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結 論 ― 日本の宗教文化と神仏習合

1.日本人の宗教意識と宗教人口

 日本の宗教文化を解きほぐしていく手がかりとなるのが、現代日本人の宗教意識がどのようなもの であるかという点である。これについては、統計数理研究所が、昭和 28 年(1953)以来、5 年おき に「国民性の研究」と題した大規模な全国調査を行っている。

 宗教に関する最新のデータは、平成 25 年(2013)第 13 次全国調査に含まれているが、「宗教を信 じるか」の実際の質問は「宗教についておききしたいのですが、たとえば、あなたは、何か信仰とか 信心とかを持っていますか?」の問いに対して、答えは「1.もっている、信じている」と「2.も っていない、信じていない、関心がない」の2択である。結果は、「1.信じている」が 28%、「2.

信じていない」が 72%であった( 1 )。もっともこの割合自体は、何ら驚くべきものではない。第 1 次調 査以来、ほぼ一貫して「信じる:信じない」は、3 割:7 割の構成比を示してきた。ただ欧米等の外 国と比較すると、この構成比はほぼ逆転しており、要はこの日本における 7 割を字義通りに「無宗 教」あるいは「無神論(atheism)」と捉えてよいかという点である。

 第 6 次調査(1978)までは、この 7 割に対して「『宗教心』は大切か」という 2 次的な質問を行 なっている。即ち「それでは、いままでの宗教にはかかわりなく、『宗教的な心』というものを、大 切だと思いますか、それとも大切だと思いませんか?」との質問に対して、平均 73.2%が「大切で ある」、平均 14.4%が「大切でない」と答えている( 2 )。第 7 次(1983)から第 13 次(2013)調査では、

同じ質問を全員にしているが、7 回の平均値をみると、「大切 71%」「大切でない 16%」「その他 4%」「D.K.(わからない) 9%」という結果を示している( 3 )

 概括すると、日本人の約 7 割は宗教を信じていないが、同じく約 7 割は「宗教心」は大切だと思 っているということになる。一見すると矛盾しているが、素直に捉えれば、大方の日本人の、漠然と した宗教心は抱いているものの特定の宗教団体に所属してその教義を信仰しているわけではないとい う自画像を見出すことができる。

 ところがそれと大きく相反するのが、所謂、宗教人口の側面である。宗教人口とは、我が国の宗教 団体から毎年提出される信者数・教師数などを宗教関連統計として文化庁文化部宗務課においてとり まとめたものである。それに入る前に、現在の日本人の人口について見てみると、総務省統計局のホ ームページによると、平成 28 年(2016)10 月確定値は、1 億 2502 万人となっている( 4 )。宗教関連統 計の最新のデータは、平成 25 年(2013)12 月 31 日で、全国の神社・寺院・教会・布教所その他な どの宗教団体(宗教法人を含む)から提出された信者総数は、1 億 9017 万 6262 人で人口の 1.52 倍 となっている( 5 )。信者総数は、平成 21 年(2009)までは 2 億を突破していたのでこれでも緩やかな減 少の途上にある。このうち、神道系の信者総数は、9126 万 343 人、仏教系のそれは、8690 万 2013 人であるので、総計 1 億 7816 万 2356 人となり、全体の約 94%を占める( 6 )。重複(double counting)

が、神道系(神社)と仏教系(寺院)の間で主に生じていることは明らかである。だが、この重複自 体は、何も異常なことではない。神社は、各々の氏子数、寺院は檀家を基盤とした人数に、各神社・

寺院の祭や法要に関わる役職者や定期的な参拝・参詣者を加えて信者数をカウントしているのである

から、特にこの両者で重複が生ずるのは言わば当然である。

 まとめると、日本人の7割は宗教を信じていないが、神社の氏子であり、一方で寺院の檀家であっ て、両団体からは信者としてカウントされ、その総数は、1 億 7800 万人に達するということである。

渡辺浩希は、この状態を、「日本的な文化宗教」として了解し、定置すべきだと言う

( 7 )

。  

 「文化宗教というのは、少なくとも純粋なあるいは熱烈な信仰心をともなわない

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

『行事

4 4

』なのであ る。賽銭なりお布施なりを拠出する行為は、そのような信仰心をともなわない

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

『慣習

4 4

』にしたがっ ているだけである。にもかかわらず、教団側からすれば彼らは信徒に他ならない。『信仰をもたない

“ 信者 ” が重層的に存在している』これがこの国の宗教のありようなのである(“ ” つきの信者は、勿 論、教団にとっての信者という意味である( 8 ))」(傍点筆者)

 宗教意識と宗教人口に大きなズレが存在することは統計的事実として受け入れるにしても、それを

「文化宗教」として理解するという点には躊躇せざるを得ない。そこには、「宗教」概念についての考 察が欠けているからである。まず、「日本人の 7 割が宗教を信じていない」という調査結果の根底に は、「宗教」の概念や実態に対するネガティブなイメージが付着しているのではないだろうか。

 「宗教」は、religion の訳語として明治の初期に成立した用語である。神仏分離を経た明治政府の 当初の政策は、神道国教化であったが、これが帝国憲法の条文として準備されつつあった「信教の自 由」と齟齬をきたすようになり、結果として神道は宗教から脱し、国民の「道徳」として標準化され、

神道以外の諸宗教(教派神道を含む)が「宗教」の名の下に統括された( 9 )。これが契機となり、以降の 政府による様々な宗教弾圧が、民衆の中に「宗教」を低く見るネガティブな意識を醸成し、1980 年 代末から 90 年代中頃にかけての一連の「オーム真理教事件」がその見方を決定的なものにしたとも 考えられる(10)。前述の質問調査でも、宗教に対してネガティブな反応を示す同じ層が、「いままでの宗 教にはかかわりなく」という前提を付ければ、「宗教心」は大切だと答えるのである。

