第四章 流行神としての清正公信仰 ―民衆へ清正公信仰の広がり―
第三節 清正公信仰の流布者
1、清正房伝説と遊行宗教者・巡礼者
天明の打ちこわしを契機に 200 回忌の頃から関東・中部・関西などを中心に民衆に広が った清正公信仰であるが、それ以前から清正公信仰が広がる素地が確立していたからこそ、
この時期にこれだけの広がったのではないかと思われる。すなわち、清正公信仰を民間に 流布する人々の存在が 200 回忌の頃には在野にはすでにいて広げていたのではないかと考 える。
それを裏付けるように『寺社例帳』二(寛保 3 年 6 月の条)には、宝永 7 年(1710)に は清正公百回忌が行なわれ、「肥後藩雑踏警備に足軽などを出す」とあり、多くの参拝者が 本妙寺には出ており、熊本ではすでに信仰されていたことがわかる(註1)。
清正公没後 125 年頃、享保年間(1716~35)に 14 世日證が著した本妙寺の由緒や年中行 事等を記した「発星山之記」には、毎月の清正公の逮夜に通夜参拝者が多くなったことや、
参拝者を当てにして仮店や林間に茶店が出ている様子が記されていて、清正公信者がかな りの人数に及んでいることが記されている(註2)。また、この文書の中で清正公は、その 法号から「日乗居士」と書かれているが、ただ一か所だけ「日乗神祇」と記されており、
この時期から熊本の中で清正公が神として祀りはじめたことが想像される。
では、この時期に清正公信仰を流布した者たちはどういった人々だったのか。池上尊義 によれば、清正公信仰は加藤清正の祈願寺であった本妙寺が加藤清正の死後、清正公の霊
を祀る加藤家の菩提寺になったが、加藤家の改易にともない寺領を維持することが難しく なったので、庶民に清正公の廟所であることを売り出したのではないかという。
また、『新熊本市史 通史編 第三巻 近世Ⅰ』によれば、熊本の日蓮宗が加藤家の改易 を期にして農村部に布教をはじめたのは、領主家の寺院として特殊の地位や特権を失い、
新たな支持基盤の開拓を求めざるをえない状況に立たされたからであるが、すでに真宗教 団の農村浸透が進み、その展開を拒まれたようであり、真宗教団が農民の宗旨であるとす るならば、日蓮宗は都市部の町人の宗旨としての特色を示しているという(註3)。
清正公信仰の広がりに日蓮宗の民衆への布教が大きな影響を与えていることは、先の『翁 草』「諸国飢饉」からも読み取れる。それは清正の霊を中心とした打ちこわしの暴徒達の暴 れ方に関する記載の中に見られる。「適是に立会者は蹴散され、少々怪我する者は有れ共、
死傷の者は一人もなし、斯く家々を破却する中にも、法華宗をば少し容赦する様子なり」
とあり、日蓮宗(法華宗)だけ、清正公の霊に特別扱いされることが書かれており、日蓮 宗と清正公の関わりが読み取れる(註4)。
山田雄司などによれば、斎藤実盛の怨霊伝承の広がりに時宗などの遊行上人の関わりと
『平家物語』の普及があったといい、こうしたことを考えると日蓮宗が清正公の亡霊の伝 承を利用して布教したことは、十分に考えられると思われる(註5)。
池上尊義や田中春樹は日蓮宗の中でも六条門流の宗教者が清正公信仰を中心に広げたと 考えている。先にみたように清正公を祀る寺院は、六条門流(京都本國寺派)のものが確 かに多い。しかし、誕生寺をはじめ、本門寺などの他門派でも祀られている。
そこで、改めて清正公信仰を広げたものたちは、どういった者たちだったのか、再検討 していきたい。まず、清正公を祀っている寺社の縁起などからその点を考えてみたい。
北海道札幌市琴似では明治 8 年に屯田兵第一大隊一中隊が入植し、その隊員の宮城県亘 理町出身の東山源左衛門・源八郎親子が奉じする清正公像を祀ったといわれ、同じ北海道 の江別市にある江別神社は明治 18 年に熊本県より移住した屯田兵たちによって飛鳥山の地 に建立されたといわれる。ともに厨子に入った清正公を持ってきたとされている。
山形県鶴岡市丸岡では加藤忠広が配流となった際、清正公の尊骨を熊本から庄内丸岡に 保持し、忠広の館の奥庭に埋葬して大磐石をおいて隠匿したとされる。地元の人々はこの 大磐石を「太夫石」と呼び、正応院を埋葬した場所という「巫女石」と呼んで祀ってきて おり、その名称から遊行宗教者の関与を想像させる。この隣接地に清正公を祀る天澤寺が ある(註6)。
