙寺が神仏分離令による混乱と施設の焼失により、熊本の清正 公信仰は一時期混乱し、それとあわせるように各地の清正公信仰も変化があったと考えら れる。それを裏付けるように江戸(東京)にあった細川藩邸で祀られていた清正公も『武江 年表』によれば、大きく変わっていく(註3)。

文久 2 年(1862)に「三月二十四日より始まり、大川端細川侯中屋敷清正公社、開扉参 詣をゆるさる。是れより毎月二十四日、詣人群をなせり(肥後国熊本勧請の像を模刻し、

あらたに勧請せられし所にして、等身の像といふ)」とあるが、明治 5 年(1872)に新た な清正公の像を勧請している。「同(一月)二十八日、肥後国熊本より清正公等身像、大 川端浜町二丁目細川侯藩邸へ着す。品川宿より小網町行総河岸へ着、上陸して本町通り浜 町河岸通りより邸内に入る。富士講同行、大勢にて送る。三月始めより二十一日の間開帳 あり、参詣多し」とあり、これは江戸時代に祀っていたものから新たな清正公像に変えた ことを意味すると考えられる。

これらの出来事は神仏分離令の影響を受け、清正公信仰が変化をしたことを示すものだ と思われる。つまり、神仏習合状態で祀られていたものを神として明確にすることに狙い があったと考えられる。

こうしたことが各地で起きた後に熊本では、明治 17 年(1884)になって錦山神社の社殿

はようやく再建に着手され、同 19 年(1886)に竣工正遷宮する。それからしばらく経った 明治 42 年に清正公 300 年祭を斎行するころになると、錦山神社は社号を現代の加藤神社に 改称する。300 年祭にあわせて、改めて清正公を祀っていることを強調する意味があったと 思われる。全国の清正公を祀る神社を見ていくと、加藤神社と名称が変更される前の錦山 神社という名称が数多く見られる。このことから明治 42 年(1909)に加藤神社と名称を変 更する前に各地に勧請され、この時期に神道を通して清正信仰が再び広がり始めているこ とがわかる。

一方、寺院側も信仰の盛り返しを狙い、本妙寺では明治 18 年(1885)に清正公 275 年忌 が行なっている。『熊本新聞』によれば下記の通りである(註4)。

清正公大法会 襄にも粗々報道せし通り本年は清正公二百七十五年忌なるを以て来 る四月十五日(旧暦三月廿日)より五月八日(旧暦三月廿四日)まで公の御廟所本妙 寺に於て大法会執行に付其日限中該寺に納め有る所の宝物縦覧を許さるゝとぞ又諸遊 芸の奉納及び種々の見せ物等専ら用意有るよし(略)

(『熊本新聞』 明治 18 年 2 月 5 日)

本妙寺昨今の実況 清正公執行に付(略)見せ物は前号に報道せし如く大象と孕み 女の活人形は一昨日より始まりたるに双方共に大入の上上景気且つ島原の旧三十三番 神を本日より開帳夫に継ぎ継ぎと出し懸るハ珍獣、奇獣、操人形、機械人形、足芸、

蒸気車、身振新内等にて(略)

(『熊本新聞』 明治 18 年4月 24 日)

本妙寺では1ヶ月近い法要がなされ、見せ物小屋も立てられ賑わったことがわかる。「島 原の旧三十三番神」の開帳とあるが、これが島原の護国寺の三十番神のことだとするなら ば、本妙寺の住職を勤め、島原の護国寺の住職になった日遥との関係でなされたのだと考 えられる。先にふれたように本妙寺の清正公信仰は日遥によって作り上げられていった側 面があり、日遥の力によって昔の隆盛を取り戻そうとしたと捉えることができる。また、

加藤清正も度々三十番神へ祈祷していたといわれており、こうした関係も考えられる(註 5)。

このような熊本の清正公信仰の動きには、熊本が近代になって明治政府の様々な軍事関 連施設が造られていき、いわゆる軍都として成立していったこととの関わりが深い。明治 4 年(1871)の廃藩により、明治政府は新たに東京・大阪・鎮西(熊本)・東北(仙台)の 四鎮台を設置した。この年は錦山神社が城内に出来た年でもあり、明治政府の軍部と関係 を持つようになった最初の年であった。明治6年(1873)の徴兵令公布にともない東京・

