第4章 山岳寺社と神仏習合− 文化資源論への展開
第3節 英彦山の信仰と民俗
1.彦山信仰の錯綜
古代から現代に続く彦山信仰の全体を、ここでは「彦山」の総称で括っておくが、その特徴を一言 で言うなら大変錯綜して分かりにくいということである。古代・中世・近世・近代・現代と幾重にわ たる信仰の糸が織り成す誠に複雑な織物で、その文様を一挙に解き明かすことは難しい。現在、一般 の人々が彦山の山内に足を踏み入れても、一体何を対象にどのように拝めばよいのやら、途方にくれ てしまう。第一、彦山といえば、山伏を連想するが、その姿を目にすることもなければ、法螺貝の音 を耳にすることもない。これが現代の状況である。歴史を俯瞰して捉えてみると、彦山信仰には二つ の局面が認められる。第一局面に重要な情報を提供するのが、建保元年(1213)成立の『彦山流記』
である。成立年代に若干の疑義が示されてはいるが、鎌倉時代初期の彦山信仰の実態を伝えているこ とは間違いない。その詳細な解説は他章に譲るが、信仰面の最大の特徴は「神仏習合」である。神仏 習合とは、ただ単に仏教と神道が混合している状態を指す用語ではない( 1 )。神道という言葉が、今日の 神社神道と等しく捉えられてしまうので、六世紀中頃に我が国に仏教が伝えられる以前の土着の神々 に対する信仰を「神祇信仰」とすれば、それと公式/非公式に伝えられた初期密教を含む仏教との相 互交渉の中で、両者が総合された(syncretized)新たな段階である。歴史的には、八世紀後半には、
畿内を中心に「神身離脱現象」を契機に神を祀る神社に「神宮寺」が併設されていき、やがて、日本 の神は印度の仏が衆生救済のために姿を変えて現れたものだという「本地垂迹説」が一般化していく( 2 )。
『流記』の伝える信仰世界の背景にはこうした思想状況があり、彦山信仰を解明するということは神 仏習合を解読することに他ならない。『流記』には、信仰を支えた組織についても記述がある。それ は寺社勢力と呼ぶに相応しい大組織で、彦山神領とされるその支配領域は、豊前・豊後・筑前にまた がる「四境七里」の範域(四十八の大行事社)で、中心となる天台宗霊仙寺の大講堂(現・英彦山神 宮)には、講衆百十人、先達二百五人が詰め、さらに山内の南谷・北谷・中谷・惣持院谷に二百余り の坊があったとされる。組織は、鎌倉時代以降、さらに拡大していくのだが、この第一局面の彦山信 仰を一挙に遮断してしまう事態が生起する。近代の幕開け、明治元年(1868)の「神仏分離」とそ れに続く「修験道廃止令」である。神仏分離とは、簡単に言えば、第一局面の彦山信仰の中核であっ た神仏習合の禁止であった。そして組織の中核であった修験者(山伏)は、還俗や帰農を余儀なくさ れ、ほとんどが山を去った。しかし、彼らこそ民衆との間にあって、中世期は神領の大行事社を通じ て、近世では九州全域に分布する檀家を通じて、人々を山に導き、また村々の祭りや芸能を教導する 主体であった。この第二局面の事態とは、例えば、周辺地域に大きな影響与えた六百年続いた大規模 な学校から、教師が全員消えてしまい、残ったのは校長先生(座主=宮司)と生徒(民衆)、そして 施設だけといった事態である。しかし、神仏分離から約百五十年、我々が研究対象とできるのは、第 一局面の史料と第二局面を通じて人々に伝えられた記憶伝承や行為伝承しかない。ここでは宗教民俗 という視点からそれらを解きほぐしながら第一局面の彦山信仰の要点に迫りたい。
2.ヒコとヒメ−彦山信仰の基層
元来、ヒコとヒメは古代的な男女の呼称であるが、具象的な指示対象としては陽石(男根石)と陰 石(女陰石)を表す。記紀神話の国生み・神生み自体が男女の結合から始まる。我が国の山岳信仰に も濃厚な痕跡を残しているが、おそらく仏教以前の民俗信仰を反映している。彦山の山域でこの段階 の遺跡を挙げるとすれば、深倉峡の「男岩・女岩」であろう。男岩とは、崖上に屹立する男根形の自 然石であり、谷を挟んで「姥ガ懐」と呼ぶ、巨岩の岩陰(女岩)と対置している。平成八年(1996)
を第一回として、毎年十一月の第二日曜日に「男お と こ魂祭」が行われている。もちろん、この祭は現代的 に再編されたイベントに過ぎず、祭自体に歴史的な価値があるわけではない。しかし、祭に先立って、
姥ガ懐の女岩の岩陰に祀られた観音に対する法会が、篠栗の呑山観音寺の僧侶によって執行される が、その契機は地元の老婆の同観音に対する熱心な祈りであったという。男岩については、次のよう な伝承がある。天狗の悪さに村人が困っていた所、「権現様」がその天狗の子供を大きな岩に変えて しまった。ところがその後、その天狗の祟りと思える出来事が続いたので、慌ててその岩を探したが、
