第3章 神楽と鬼− 神仏習合の展開
第3節 多配列クラスとしての「鬼」 − 修正鬼会から神楽まで
1.鬼を恐れるアジア圏留学生
九州は鬼の宝庫である。鬼が出現する祭りや芸能は至る所にあり、学生を連れてよく調査に出かけ たが、そこで興味深いのは留学生たちの反応である。中国や韓国などアジアからの学生は、鬼に祈る 人々の姿や子供たちと境内を駆け回る鬼の様子、果ては我が子の無病息災を願って泣き叫ぶ幼子を鬼 に抱いてもらう母親の姿を見て一様に驚愕する。あるラオス人留学生は心配の余り、私の耳元でこう 囁いた。「これは問題です。とてもいけないことです。」…彼ら/彼女らの反応は決して異常ではない。
後に大学院で修士論文を「鬼」をテーマにして書くことにした中国人留学生(朝鮮族)は、悩みに悩 んだ挙句、テーマを「鬼」から「観音」に変えて最終的にはフィールドワークに基づく優れた論文を 書き上げた。
節分の豆撒きから昔話や民話まで、人間世界のあらゆるシーンに親しく出入りするという点で日本 の鬼は他のアジア諸国とはかなり様相を異にする。節分の原型ともされる、宮中に伝わる「追儺」の 儀礼を挙げるまでもなく、災厄を齎すとされる「儺」は本来中国大陸から伝えられたものである。し かし、中国大陸や朝鮮半島では徹底的にネガティブな存在としてやがては「死霊」と同一視されてい くのに対し、日本文化の中に融解していった儺は、独自の展開を経て変幻自在な「鬼」の表象を構築 していくのである。
2.日本の宗教文化の基層−神仏習合
さて、日本独自の「鬼」の表象の構築過程を何処に求めるべきであろうか? 言葉を換えれば鬼や その他の民俗事象を包含する宗教文化の基層を何処に求めるかであるが、この点に関して、近年の宗 教史学や宗教民俗学の発達は、過去の定説とは違った答えを呈示しつつある。6 世紀半ばに朝鮮半島 から齎された仏教(大乗仏教)は、これまで想定されていたより相当早い段階で日本文化に習合し、
あるいは仏教の側から言えば民俗化し、神仏習合という独自な宗教文化の基層を構築していたのであ
( 1 )る
。日本の神々が「神の身を離れて仏になりたい」と巫女の口を借りて希求する「神身離脱現象」は 既に 8 世紀後半には明確化するが、それは日本各地の社に「神宮寺」が併設されていく過程と軌を 一にしている。やがて神は仏教の天部の諸尊と共に「護法神」や「鎮守神」の意味を担い、平安時代 に入り、天台や真言の密教が体系化されると、独自な「御霊神」を成立させ、最終的には、日本の 神々は実は印度の仏が衆生を救済するために姿を変えて現れたものだという「本地垂迹説」に結実す ることになる。
こうした神仏習合の過程を「共時的」に捉えれば、その実態は組織と教義の2つの軸で捉えられる( 2 )。 その組織の実態は「寺社」という範疇で括られる。それは、「統率者として別当、座主、検校、長者 などが位置し、寺務管理の役職として三綱、即ち上じようざ座・寺じ主しゆ・都つ い な維那があり、その下に政所や公文所 といった寺務局が置かれた。寺院に所属する僧侶の全体は大だいしゆ衆、あるいは衆しゆ徒となどと呼ばれたが、そ の主な目的は『学(学解・学問)と行(修行・禅行)』であり、学に携わる場合は学がく衆しゆ・学がくりよ侶・学がくしよう生、
行に携わる場合は行ぎようじや者・禅ぜんしゆ衆・行ぎようにん人などと呼ばれた。またこうした学僧や修行僧を組織の中心層と
すれば、彼らに近侍する堂どうしゆ衆・夏げ衆しゆ・花はなつみ摘・久くじゆうさ住者な どの呼称で呼ばれた存在や、堂社や僧坊の雑役に従う 承しようじ
仕・公く人にん・堂どうどうじ童子、さらにその外延には、仏神を奉
じる神じ人にんや、その堂社に身を寄せる寄よりうど人や行人の存在
があった( 3 )」。だが、ここで述べる寺社範疇はあくまで
