第4章 山岳寺社と神仏習合− 文化資源論への展開
第1節 弥谷寺の信仰と民俗
1.弥谷参りの行方
四国八十八箇所霊場第71番札所の弥谷寺について最も著名な宗教民俗は、「弥谷参り」である。
1999 年刊行の『日本民俗大辞典』にも同名項目として取り上げられ、以下のように解説されている。
「香川県西部に行なわれる、死者の霊を弥谷山に送って行く習俗。弥谷山は香川県三豊郡三野 町と仲多度郡多度津町にまたがる標高 382 メートルの山で、300 メートル付近に四国八十八ヵ 所の第71番札所、剣五山弥谷寺(真言宗)がある。この山は香川県西部、ことに三豊郡・仲多 度郡・丸亀市およびそれに属する島嶼部一帯で死者の行く山と考えられており、葬送儀礼の一環 として弥谷参りが行なわれた。特に近年まで盛んだったのは荘内半島(三豊郡詫間町)である。
同地の例では、葬式の翌日か死後三日目または七日目に、血縁の濃い者が偶数でまずサンマイ
(埋め墓)へ行き、『弥谷へ参るぞ』と声をかけて一人が死者を背負う格好をして、数キロから十 数キロを歩いて弥谷寺へ参る。境内の水場で戒名を書いた経木に水をかけて供養し、遺髪と野位 牌をお墓谷の洞穴へ、着物を寺に納めて、最後は山門下の茶店で会食してあとを振り向かずに帰 る。この間に喪家でヒッコロガシと呼ぶ竹製四つ足の棚を墓前につくり、弥谷参りから帰って来 た者が鎌を逆手にもってこれを倒すという詫間町生里などの集落もある。山中を死者の行く他界 と考え、登山し死者供養を行う例は各地にあるが、死亡後まもない時期に死霊を山まで送る儀礼
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
を実修するところ
4 4 4 4 4 4 4 4
に、この習俗の特色がある。近年は弥谷寺で拝んでもらい、再び死者を負うて サンマイに連れ帰るとするところも多く、弥谷寺ではなく近くの菩提寺ですます習俗も広まって いる。なお、イヤダニやイヤを冠した地名(イヤガタニ、イヤノタニ、イヤンダニ、イヤガタキ、
イヤヤマなど)は古い葬地と考えられ、弥谷山にもその痕跡がみられる( 1 )。」(傍点筆者)
弥谷参りの主体が死霊であり、死霊が生者に背負われて弥谷に参るというイメージは強烈である。
また、1950 年代、この習俗を「イヤダニマヰリ」として中央学界に紹介したのが地元、多度津町に 在住した民俗学者、武田明であったことも印象的である( 2 )。柳田民俗学の「死者の霊魂は里に程近い山 に籠る」という祖霊観に適合することもあって、全国的に流通するところとなる。というよりそうし た死霊・祖霊観を立証する事例ともなっていく。
こうした動きに警告を発したのが、2003 年『日本民俗学』誌上に発表された森正人の研究ノート
である( 3 )。まず森は、フォークタームとして「イヤダニマイリ」として括られるこの習俗がかくも明
確であるなら、何故に戦前の地方史、例えば『香川縣史第二版』(1909)や中山城山の『國譚 全讃 史』(1937)、また弥谷寺の地元、三豊郡大見村の『大見村史』(1917)にその記述がないのかを問題 視する。その理由は、「この習俗は香川県の民俗学者である武田明が発見し、民俗学界にその存在を 発表したから( 4 )」であるとして、武田の民俗学者としての成立過程、研究史、調査記録、中央学界との
関わりと地方学会(香川民俗学会)における権威化、関係者の証言、さらに現地調査まで含めて詳細 に検討する。そして弥谷に参る習俗の存在は認めるものの「イヤダニマイリ」という民俗範疇につい ては、武田がそれを設定し、地域的差異を示す他の用語や表象もそこに収斂させていったことを論証 した。森の指摘は重要である。それが弥谷参りのみに留まらず、他の事例も含めた民俗学全体の研究 方法への批判を孕んでいるからである。本稿ではそうした全体的(民俗学)批判も受け止めつつ基本 的枠組を設けるつもりであるが、それについては後述することして、武田以降、この弥谷参りの問題 を前進させた説として、赤田光男の論考の検討に移りたい。
