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湖底に沈んだ文化資源 − 地域開発と文化保存

第4章  山岳寺社と神仏習合− 文化資源論への展開

第2節  湖底に沈んだ文化資源 − 地域開発と文化保存

1.はじめに

 「文化資源(cultural resources)」は、学問的な用語として確立された定義を持つ概念ではない。だ が実例を通して見ればその意味するところは比較的分かりやすい。例えば山下編『資源化する文化』

では、現代日本の文化政策の展開の中で「ふるさと」という概念が国家の政治資源として利用される ことになったことの分析、あるいはオーストラリア・アボリジニの美術が国家と先住民の相互関係を 通して文化資源化していく動態の分析や、京都府美山町の「里山」が観光資源化していく過程の分析 などが取り上げられている( 1 )。総じて文化資源という概念は、ある文化が対象として認識され、資源化 されていくという動態(dynamics)と切り離せない。それは、文化財保護法の制定以来既に半世紀 を経た、行政と密着した「文化財(cultural property)」の形式性や静態性を超え、あるいはそこか らこぼれ落ちる対象を吸収する柔軟性に富む概念でもある。本稿が対象とする事例は、福岡県朝倉市 の山間地域である江川に関わるものである。江川地域の信仰の中核に位置する神社と寺院を取り上げ、

そのハード面(モノとしての側面)とソフト面(民俗、特に儀礼実践や信仰)の両面から考察するも のである。しかしながら、ここには単純な調査を阻む二重の困難がある。まず、昭和 40 年代の江川 ダムの建設によって地域を構成する集落の大半が水没してしまったこと、そして今また計画(着工)

されつつある小石原川ダムの建設によって残る構成集落も一集落を除いて移転を余儀なくされている ということである。かといって注意しなければならないのが文化が「消滅」したわけではないという ことである( 2 )。神社も寺院も水没はしたが、新たな場に移転し、同じく移転した人々によって支えられ てもいる。しかし、施設も人々も本来の「場」から引き離されている以上、かなりな変質や変化を遂 げていることは当然である。だとすれば、江川地域の信仰の原型を探るべく、地誌や歴史的史料や文 献、さらに先行研究も含めて手にし得る資料を駆使して考察しなければならない。かなり応用的では あるが、文化資源の「真正性(authenticity)」に関わる「遠隔(remote)」研究を試みたいのである。

 秋月を抜けて国道 500 号線に入り、曲がりくねった坂道を登っていくとやがて右側に巨大な江川 ダムの本堤が見えてくる。本堤を過ぎると右側に広がるダム湖、上秋月湖の秀麗な風景に目を奪われ がちになるが、気をつけて進むと沿道左手に石鳥居を前にしたひっそりとした瓦葺の社殿が見える。

江川高木神社である。どこといって特徴があ るわけでもない平凡な神社の佇まいである。

昭和 40 年代に江川ダム建設によって移転さ れた後の景観であり、本来の社殿の場は上秋 月湖の湖底深くに沈んでいる。江川谷の中心 に位置し、江川七村( 3 )を束ねたかつての大行事 社は、近世中期の『筑前国続風土記附録』の 著者らに「石階八十余級を登りて社頭にいた る 宮所ものふりて自ら神霊の鎮り給ふへき 所也」と語らせた神秘的な景観を保っていた が、今では見る影もない。それでも江川の各

写真1.高木神社(2009 年藤坂撮影)

集落の人々にとって今日でも大事な神社であることには変わりはない。移転に際して、当初社殿の位 置が道路より低かったので、住民らは慌てて急遽盛り土をして社殿を上げたということである。また、

今も正月と春・秋の祭礼には全集落から代表者が集まって祭式・参拝を続けている。この高木神社

(大行事社)は江川の人々にとって今も昔も信仰の中核を構成しているのである。

 当然、ダム建設に伴う江川谷からの移転に際しての「民俗資料緊急調査報告」でも大行事社につい ては力点が置かれている。執筆は、民俗学者佐々木哲哉氏であるが、同社に関して当時見ることので きたあらゆる史料を駆使して考察している( 4 )。それは、調査報告の域を超えて質の高い研究論文とも言 うべきものである。約 40 年前のこの研究が、同氏のその後の宮座研究を中心とする諸研究の起点と なるのだからそれも肯ける所である。また同氏がその論考で用いた史料の中には、今日ではもはや見 ることのできないものもある。従って、その後発見された部分は追加するとしても、佐々木氏とほぼ 同史料を用いて、筆者なりの視点から再考察を試みることとした。同氏のこの論考以降、民俗学にお いて大行事社や宮座の研究が大きく進展したわけではない。神仏習合を対象とした筆者なりの研究視 点から、佐々木氏の論考を再考察し、何らかの仮説を呈示したいと考えている。考察の中心は、高木 神社と言うより大行事社、即ち時代的に古い方が中心となり、現在の江川の人々の思いが及ばない事 も出てくるであろう。しかしながら、それが、江川高木神社(大行事社)が有する高い価値なのであ る。江川地域の「信仰の原型」を研究テーマにして、文化資源の「真正性」を探っていくことにした い。もう一方の信仰の核を構成した浄土真宗寺院、常法寺については、第4節で述べることとする。

