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呼子の宗教的環境

第2章  宗教民俗と神仏習合− 大飯食らいと綱引き

第2節  呼子の宗教的環境

 本節では、大綱引きの考察の前提として、それに直接あるいは間接的に関わる呼子地域の神社・寺 院などの宗教施設、それらの祭礼や年中行事、地域住民の信仰など地域の宗教的側面を概括し、その 特徴を抽出する。大綱引きが、宗教的意味を有する宗教行事であるかどうかの最終的な判断は後の章 に譲るが、地域の宗教的位相をある程度明らかにした上で、そこに位置づけた場合の綱引きに対する 暫定的な解釈を提示してみたい。

1.「両山伏」

 図は、江戸末期、天保十一年(1840)の『小川嶋鯨鯢合戦』の 17 丁、「組仕出之図」で「組主中 尾氏の座敷にて吉例波座士等太鼓を打て鯨うた唄ふ体」とされている( 1 )。捕鯨出漁に際して、組主の中 尾氏の座敷での宴席の模様が描かれている。図の左上の上席には組主と並んで赤い袈裟を着した禿頭 の僧侶が 2 名見え、「両山伏」と添え書きされている。両山伏という表現自体が呼子を対象にしたも のであり、一人は呼子の中央部、宮町東側の高台に位置する「呼子三所大権現」(現・三神社)の妙 泉坊であり、今一人は集落北部海士町東側高台の「八幡宮( 2 )」(現・熊野三社八幡宮)の龍泉坊である。

捕鯨出漁という重要な場に山伏が上座に同席しているということは、宴席に先立って出漁に際しての 祈禱が行われ、その後宴席に招かれたと見るべきであろう。

 さて、捕鯨出漁に際しては「両山伏」が祈禱を担っていたと思われるが、終了時についてはどうで あったであろうか。次の図は、終了時、「組あけ」に際しての 48 丁、「龍昌禅寺において鯨鯢供養之 図」である( 3 )。まず、龍昌禅寺であるが、上述の八幡宮参道中腹にある「龍昌院」であり、曹洞宗であ るので禅寺という表記がとられたのである。供養の導師を務めているのがその住持である龍昌院であ る。その背後には、中町の浄土宗西念寺と先方町の浄土真宗願海寺が控えている。龍昌院の右手側に は「龍泉坊」、その後ろには、黒髪山大智院を本寺とする唐津西寺町の真言宗観音寺と唐津西寺町曹 洞宗長徳寺が見える。この行事について同書には「・・・ 組あけの時には、毎年呼子の龍昌禅寺におい

写真 1.鯨鯢供養の図(龍昌院) 写真2.捕鯨出漁の宴と「両山伏」

て、多数の僧徒を招請して、鯨鯢供養を営み、捕獲の日を卒塔婆に書き法号を与えて読経し、供物一 切を海中へ流し、懇ろに弔」うとされている。鯨に対しても人と同様な滅罪供養作法が行われたこと が分かる。なお、ここに見える「龍泉坊」が山伏の龍泉坊であるかどうかは、解釈が難しい。呼子の 龍昌院の本寺は、隣接する名護屋村( 4 )の龍泉寺であり、あるいは龍泉寺を龍泉坊と表記した可能性もあ るからである。しかし、もし本寺であるなら末寺である龍昌院より装束が簡素であることが奇妙であ るし、また、後述するが龍泉坊は家族内で男子は「天台宗修験」であるが、母、妻、娘など女人は黒 髪山大智院を本寺とする唐津西寺町の真言宗「西之坊」の檀那であり、観音寺とも関係するからであ る。故にここに見える僧を龍泉坊と仮定するが、「妙泉坊」の姿がないことは事実である。

 まとめると、捕鯨出漁に際しての祈願・祈禱に関しては、妙泉坊・龍泉坊という両山伏が独占して いるが、終了時の供養については、龍昌院・西念寺・願海寺といった呼子内の滅罪系寺院が主導し、

宗派の面でも曹洞宗・浄土宗・浄土真宗・真言宗と複合して営まれており、龍泉坊は地理的に近接し ていることもあるがおそらく何らかの繋がりで参加しているに過ぎず、その関与は消極的である。つ まり、呼子をめぐる宗教空間には生を極とする祈禱系の位相と死を極とする滅罪系の位相の 2 つの 位相が認められ、両山伏は前者の位相に位置づけられる。ここではまず、前者の位相から見ていこう。

 郷土史料に「唐津拾風土記抄」がある。著者は不明であるが、文化年間(1804-1818)の作と推定 されており、『松浦叢書』第 2 巻に収められている( 5 )。そこには、「寺院名寄」と並んで「山伏両派名 寄」が載せられており、当時の松浦郡一帯の宗教状況が窺える。まず、寺院総数 128 ヶ寺とされて いるが、両派山伏の総数も 128 坊とされている。寺院数と山伏の坊数が同じということは、江戸後 期という時代状況を勘案すれば、山伏の密度がかなり高い地域であるということができる。ただ、実 際に記載されている坊名の総数は、125 坊である。両派というのは、彦山派(天台系)と当山派(真 言系)であり、前者が 95 坊に対して、後者は 30 坊であり、4 分の 3 強が彦山派であり、本地域一 帯が彦山の重要な「霞」(縄張り)であったことが窺える。さらに、全体を「御目見」山伏(上位)