 宗教概念について考察すべき第二は、宗教は信じる・信じないという信仰(belief)と表裏一体の 関係にあるという点である。上述の引用部分で言うと、行事や慣習は宗教に含まれないのであろうか。

もし含まないという立場をとるとすれば、宗教概念自体がかなりキリスト教(Christianity)、特にプ ロテスタンティズム(新教)に近いものとなる。「宗教を信じるか」という質問に対して、キリスト 教的な信仰型宗教を想定して、No と答えてしまう一般の日本人の反応は、極めて当然とも言えるの である。しかしながら、「行事」や「慣習」などの「実践(行為)practice」がそこに含まれるとす れば、反応はおのずから異なってくるであろう。だが、宗教学や日常的文脈における宗教概念が、実 践的側面を包摂するものとはなっておらず、その点に対する批判や反省が噴出しつつあるのが現状で ある(11)

  人 類 学 に お け る 宗 教 研 究 に お い て も、 こ れ ま で「 ア ニ ミ ズ ム animism」、「 シ ャ ー マ ニ ズ ム shamanism」、「呪術 magic」、「妖術 witchcraft」など様々な概念(範疇)が立てられてきたが、いず れも「準=宗教」の位置でしかなかった。さらに敷衍すれば、世界宗教においても、キリスト教を 除けば、その他の宗教は、接尾に「…ism」が付され、それに抵抗しているのは「イスラーム Islam」

のみという状況である

(12)

。この根底に、religion ≒ Christianity という認識が在ることは明らかである。

今仮に、信仰を基礎とした宗教を「信仰宗教 religion believed in」、実践体系が主である宗教を「実 践宗教 religion in practice」と二分するとすれば、キリスト教(新教)が前者の、イスラームが後者

の典型となる。そして我が国の宗教も後者に含まれる。ピエール・ブルデュー(1930-2002)は、こ の実践概念の重要性を、それまでの主知主義的な概念に代えて文化理論一般に拡大した(13)。宗教人類学 者、タラル・アサド(1933-)は、実践という語は用いないものの「規律=訓練 discipline」という 概念で実践宗教の特徴を描いた

(14)

。神道であれ、仏教であれ、我が国の宗教が実践宗教の特徴が濃厚で あることは明白である。霊場を参詣する老婦人に、祭りで神輿を担ぐ青年に、あなたはここに祀られ ている仏や神を信じているのかと問うことが、いかに実践宗教の文脈を無視した的外れな質問である かは了解されるであろう。

 第三に、宗教人口の重複に関してであるが、既に第 1 章で述べたように、寺院と神社が制度上別 の組織として扱われるようになったのは、明治元年(1868)の神仏分離以降のことである。それま では、大雑把に捉えれば、「寺社」という同一範疇にあった訳であるから、強制的な分離の後、社寺 の双方に信者の重複が生じてもそれほど奇異なことではない(15)。むしろそうした「寺社」に支えられた 宗教実態が、「多配列的な」神仏習合であり、その開始期を 8 世紀後半とするなら既に千年以上にわ たって日本人は、その「心意」に慣らされ続けてきたのである(16)。19 世紀後半になって急遽「単配列 的な」寺院と神社に分けられ、その両方から信者としてカウントされたからといっても、民衆の側か ら異論が出るはずもない。確かに、例えば、欧米のキリスト教国で、キリスト教会とイスラームのモ スク、そしてユダヤ教のシナゴーグから報告される信者数にこのような重複が報告されたとすれば、

それは異常事態である。教義上も一神教であるそうした宗教間で、重複は起こり得ないからである。

しかしながら我が国は、それとは全く異なる宗教文化を担ってきた。それは単に多神教であるだけで はなく、その中核には神仏習合という異種混淆性(hybridity)も認められるのである(17)

 このように、日本人の宗教意識や宗教統計における現在までの調査結果について、宗教を異にする 諸外国との比較においては「特異」に見えるかも知れず、またそれが日本人の宗教的曖昧さを象徴す るものとも捉えられてきたのだが、日本の宗教文化の文脈に即して考えれば必然的ともいえる結果で ある。要は、その宗教文化の中核をどう捉えるかである。

 先に引用した渡辺浩希は、井門富士夫・竹村牧男が呈示する「文化宗教」の概念を用いて説明して いる(18)。「文化宗教」とは、

 「文化的な枠組み

4 4 4 4 4 4 4

のなかでの一種の宗教行動。例えば初詣にいく。また七五三などの際にはお参り にいく。あるいはお盆になると、帰省をして、仏壇に手を合わせる。お墓参りにいく。その神社やお 寺にたいして何か特別な信仰をもっているわけでもない。けれども、そのときどきにそういうことを しないと気がすまない。その神社にどういう神さまが祀られているのか、そのお寺の宗旨は何か、御 本尊は何かということは知らない場合が多い。本来の宗教的な意味合いというものが希薄化した、脱

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

落した状態4 4 4 4 4で、ある種の行動のための無意識の枠組み4 4 4 4 4 4 4があって、それにそって宗教的な行動をする、

いわば年中行事的に人々が行う行動様式、そこに見られる宗教現象をいう(19)。」(傍点筆者)

 ということであるが、この「文化宗教」という概念自体が、一種のトートロジーに陥っているとも 思える。つまり、ここに挙げられた例示は、現代日本人の宗教行動の「結果」である。その結果を生 み出す「原因」に当たるものが、ある種の無意識の、文化的枠組であって、それは本来有していた意 味を失い、形骸化したものである。その結果、現在のような宗教行動が見られる…というように、循 環してしまう。では、本来あったとされる宗教的意味とは何か、それは歴史的にいつ、どのように形