そもそも武田の弥谷参りへの注目の基底には両墓制との関連があった。両墓制とは、「死体を埋葬 する墓地とは別の場所に石塔を建てる墓地を設ける墓制( 5 )」のことで、一般に前者を「埋め墓」、後者 を「詣り墓」と呼び、近畿地方に濃密な分布が認められるが、香川県にもある。というより、弥谷参 りがみられる荘内半島の生里、積、大浜などの集落、仁尾町、高見島、志々島、粟島といった島嶼部 一帯は、埋め墓を「サンマイ」、詣り墓を「ラントウ」と呼ぶ濃厚な両墓制地帯であった。武田説は、
簡潔にまとめるなら、古来、地域一帯の村々では「埋め墓」しかなく、霊魂祭祀の場が弥谷山であっ たのであり、その祭祀行為の残存が「弥谷参り」ではなかったか。そしてその後、弥谷山信仰が衰え ていくに連れて村内に「詣り墓」が形成されていったのではないかというものである( 6 )。これに対して、
赤田光男は、「弥谷山のすぐ下の大門、大見あたりであればこのことがあるいはいえるかもしれない が、両墓制地帯の荘内半島や粟島、志々島のような離れた所が、古くから弥谷山を唯一の霊魂祭祀場 としていたか疑問が多い( 7 )」として、荘内半島の一村落、約 225 戸から成る「箱」について平成三年
(1991)に両墓制と弥谷参りを中心にした集中的な調査を行った。その結果、箱では、初七日に死霊 を弥谷山に連れて行くことを「オヤママイリ」、永代経の時(旧二月十三から十五日)に弥谷山に行 くことを「イヤダニマイリ」と呼んで区別していること、オヤママイリ(弥谷参り)については、詣 り墓が設けられている村内の菩提寺(香蔵寺)の勧めもあって昭和二十五、六年(1950,1)頃、廃 止され、その後は香蔵寺がオヤママイリの対象となったことを明らかにした( 8 )。一方で、武田説には欠 けていた弥谷寺の歴史的研究も進め、境内の祭祀場や宗教遺跡の検討も進め、中世以来弥谷寺を崇敬 し保護してきた戦国時代の領主、香川氏や生駒氏、その後の山崎氏との関わりも考察している( 9 )。結局、
両墓制との関連において、荘内半島、箱を基点とした死後の霊魂祭祀の場としては、「①原始古代に おいては紫雲出山ないし家の盆正月に臨時に作られる霊棚、②中世においては、浦島太郎の墓伝説を ともなう惣供養碑的残欠五輪塔、さらに香蔵寺、弥谷山など、③近世においてはラントウ内の家型石 厨子や詣墓石碑、④明治以降においてはサンマイのオガミバカ(10)」の4段階を推定している。赤田説に おいては、弥谷山は「中世」において霊魂祭祀の場として大きな影響力を持って出現してきたものと される。どの時点か、については、「香川氏は天霧山に貞治元年(1362)頃に城を築き、またこの頃 に弥谷寺の檀越となり、山内に一族の墓地を作って菩提寺とし、弥谷山信仰を高め、そのことが庶民 のイヤダニマイリを拡大、助長したと推定される(11)」 としている。
赤田説は、弥谷参りと両墓制を概念的には分離し、また弥谷山及び弥谷寺の歴史を丹念に跡付け、
弥谷参りという習俗の隆盛の背後に、領主としての香川氏の影響力を指摘した点で武田説を改良・前 進させたものである。しかしながら、両者が一貫して持ち続けているテーゼがある。それは、「死霊、
さらにそれが浄化された祖霊は、里近くの山に籠る」という命題である。それだけは疑われることな く、議論の出発点に据えられている。歴史に目を向けた赤田も、古来より弥谷山は死霊(祖霊)の籠 る山であり、そこに仏教が入って歴史的に展開していったという見方は一貫している。だからこそ、
