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行政主導の開始

第 2 章 人形劇フェスタをめぐる飯田市の文化行政

1.3 行政主導の開始

このように人形劇カーニバルは、当時の松澤市長の政治理念を念頭に、市内全域の市民 が一つの活動に収斂することで、市民の一体感、協同性の生成をねらい、行政主導で開始 された。しかしながら開始 3年程は、市民への拡がりはなかなか進まなかったようである。

当時、伊賀良地区公民館主事の今村英明、当時飯田市社会教育課課長の山下舜平は、人 形劇カーニバル 10周年記念誌座談会で、以下のように当時を振りかえっている。

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宇佐美(劇人):(筆者註:分散公演について、旭川で行われた第 1回全国人形劇フェス ティバルとの違いから)飯田の場合には、受け取り手が、地域の人間がそこでこ うちゃんと、キャチャーがいてくれて、ピッチャーの球をポンととってくれる訳 で、そこが大きな違いですね。

今村:いやがっているんだけど。

宇佐美:いやがっているんでしょうけど。(笑い)

山下:いや、実際にはねぇ、そりゃあね。(笑い)

今村:ぶちあたると痛いから受けにゃあ、しょうがないって感じでね。

山下:公民館だって困っちゃってるわけですよ。ポンと 7月20 日ごろ通知を出してね、

それも、まあ一応、実行委員長に飯田市の公民館長を祭り上げといて、そういう 形でもっていったんですけどね、そりゃあ無理はないと思う。訳がわからんです からね。

今村:まともになったのは、81年からですかね。

宇佐美:ああ、そうですか。第 3回からですね。

山下:まともっていうのは・・・・。

今村:会議とか通知がまともだった。というのは、その 2年間、僕のところに資料が無 いわけです、その 2年間。

それと、不満も多かったしね。最初の頃。だから、事務局もある部分から参加さ せないとわからんけど、手伝いだけやれっていうかっこうの 2年間だったですね。

仕事だけやれっていう。(笑い)

(中略)

今村:会場の決定だとか、全部教育委員会で勝手に決めている形だったですね。で、81 年からは、それぞれの会場の規模だとか逆に会場の調査をしました。

山下:そう、何の設備があるとかね。こういう設備のセットができるかっていう調 査を しておいて、それにあわせる劇団をある程度まで選んで・・・・。

今村:それが出来たっていうのは、81年。

宇佐美:それが、3回目ですか。

今村:3回目位です。

宇佐美:ぐらいなのね。

松澤は、「飯田市の公民館活動にのっける」ことでが住民に浸透させ、新しく始める人 形劇の祭典を公民館を活用することで開催を実現させ、その活動が単なる文化イベントで はなく「地域づくりのための文化イベント」になると考えていた。

しかしながら、公民館活動にあたる住民そしてそこに関わる主事らは、上から下ろされ てきたものを拒否できず「いやがって」いながらも仕方なく受けとめて行っていたことが、

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上記の当時公民館主事であった今村の言葉から明らかである。

人形劇カーニバルが 3回、4 回と回数を重ね、徐々に住民の参加を拡げていくことがで きたのは、実行委員長になった飯田市公民館長の言葉によると、「国際児童年に始めた人形 劇カーニバルの児童健全をめざした取組み」という趣旨(人形劇カーニバル飯田実行委員 会,1990:24)が地区住民に理解されたからと考える。しかしながら、松澤市長がこの人 形劇の祭典を飯田市で開催することを決定したねらいは、この祭典を市民の文化 活動とし てまちづくりを展開することにあり、「国際児童年をきっかけとした子どものための文化活 動」という狭義のねらいは、公民館長あるいは社会教育課が市民への理解を容易に得るた めの思惑のなか行われたことであり、人形劇カーニバルの趣旨は松澤市長の真意である ま ちづくりから社会教育に変えられてしまった といえる。

つまり、先の座談会の発言から伺えるように、突然 市長からやれと言われてそれを引き 受けざるを得ない市民の心情を察した飯田市公民館長や社会教育課が、住民の理解を少し でも得ることができるように、ちょうど 1978 年が「国際児童年」であったことから、こ の大規模な人形劇の祭典の趣旨を子どものために行う事業としたのではないかと推測でき る。実際、子どものための事業としたことは、市民の理解を得て、地区住民の我が地区の 子どもたちのためにという思いは、住民の地区公演への協力を促進させたと考えられる。

こうした飯田市公民館長らの思惑を松澤市長は知っていたのかは不明であるが、 人形劇 カーニバル開催を 5ヵ月後に控えた 1979(昭和 54)年 3月の市議会で、松澤市長は、「特 別に今年が国際児童年だからということで、現在その記念事業というような ものをいたす 考えは持っておりません(飯田市議会事務局,1979:5)」と答弁している。ここに、行政 の首長である市長と、市長の命を受けて実際に運営を進める教育委員会社会教育課および 公民館長との、それぞれの思惑の違いは明らかである。

市長が望む全市域での広域開催と集落=区の住民が広く参加する祭典の開催のためには、

実際に地区公演を受け入れその運営に携わる 住民の理解が必要であるが、開催にあたって の時間的問題と準備不足のなか、住民にとってわかりやすく理解を得やすいのは「子ども たちが楽しむ活動」ということであったと考えられる。つまり、松澤が市長として開始に あたって考えた思惑と、この後、人形劇カーニバルがまちづくりをその趣旨として大きく 位置づけていく流れをみると、国際児童年であったことを効果的に引用し「子どもの健全 育成」を前面に出して市民理解を拡げたと考えられる。

以上のように、人形劇カーニバルは、市民参加のまちづくりをねらったイベントとして、

市民・劇人・行政の 3本柱でつくり上げる活動であることとしていたが、開始から一定の かたちが出来上がるまでの第 6回までは、社会教育課と劇人の二者を中心に進められ、市 民参加は名ばかりのものであった。本来、公民館活動は住民が取り組むものであるが、開 始当初は、3 本柱の市民は住民ではなく、飯田子ども劇場や飯田文化協会といった一部の

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団体の代表者が市民として、3本柱の1本を担っていた。

地区公演の運営は、公民館主事が中心になって実働にあたっていた。初年度は、開催数 週間前に主事に連絡が入り、主事さえも詳細が把握できないままの実施であった。住民の 社会教育の場である公民館活動に位置付けた開始であったにもかかわらず、住民にとって みると、行政が進めたものが下ろされたかたちで開始されたといえる。ただしそれを 拒否 せずに受け入れたのは、実行委員長となった公民館長が国際児童年と関連させた「子ども の健全育成のため」という開催趣旨が大きく影響したといえる。各地区の地区公民館で開 催することにより、公民館は、わが地区の子どもたちのためを考え、地区公民館での地区 公演開始の意義を理解した。