仙台・名古屋・大阪・広島・熊本に六鎮台を設置され、熊本では熊本城内が陸軍用地に編 入され、それにともない明治7年(1874)には錦山神社が京町台へ改築遷座奉祀すること になった。熊本に鎮台が置かれることにより熊本県内、九州各地から軍関係者が集まり、

彼らによって清正公信仰が広がることになったと考えられる。その最も大きな契機になっ たのは西南戦争だと考えられる。それを裏付けるように、本妙寺が細川家に再建の協力を 願った文書の中に注目すべき記載が見られる(註6)。

兵燹諸堂焼亡再建築御助成歎願

抑本院ハ加藤清正公摂州大坂ニ創立ノ処、天正十六年清正公肥後ヘ御入国ノ際引移シ 玉フ。慶長十年六月廿四日人皇百八代後陽成天皇勅書ヲ賜フ。日本国土安全ノ祈祷仰付 ラレ、勅願所トシ玉フ。其後御当家御入国在セラレ、寺領四百五拾石下シ置レ、御代々 様御尊崇御看顧浅カラサルニ拠り全国挙テ信心渇仰シ無比ノ霊域タリ。其隆盛三百年ノ 久敷偏ニ御家ノ保護ニ因レリ。大衆ノ識ル処孰カ感激セサランヤ。然ルニ維新ニ際シ寺 領廃止セラレ、加フルニ西南ノ兵燹ニ罹リ堂宇灰燼資材散失ス。爾来再築ヲ計画スレト モ、内ニ資力ナク外ハ檀家共ニ兵燹ニ害セラレ、流離転倒企図ノ術尽キ、荏苒コヽニ八 ケ年昼夜焦慮困苦罷在候処、明治廿年ニ至リ再建ノ功ナキ寺院ハ廃絶ノ令ヲ下サル。誠 ニ驚愕ノ至ナリ。殊ニ当山ハ忝モ後陽成天皇ノ勅願所トシテ廃絶ニ属スルトキハ、上勅 諭ヲ蔑シ下万民保護ヲ欠キ、誰カ耐忍ヘキ、矧ヤ住職タル日轟ニ於ヲヤ。万死其罪贖ヘ カラス。依之一層奮発励精再築御助成ノ儀内務省ヘ歎願シ、陸軍省将校以下寄附相願候 処、御賛成損金ニ可相成ノ処、当山ノ栄枯偏ニ御家ノ御保護ニ係ルヲ以テ仰願クハ御賛 助成下サレ、本堂最築素志貫徹候様御誘導幾分ノ御下ケ金有之度奉懇願候。誠惶頓首。

熊本県本妙寺住職岩村日轟代理 明治十七年十一月 田尻万平 細川殿

御令扶中

(「兵燹諸堂焼亡再建築御助成歎願」 明治 17 年 11 月 本妙寺蔵)

この文書からは西南戦争で燃えた本妙寺を再建するにあたり、陸軍の将校・士卒から寄 付を願ったことが読み取れる。こうしたことから本妙寺が従来からの支援者である細川家 に合わせて、熊本に駐屯した陸軍の援助を求めていたことがわかる。この翌年(明治 18 年)

には本妙寺で清正公 275 遠忌が営まれ、清正公霊廟である浄池廟拝殿もそれにあせる形で 再建されていった(註7)。

熊本と同様に城下町が近代になって、軍都となった仙台でも佐藤雅也によれば「近代的 な形態と民間伝承とが、国民統合のもとに対立・競合・淘汰・包摂されるという関係だけ ではなく、両者が併存、混在化し、民衆・常民の新しい文化を形成していくという変容の 過程がある」という(註8)。これらのことをふまえると、清正公信仰が陸軍の影響を強 く受け、清正公が後に軍神としての側面を強めていく契機の一つになったと思われる。

一方、明治政府の富国強兵政策の影響もあり、これまで広がっていなかった地域でも清 正公信仰が見られるようになる。こうした地域の一つに北海道がある。熊本から北海道に 屯田兵や開拓者として移民した者たちが中心に清正公を祀りはじめた。しかし、最初に清

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