と「御目見無」山伏(下位)に二分しており、当山派では 30 坊のうち 7 坊が、彦山派では、95 坊 のうち 22 坊が上位に格付けされている。なお、この「御目見」とは、領主である唐津藩主に対する 拝謁資格ということであり、藩内では山伏をこの資格の有無で格付けしていたのである( 6 )。上位の 22 坊の「法頭」は唐津城下の「大石山大権現 一條坊」であり、呼子の「両山伏」も「呼子三所権現  呼子町 妙泉坊」及び「呼子村 龍泉坊」としてその内に列挙されている。祭祀する権現名称が付さ れているのは 5 坊であり、法頭の大石山大権現をはじめ、熊野原大権現、呼子三所権現、黒崎大権現、

藤崎権現であることから、呼子が城下から遠隔の地にあるにもかかわらず、かなり重視される位置に あったことが分かる。また、上位 22 坊では城下に偏りが見られるが、その中に呼子の 2 坊と隣接す る名護屋村の「小松坊」が入っている点が注目される。そして、下位(御目見無)を含めれば、呼子 村では「胎蔵院」と「歓喜院」2 坊が、そして名護屋村では「教如院」、「正悦」、「宝泉坊」、「大福院」、

「秀学」、「定日坊」、「大泉」の 7 坊が追加され、呼子周辺でのかなり濃密な山伏のネットワークが推 定されるのである。

 彦山側の史料から確認してみたい。「寛政元酉年(1789)英彦山坊中并諸国末山人別写」によれば、

坊数の最も多いのが「唐津城下」で、同じく肥前「彼杵郡大村」と並んで 33 坊、ただし、同一地域 である「上松浦郡」の 4 坊を加えると、37 坊となり、最大の勢力圏と見做せる( 7 )。そして「唐津城下」

の 33 坊のうちには、妙泉坊・龍泉坊も含まれている。もっと詳しい記載のある「英彦山末山帳( 8 )」で は、「肥前国上松浦郡大石山」の項目に 51 坊、「肥前国上松浦郡」の 6 坊を合わせると、57 坊で、

第 1 位。次に、「肥前国彼杵郡大村彦流山観 音寺配下兼真言宗大乗院」の 35 坊、第 3 位 が「豊前国上毛郡松尾山」23 坊、第 4 位が

「豊前国中津郡蔵持山」19 坊という順位であ る。もちろんこちらの史料にも妙泉坊・龍泉 坊の名は確認できる。座主を頂点とし、執 当−四奉行に連なる末山の法頭は、70 ヶ所 158 坊庵とされるが、妙泉坊・龍泉坊が属す る大石山は、最大の勢力であったと考えられ る。そうした諸国の山伏が檀那を率いて参詣 する「英彦山参り」は、本山の宿坊側でもそ の接待に意を尽くしたようである。長野覚に

よれば「……檀那を迎える坊家は、その接待に最大の努力を尽している。小石原焼きの一升徳利に存 分の酒(略)と、白米の飯に、山伏の女房が手伝人を雇い、丹精こめてつくった山の幸と、干物・塩 物ではあるが肴も付けられた。とくに肥前檀那に対しては二ノ膳付が原則であり、そのうえ夜中にボ

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タ餅を振舞っている。たとえ他国の檀那と同宿した場合も、肥前檀那にのみ振舞われた

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。そのわけを 古老に聞いても確たる理由はつかめない。この風習は一種の儀礼として明治以後まで続けられた( 9 )。」

(傍点筆者)ということであるが、坊数の多さという勢力圏は、各坊が抱える檀那数の大きさとも関 連し、彦山を支える経済的勢力でもあったことが窺われる。

 さて、呼子では序列としては妙泉坊が上位であり、近世期における綱引きへの関与も推定されるの だが、妙泉坊は明治の神仏分離によって廃絶し、その後の火災で史料も焼失し、その活動について知 るすべがない。しかしながら、熊野三社八幡宮の龍泉坊は、神仏分離によって還俗し、神官となっ て今日に至っている。故に龍泉坊所蔵の文書類によってその実像に迫ってみたい。まず、同坊所蔵 の「過去帳」であるが、近世期を通じて書写、さらに加筆されたものである。開山は、「南仙院林延 宗徹上人」とされ、没年は大永二年(1522)、「英彦山より来り院開」とされている。二代以降は「権 大僧都法印~大和尚」の僧位がつくが省略する。二代は「学林」、永禄三年(1560)没、筑後久留米 から来たとされる。三代「洞然」、慶長四年(1599)没、「英彦山」。四代「林緑」、正保 3 年(1646)

没、「英彦山」。五代「盛徹」、寛文五年(1665)没、「英彦山」。六代「盛道」、延宝四年(1676)没。

七代「盛尚」、天和二年(1682)没。次の八代から、記述の様式が変わり、葬送地として「君塚」が 挙げられる。そして第十代が「中興開山」とされる「林学」である。寛保二年(1742)没、「唐津よ り来た」という言い伝えがある。そして十一代が林学の実子である「林盛」であり、「当寺再興」と されている(天明 2 年 1782 没)。十二代がその実子「盛円」、修験伝燈 57 世とされている。十三代 が「盛音」、その実子が十四代、「盛洲」である。嘉永六年(1853)に没している。十五代はその実 子「盛雲(盛重)」が継ぐ。その代で明治維新を迎え、神仏分離によって僧位僧官を返上して、「八はた 盛重」という姓名で神官を継承して今日に至るのである。住持のみではなく、その家族関係について も明らかになるのは八代「林春」(貞享 4 年 1687 没)以降である。そして、中興開山とされる「林 学」以降は実子継承も明確になる。上の図は、龍泉坊所蔵の掛軸(部分)である。ここに描かれてい る人物についてであるが、天明五年(1785)役廣延の記とされる上段部の記述によると、「龍泉坊林 観」が「安永丁酉」、即ち、安永六年(1777)七月に橋本坊見住に随い、大先達助周法印の金剛界入

写真3.龍泉坊林観肖像(部分)安政六年