組織の理念型であり、近代的な役割名称ではないこと には注意が必要である。中世期に実際に用いられた各 名称は、地域的な偏差も大きく、名称の重複もある。
クラスの外延も限定できない。
この特徴は、教義の面についても同様である。実際
に用いられた用語である「顕密」という語が指示する意味内容に関しては、「字義通りには、『顕けんぎよう教』
と『密教』を表す。顕教とは、南都六宗と言われる三さんろん論・成じようじつ実・法ほつそう相・倶ぐ舎しや・華け厳ごん・律りつの六宗である。
歴史的には、法隆寺や大安寺を拠点とする三論宗が成実宗を付置し、元興寺や興福寺を拠点とする法 相宗が倶舎宗を従え、やや遅れて東大寺を中心にした華厳宗と唐招提寺を中心とする律宗がそこに加 わったという形をとる。密教とは、言うまでもなく天台(台密)と真言(東密)の二宗である。顕密 とは、…これら八宗の各々、そしてその総和を指すと同時に、さらにそれを越えた圧倒的な密教の優 位をその意味内容に含むとされる( 4 )」。では、何故に包括名称としての「密教」ではだめなのか? 八 宗が各々独自であると同時にその総和として密教が優位にたつ独特のクラスの存在。神仏習合を司っ た、奈良時代から江戸時代末期まで約 1200 年にわたって、日本の宗教文化の基層を担ったのは、「顕 密寺社」であるとして、その分析概念として「多配列クラス」及び多配列分類の必要性を指摘した( 5 )。 ここで簡単に「多配列分類」について説明しておきたい。多配列分類(polythetic classification)
とは、英国の人類学者、ロドニー・ニーダムが呈示した概念である( 6 )。通常の近代的・科学的分類は、
単配列分類(monothetic classification)である。上の表の個体6と7のように、両者の共通特性で ある F・G・H によって分けられたクラスである。我々が通常用いる範疇は、「動物」、「植物」とい うようにすべての個体に共通する特性によって、成立している。ところが、同じ表の個体1~5に注 目して欲しい。特性は、A ~ E の5つが挙げられているが、全体に共通する特性は一つもない。個 体1~5は、単に「似ている」に過ぎず、単配列クラスとしては成立しないのである。ニーダムは、
哲学者ウィトゲンシュタインの「家族的類似性(family resemblance)」や心理学者ヴィゴツキィの
「鎖状複合(chain complex)」の概念を例証しながら、それらが多配列クラスと同義であり、日常言 語による人々の分類は多配列的であることを指摘した。しかし人類学では、その後、親族研究におけ る単配列的な出自概念の批判などに用いられただけで、大きく展開したわけではなかった。
だが、日本の宗教文化の基層を構成する「神仏習合」を理解するためには、極めて有効である。例 えば、末木が「神仏習合という語は曖昧である。しばしば誤解されるように、仏教と神道という二つ の宗教が混淆したというわけではない( 7 )」と述べる時、そのもどかしさを解く鍵は多配列クラスにある。
つまり、神仏習合とは多配列世界なのであり、明治元年(1868)の「神仏判然令」とは、「純粋な神 道」という単配列クラスを新たに構築するために、神仏習合という多配列クラスから「仏教」という 特性を除去させるための政策、言わば「単配列革命」であったのである。こうして成立した近代世界 では、習合という多配列状況は「見えにくく」、むしろ「仏教以前」の超歴史的な「固有信仰(柳田 國男)」が希求されたのである。
多配列クラス 単配列クラス 個 体 1 2 3 4 5 6 7
特 性
A A A A B B B B C C C C D D D D E E E E
F F G G H H 表 1.単配列クラスと多配列クラス