森が批判したように、数多い民俗の中でそれを直接的に例証する「弥谷参り」が、「選択的に」注目 され、取り上げられるのである。このテーゼが、柳田國男が 1946 年「先祖の話」において定式化し たものであることは言うまでもない。だが、決して定式ではなく、仮説として捉えなおし、再考すべ きだという考えは民俗学者にはないようである。例えば、赤田はこう述べている。「身体から離脱し た霊魂が、身体が朽ちてもなおどこかに住み続け、時々わが家を訪れて子孫の生活を守護するという 考えがまさに祖霊信仰の根幹をなすものであり、そうした宗教意識がいつ頃発生したのか明確な答え は今のところない(12)。」
歴史学者、佐藤弘夫は、最近、この問いに正面から答えている。「柳田國男が論じ、多くの研究者 が祖述してきた山に宿る祖霊のイメージは、けっして古代以来の日本の伝統的な観念ではない。人々 が絶対者による救済を確信できなくなり、死者が他界に旅立たなくなった近世以降(17 世紀~)に、
初めて形成される思想だった(13)」というのが、検討の結果得られた結論である。
佐藤の結論に従うなら、我々は次の問いに導かれる。中世の弥谷信仰とは何であったかという問い である。難しい問いではあるが、考察の手がかりはある。承応二年(1653)に訪れた澄禅をして「山 中石面ハ一ツモ不残仏像ヲ切付玉ヘリ(14)」と言わせ、元禄二年(1689)の『四国徧礼霊場記』(寂本)
で「此あたり岩ほに阿字を彫、五輪塔、弥陀三尊等あり、見る人心目を驚かさずといふ事なし。此山 惣して目の接る物、足のふむ所、皆仏像にあらずと言事なし。故に仏谷と号し、又は仏山といふな る(15)。」と記述された夥しい磨崖仏、石仏、石塔群である。中世を基点とする磨崖・石仏群こそが弥谷 信仰を担った相当数の宗教者の活動の「痕跡」に相当するものである。元文二年(1738)の弥谷寺 の智等法印による「剣御山彌谷寺略縁起(16)」では、阿弥陀三尊の磨崖仏の一帯が、「九品の浄土」と呼 ばれてきたとされるが、彼らの信仰内容の特徴は強烈な「浄土信仰」である。彼らの修行の情熱とエ ネルギーは当然外部社会にも向けられたであろう。中世を通じての彼らの活動(社会的交渉)の「結 果」が近世において「弥谷参り」という習俗を産み出したとは考えられないだろうか。
本稿では、浄土信仰を担った彼らがどのようなタイプの宗教者であったかを中心に考察を進め、さ らに四国遍路とどうつながるかについて、今回の「弥谷寺詳細調査報告」の資料に基づいて述べてい きたい。
2.中世弥谷(寺)の特徴−「弥谷ノ上人」のこと
『南海流浪記』は、高野山の学僧である正智院の阿闍梨・道範(? − 1252)が政争に敗れた結果、
仁治四年 (1243) に讃岐に配流され、建長元年(1249)に赦免されて高野山に戻るまでの紀行文であ る(17)。その間、主な配所であった善通寺を拠点に周辺の主だった寺に行っているので当時の記録として は貴重である。この記事の中に、宝治二年(1248)「十一月十八日、瀧寺に参詣す。坂十六丁。此の 寺東向て高山に瀧有り。古寺の礎石等、所々に之有り。本堂五間、本仏御作の千手と云々(18)。」という 記載がある。赤田は、距離(16 丁)や滝の存在(現在の水場のことか?)、本尊が千手観音であるこ とから、この瀧寺を弥谷寺としているが、断定はできない。既に『善通寺市史』(1977)では、『流 浪記』の前後の文脈やその他の史料を基に、「瀧寺跡」の場所を特定している。「瀧寺は、大麻山の中 腹にあった。弘法大師の創立であろうか。南海流浪記に…とあり、本尊は千手観音で弘法大師の作と 伝えられている。この瀧寺附近には、大川政時の居城内山城があったが文明 3 年(1471)に滅びた と伝えられ、その時にこの寺も消失して廃寺となったらしい。寺の名は、葵瀧の名をとって瀧寺と名