神奈川県相模原市田名地区の旧家に伝わっている清正像は、分家筋の者が何処からか背 負ってきたものだと伝わっている。一説によれば、明和(1764~1772 年)に九州に旅行に 行き、購入してきたものだといわれている。像の焼印から熊本の本妙寺からのものだと考 えられる(註7)。
愛知県名古屋市熱田区神宮にある栄立寺は、島原(あるいは吉原)の遊女が請け出され 熱田に来て、写経した法華経を張って作った清正像を祀ったと伝わっている。文政 12 年
(1829)にそれにあわせて寺の山号を清正山と改めたといわれる(註8)。また、同じく名 古屋市西区浅間にある妙見寺は、清正公像を奉じて諸国を巡った田中宇助が庵を結んだの がはじまりだといわれている(註9)。名古屋市中川区東中島に伝わる清正像は明治 30 年 頃に名古屋から熊本まで夫婦で歩いて行き、本妙寺で受けた像を背負って帰ってきたとい
う話が伝わっている(註 10)。
これらの事例から何時の時代でも旅人、遊女そして宗教者などのような遊行の徒が各地 の清正公信仰に関与していることがわかる。それを裏付けるように現在祀られる清正像も 小型のものが多く、また、笈や小型の厨子に入ったものもあり、持ち運びしやすいものだ った。
では、清正公を奉じる遊行者の始まりは、どういった素性の者たちだったのだろうか。
それを考えるのには、清正公信仰に大きな影響を与えた日蓮宗の歴史をみる必要があると 思われる。先の池上などによれば 1633 年に加藤家は改易され、それにともない熊本の日蓮 宗(六条門流)が動揺した。最大の支援者であった加藤家がなくなることにより、新たな 信者(経済基盤)を求めて民間へ広がったのではないかというのである。確かにそうした 側面はあると思われるが、日蓮宗の他門派にも広がった説明にはならない。日蓮宗全体で の大きな動揺が背景にあるのではなかろうか。
それは日蓮宗不受不施派の弾圧が強くなっていたことがあるのではなかろうか。加藤家 の改易が起きた 3 年前、1630 年に「不受不施派」と「受不施派」との対決が明らかになっ た「身池対論」が起きている。これは日蓮宗内部に大きな動揺を与えたと思われる(註 11)。
不受不施派の信者は、日蓮の地元であった上総国、下総国、安房国や室町期に日蓮宗勢 力が拡大した備前国、備中国に多く潜伏していた。彼らは幕府の厳しい摘発を受け、隠れ キリシタンのように刑罰を受けるか、改宗の誓約書を取られるかした。不受不施派の信者 は他宗他派に寺請をしてもらうが内心では不受不施派を信仰する「内信」となる者が多く、
一部の強信者は他宗他派への寺請を潔しとせず無籍になって不受不施派の「施主(法立)」
となった。また、不受不施派の僧侶は「法中」と呼ばれ、それを各地の「法燈」が率いた。
そして不受不施派では教義上「内信」は不受不施の信者とは一線を画され、直接「法中」
に供養することが出来ず、「施主」がその間を仲介するという役割を果たした。この信者同 士の絆が強固な地下組織を形成し、この禁教の時代を生き抜いたといわれている。
こうした地下組織を通じて清正公信仰が広がっていた可能性が高い。それを裏付けるよ うに日蓮宗不受不施派の中心寺院でもあった池上本門寺や誕生寺は、清正公信仰と繋がり が深く、清正公を祀っていた。そして、清正公によって朝鮮半島から連れてこられ、清正 公信仰に大きな影響を与えたと考えられる日延は、寛永7年(1630)の「身池対論」の後、
追放と流罪の科を受けた。
日延は誕生寺を出た後、誕生寺の隠居寺であった覚林寺を開き、九州下向し(あるいは 追放され)、寛永9年(1632)には博多の法性寺に身を寄せ、福岡藩主・黒田忠之の帰依を 得て薬院(現・警固)に 9000 坪の寺地を賜り、香正寺を創建した(註 12)。 萬治3年(1660)
には、日延は「故国の朝鮮の見える地に居住せん」と藩主に願い出て、伊崎の浜(現・唐 人町)に三千坪の寺地を賜り、海福山妙安寺を建立した。寛文5年(1665)正月 26 日、喜 寿を迎えた年に上人は生涯を終えている。 彼が開山した江戸の覚林寺や福岡の香正寺は清 正公信仰の中心地の一つとなっており、そこから清正公信仰が日本各地に広がっていった ことが想像される。
清正公信仰が広がった背景には、日延のような不受不施派の僧侶の活躍があったと思わ れる。圭室文雄は「近世中期以降、幕府の統制が厳しくなると、隠れ題目の名のごとく、
不受不施派は潜伏した信者たちを中心にその法灯が守られてゆくことになる。しかし度重