見つからない。ある日、姥ガ懐に「お参り」に行ったら、子供の泣き声がするので見上げたらその岩 がそそり立っていた。これが天狗の子供の化身かということで、男の神として祀るようになったとい うものである。単純な話ではあるが、「男岩」が、姥ガ懐(女岩)とセットとして崇拝されることが 説かれている。現在も、谷を挟んでこの両岩は長い注連縄で繋がれている。この段階の基層信仰と類 似するのが、四国の石鎚山の事例である。そこでは、石鎚山=天柱石(男根)と隣接する瓶ヶ森=瓶 壺(女陰)の対置として表れている。彦山の場合、このヒコ/ヒメの対比は、中興の祖とされる法蓮 の伝承に鑑みれば、広域では彦山/宇佐の対置に拡大される。
こうした仏教以前の民俗信仰に、時を経て雑密系法師集団が関与してくると、この男女の象徴的対 比は、ヒコ/ヒメ/ミコの三元論に転換し、山内の主峰に比定されるようになる。最高峰である南岳 にイザナギ、中岳にイザナミ、そして北岳にはミコ神
であるアメノオシホミミが祀られる。もっとも彦山の 場合、各々、俗躰嶽・女躰嶽・法躰嶽と称されてきた ように、当初より神仏習合色が顕著である。即ち、南 岳は「釈迦」が俗形で現れ、中岳では「観音」が女性 の姿で、そして北岳は、「阿弥陀」が僧形で垂迹した と伝える。この段階で熊野との類似性に気づくのは 自然である。熊野では、新宮=速玉(イザナギ)=
薬師、那智=イザナミ=観音、本宮=ケツミミコ=阿 弥陀という構成をとるが、ヒコ/ヒメ/ミコの三元構 造は共通する。石槌の場合であると、石鎚(ヒコ)/
瓶ヶ森(ヒメ)/子持権現(ミコ)の三峰構成である。
この段階の熊野や石鎚との共通性は、先述した『彦山 流記』にも述べられているし、『長寛勘文』(1163-4)
所収の「熊野権現御垂迹縁起」にも説かれている。熊 野と比較して、彦山の特徴を挙げれば、熊野は三山と
いう構成であるのに対し、彦山は一山で閉じて三所権 写真1.男岩(深倉峡)
現という形態をとること。それから、ミコ神の位置づけが熊野 に比べて、記紀神話との連続性が高いという点である。山内に は、高天原という地名もあり、天孫降臨の主役であるホノニニ ギは、後述する般若窟(玉屋窟)で誕生し、日向の国に降った との伝承もある。そしてこの点が、後に彦山の一山組織を特徴 付ける、皇室との繋がりをもつ「座主」制の根拠ともなってい く。さらに、彦山の場合、山内全体に基底にある男女の二項対 立の象徴性が充満している。彦山の修行形態の特徴は、山内の
「四十九窟」とされる岩窟への籠り行である。ここには、俗躰
(男)である行者が、岩窟(女躰)に籠り、何かを「結ぶ」(産 出する)というロジックが潜在している。
さて、彦山の神格にみられる三元構造がそれ以上の展開をし めさなかったのかというとそうではない。佐賀県(肥前)の呼 子は、近世期、鯨漁で名を馳せた唐津藩支配の漁村であるが、
集落に主な神社は二社あり、今日まで存続している。今は、三 社神社、八幡神社と呼ばれているが、近世期は、各々、妙泉坊、
龍泉坊という「彦山山伏」が社僧を勤めた神社である。このう ち、妙泉坊は神仏分離を契機として結局廃絶してしまったが、
龍泉坊は還俗して八や わ た幡氏と改名され、今日もその御子孫が神官 を勤められている( 3 )。同氏所蔵文書によれば、近世期の社名は
「熊野三社八幡宮」、一方の妙泉坊は「呼子三所権現」であった。
この龍泉坊には、近世期の掛け軸が二軸伝わっている。そのう ち、一幅には記述があり、龍泉坊林観が、安永六年(1777)に彦山に入峰修行したことを記念する 肖像画であり、天明五年(1785)に役廣延が記したとの記載がある。もう一幅の絵図であるが、彦 山の神々が描かれたものであることは推測できるが、何の記載もないので仮に「彦山垂迹曼荼羅」と しておく。龍泉坊のような地方の神社(宮)の社僧が入峰修行を行った際に配布されたものと思われ る。つまり、近世中期においては、彦山の神格について同図の捉え方が一般化されていたのではなか ろうか。
ここに描かれた神々をどう特定するかについては、『太宰管内志』所収の「彦山記」の記述が参
考となる( 4 )。伊藤常足によれば「彦山記」は、橘正通の作で天正九年(1581)に大友氏の兵火に焼か
れて天保十二年(1841)頃の段階では僅かしか残されていないという。同記述を参照すれば、まず、
上段の三神は、俗躰・女躰・法躰に描かれた彦山三所権現に間違いなく、三神の頭上には神鳥である
「白鷹」が描かれている( 5 )。中段の三女神について「彦山記」は、「宇佐嶋」より来たりて北嶺に鎮座し たとする。ところが、「神代に鎮座した七神」(上七神)と「祖師開峰の時に出現した五童子」(下の 五座)とに分けると、前者に属するその固有神名は「田心姫命」、「湍津姫命」、「市杵嶋姫命」という ことになる。宗像三女神である。この段階で宗像=宇佐八幡同体の枠組があったと解釈せざるを得な い。神代鎮座の七神のうち、残る一神が、絵図中央の女神、白山「菊理姫」である。下の五座につい ては、向かって右の赤色鬼神形が、「大聖童子」(四 大南窟)、左の青色鬼神形が「金杖童子」(一 玉屋窟)、下段の、向かって右が白馬に跨った「福智童子」(七 智室窟)、左が虎に乗った「都良童
写真2.彦山垂迹曼荼羅図(仮称)