本論が考察の対象とする「鬼」は、その概念自体は「儺」として中国から伝来したものであろうが、
その表象は、当然、神仏習合、より具体的に言えば「顕密寺社」を母胎として発生そして展開してき たものであり、単配列ではなく多配列クラスとして捉えていくことになる。従って、鬼を「定義」し、
その共通特性を探るアプローチをとらず、顕密寺社の儀礼に注目し、その展開や分布の中に多様な特 徴を考察していくこととする。
3.鬼と修正会−「見えない鬼」から「見える鬼」へ
2 月 3 日、節分の鬼を想起するまでもなく、鬼といえば正月や新春と密接に関連している。これは、
寺院の正月行事である「修正会」(あるいは修二会)が関わっているからである。修正会は、年頭に あたって僧侶らが我々衆生の犯した罪や過ちを各寺院の本尊仏に対して悔い改める「悔か け過」が法会の 主題となる。薬師悔過や観音悔過など本尊によって呼称は違うが内容は類似している。七日・十四日 などを節目として、長い場合は一月にもわたって撤修され、満行(結願)の日を迎えるのである。そ の原型とも言われるのが、千二百年もの伝統を有するとされる東大寺二月堂の修二会(観音悔過)で ある。一般には「お水取り」とも呼ばれ、二月堂外縁に掲げられる大松明の火が目を奪うが、内陣で は一月にもわたる練行衆による顕密修法が続けられており、その満行の日に当たるのである。その最 後に「達だつたん陀」と呼ばれる不可思議な火と水の儀礼が催される。しかし、そこに出現するのは練行衆の 扮する火天・水天であり、鬼ではない。だが、畿内の場合、一歩外へ出れば例えば薬師寺の修二会の ように、鬼は必須の存在となっている。東大寺の場合、鬼は出現しないというより「存在しない」の であり、そのことが歴史の古さを示す指標ともなっている。
しかし鬼は一挙にその全貌を現すわけではない。次に「見えない鬼」の段階があったように思われ る。九州、有明海に面した佐賀県藤津郡太良町の竹崎観世音寺は、かつては三十三坊を擁したと伝え る顕密寺社である。正月の初めに「修正会鬼祭」を今に伝えている。複合的な儀礼の過程を詳述する 余裕はないが、そのクライマックスは「鬼追い」である。鬼(鬼面)が収められた「鬼箱」が鬼おんぜえ副と 称せられる若者に担がれて、それを奪おうとする若者らに抗して境内を所狭しと逃げ回るのである。
最後に鬼副は、本堂に駆け込んで住職に鬼箱を渡して終わりとなる。鬼面が顕わとなることはないの である。まさに鬼は追うだけの対象であり、その点から見れば、「追儺」の伝統に沿っているとも思 われる。注意すべきは、こうした鬼箱が納められたとされる鬼神社や鬼堂が、求菩提山(福岡県)や 厳島神社(広島県)など幾つか認められることである。かつて同種の儀礼が行われていたことを示し ているのではないだろうか。
同じく「見えない鬼」でも、もう少し実在感を感じさせるのが、福岡県久留米市の大善寺玉垂宮の
「鬼夜」である。寺社組織としては崩壊してしまったが、毎年 1 月 7 日の夜、厳重に管理された漆黒 の闇の中で儀礼は執行されている。境内に押しかけた大群衆が赤々と燃え上がる大松明や鉾面神事
(火王・水王)に目を奪われている頃合に、鐘堂から「乱らんじよう声」(鐘・太鼓の乱打)が響き渡る。大松明 は一基ずつ本堂の背後の広場に移動していき、群衆もそれに続き、本堂周辺は漆黒の闇となる。本堂 横の阿弥陀堂(鬼堂)は闇に閉ざされてしまうが、堂を取り囲んだ「赫しやぐま熊」(棕櫚で編んだ被り物)
を被った子供たちが「鬼出ろ ! 鬼出ろ !」と叫びながら手にした竹棒で激しく壁面を叩く。やがて 全身を赫熊で覆った鬼が出てくるが、子供たちや警護の若者らに厳重に取り巻かれ、その姿を見るこ とはできない。彼らは、阿弥陀堂の周囲を「7回半」廻り、その後近くの川の潮井場で垢離をとり、