2.江川高木神社(大行事社)の系譜−モノから見た文化資源

 江川地区全集落の総氏神の性格を持つのが、江川高木神社である。旧社地は、江川ダムに水没し、

ダム湖の畔の道路沿いに社殿が移転されて現在に至っている。この高木神社は現在のひっそりとした 佇まいとは対照的に、近世までは「大行事社」として、明治初期の神仏分離以降は「高木神社」と改 称させられたが、江川全地区の信仰の中心に位置づけられる神社であった。ここでは、主に近世や近 代初期の地誌や史料からその様相に迫ってみたい。

 まず、寛政十年(1798)の『筑前国続風土記附録』(加藤一純、鷹取周成編)であるが、江川の

「大行事社」記載は以下の通りである。

「  大行事社  神殿 方二間 拝殿 二間半 四間半 祭礼 九月十五日  石鳥居有 奉祀 圓光坊

江川七村の産神也。高皇産霊尊 伊弉諾尊 伊弉冊尊を祭れり。

石階八十余級を登りて社頭にいたる。宮所ものふりて自ら神霊の鎮り給ふへき所也。社内に大神 宮 山祇二祀有り。社説に天長十一年彦山の神領四十八所ごとに大行事社を立らる。此社も其一 なりとぞ。」

 この後には、この大行事社(圓光坊)が管轄した末社・末堂が集落名(村名)を付して述べられて いる。即ち、「山神社」(栗河内)及び「山祇六祀」(大河内、尾祓、大河内、下戸河内鮎帰、高野河 内)、「天満宮」(大河内)、「恵比須神」(大河内)、「観音堂六宇」(尾祓、下戸河内、鮎帰、井口、井 口、栗河内)、「阿弥陀堂」(高野河内)、「虚空蔵堂」(尾祓)、「薬師堂」(鮎帰)、「地蔵堂二宇」(下戸

河内、栗河内)である。末社・末堂に関して は、概して、山伏圓光坊の影響もあってか、

山ノ神と仏堂が色濃い印象を受ける。しかし、

「江川七村の産神」とはされても、大行事社 は、天長十一年(834)に彦山神領 48 ヶ所 に立てられた大行事社の一つとされているこ とが重要である( 5 )。まずはその点から考えてい きたい。

 佐々木哲哉氏が、元彦山神社権宮司の熊懐 充彦氏より筆写した史料に「往古彦山神社領 境内大行事社縁起」がある。原本は近世末期 のものと推定されるが、昭和四十二年の火災で焼失したようである。ここには領内大行事社について 彦山側の所伝が載せられている。それによれば、弘仁十三年(822)第四世羅運によって、七里四方 の神領内に、六八の世を超える阿弥陀の悲願に擬して四十八ヶ所の大行事社が設置されたと伝えられ る。羅運とは、彦山中興の祖とされる法蓮の弟子で没年は、嘉祥三年(850)である。一方、法蓮は 弘仁七年(816)に勅賞によって四維七里の神領を賜ったとされているので、9 世紀前半という起源 説は首肯できる範囲内にある。

 さて「大行事社縁起」は、48 社を四つに区分している。

1.四土結界地内大行事社 6ヶ所

 祓川より一の鳥居の間の中心神域内の汚穢不浄を取締まる守護神であり、点てんない合護法神と呼ば れる。ここには、養老五年(721)法蓮が高皇産霊神を勧請して建立したと伝えられる産霊神社

(大行事社)をはじめ、「彦山第一窟」「下谷」「西谷」「北坂本」「南坂本」の6社が含まれる。

 2.六峰内大行事社 7ヶ所

 豊前国の天台派修験の道場となっていた六峰で、「福智山」「京都郡等覚寺第十三千仏窟」「京 都郡蔵持山第二窟」「築上郡求菩提山」「築上郡松尾山」「下毛郡桧原山」「壁野窟(第四九窟)」

の7社である。

 3.山麓七大行事社 7ヶ所

 前述した弘仁年間に勅賞として賜った七里四方の神領荘園内鎮守神の惣社として設置された もので、守護不入の境界を示す。「田川郡添田」「朝倉郡黒川」「朝倉郡上須川」「朝倉郡福井村」

「日田郡朝日村」「日田郡小野村」「下毛郡森実村」の7社である。

 4.各村大行事社 22 ヶ所

 神領内の各村に配置された鎮守神であり、22 社の地名が挙げられている。

 以上、総計すると、42 ヶ所となり、6社が不明となるが、同縁起が近世末と推定されることから、

その時点でおそらく各村大行事社に含まれる 6 社の同定が不能であったと思われる。江川大行事社 は各村大行事社に含まれている。

 この 4 区分については、産霊神社を起点とする中心神域とその周辺に広がる七大行事社を各地区 の中心とする七里四方の神領、さらに彦山を取り囲む豊前六峰と呼ばれる宗教的拠点地区に大きく二 分することができる。この内、前者について「大行事社縁起」は、往古彦山第一之門として「佐田村 字仏谷の通堂(天正年中小早川隆景建立、その後鍋島紀伊守再建)」、第二之門として「小石原霊仙見

写真2.江川時代の高木神社(常法寺所蔵)