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1-1. 「アダルト・チルドレン」とは何か ――これまでの研究動向

「アダルト・チルドレン(以下ACと略記)」とは、元々は1970~80年代にかけて米国 の社会福祉および心理臨床領域において注目され始めた問題であり、またその渦中に置か れた当事者たちの総称でもある。この用語は、今もなお幅広い定義域を持つ発展途上の概 念として、ケースワーカーや心理療法士など様々な臨床現場に根差した専門家たちによっ て活用されている。そのため現在のところ、明確な疾病概念として医学的診断に用いられ たことはない。

この概念を世に知らしめることとなったソーシャルワーカーの C. Black による主著

(Black 1981)をもとに、まずはAC概念の基本的な内容について整理しておこう。

第一にACと呼ばれる人々の主たる特徴として、周囲に対し正当な感情を表したり恒常 的な信頼関係を築いたりする際に、独特の困難を経験することが挙げられる。具体的には、

恐れ・怒り・悲しみ・当惑といった類の感情に対し「否認」の防衛反応が著しく発達して いることによる、自発性・自律性を保つことの困難、自尊心の脆弱さ、そして抑うつ状態 からくる親密な関係からの離脱である。過度に否認された感情は、孤独な状況下で密かに 見捨てられ不安や屈辱感、自責感として抱かれることが多く、時に爆発的な怒りとなって 表出されることもある。

第二に、こうした心理‐社会的な「生きづらさ」の背景として、一般的には彼らが幼少 期に何らかの「機能不全家族」と呼ばれるべき環境で育ったことが指摘される。その中に は、AC 概念が誕生したきっかけでもあるアルコール依存症の成員(主にいずれかの養育 者)を抱える家族をはじめ、薬物依存や仕事依存、身体的/心理的虐待、育児放棄など、

様々な形態の暴力や嗜癖を抱える家族が含まれる。こうした環境下で子ども時代を過ごし た彼らは、“私たちの家族が問題を抱えていることを話題にしてはならない”“外の世界や 人間が安全・確実だと信じてはならない”“いま家庭内で起こっていることについて何も感 じてはならない”といった暗黙のルールに従うよう迫られる(Black 1981: 24-48)。その 結果、(1)弟や妹の世話を含む家事の全てをこなすことで「責任を一手に背負う子ども」、

(2)混沌状況の中で何が起ころうとも順応し、自らの無力感こそを生きるテーマとしつ つ他者への情緒的関わりを一切断絶する「順応者」、(3)自身とその周囲の緊張を和らげ るべく、暴力を振るう養育者を喜ばせようとする「なだめ役」、(4)わざと逸脱行動に走 ることで注目を集め、家庭内の問題から目を逸らさせようとする「行動化(acting out)

する子ども」といった、種々の役割を全うせざるを得なくなる(Black 1981: 4-23)。つま りACとは、〈正常かつ健全な子ども時代を過ごすことを許されなかった人々〉であり、か つ〈恐怖と緊張が渦巻く家族の均衡を維持すべく、豊かな情緒的欲求の断念と成人的な振 る舞いを通じて、家族機能の大半を人生早期より受け持たざるを得なかった人々〉である と、さしあたりまとめられよう。

日本では1980年代末からAC概念は紹介され始め、度重なる誤解を招きつつも、2000 年代中頃にかけて数多くの書物が世に出された。以降は一過性のブームが過ぎ去った後か

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のような停滞感に覆われているが、ひとまずこの間の米国・日本双方の研究動向を併せて 分類すると、医学上の疾病単位として扱うことの可能性について論じたもの(緒方明 1996

etc.)、ACの克服に重点を置いた治療論ないし自己成長のプロセスを探ったもの(Farmer,

S. 1989; Black 1993 etc.)、AC問題が「言説」として大量生産されたことの構築主義的意 味、ないし社会的影響 ――とりわけ家族観や若者観への影響―― について論じたもの

(佐藤恵 2000; 安藤究 2003 etc.)、そしてサブシステム論や機能不全尺度といった既存 の家族療法分野における分析枠組みとの関連性を探ったもの(Friel, J. C. & Friel, L. D.

1988; 井村文音・松下姫歌 2011 etc.)、以上のように整理できよう。

1-2. 本章の課題 ――「文化」という観点を基軸とした外傷論的アプローチ

いずれも重要度の高い研究であることに違いはないが、筆者が本章で取り組むべき課題 は、厳密にはどのカテゴリにも属さない。既に述べたように筆者は、現代社会にも根を張 るACという問題をめぐって、前章において培った「文化」という観点を基軸としつつ、

そこから浮かび上がる外傷的相互行為状況の本質を探っていきたいと考えている。

本章でいう「文化」とは、若者文化やオタク文化、あるいは企業文化(社風)などのよ うに、時間的にも空間的にも極めて限定的で、明文化することの比較的容易であるような 類のものではない。そうではなく、前章を踏まえた上で筆者はまず、一定程度の非人称的 な影響力と普遍的原理を兼ね備えた宗教上の思想、教義を基盤とし、なおかつ「国家」や

「民族」といった枠組みでの学術的議論を許容するような、より広域の空間的範囲を念頭 に置いている。次いで時間軸としては、さしあたり、産業化に起因する「近代社会」の成 立期“以前”にまで遡及可能であることを基本かつ十分条件とし、その上で先述のように、

当該の宗教的思想、教義の根本にまで遡ることの可能な「文化的規範・価値観」にも目を 向けたいと考えている 1)。このように「宗教」「国家」「民族」を単位とした広域的かつ通 時的な「文化」とその規範・価値観が、とりわけ現代の我が国における家族関係や自我意 識、そして何より子どもの「社会化」のあり方をどのように規定しているのか、さらにそ の規定内容がACという現代的問題といかなる形で関連し合っているのかを、本章では明 らかにしたいのである。

本格的な議論に入る前に、上記の問いについて、さらに比較文化的な視点からその狙い とするところを明確に記しておきたい。すなわちそれは、「米国文化」との対比という視点 である。

AC 概念発祥の地、それは先にも述べたように米国であった。そしてその米国の文化的 特徴を考えた際、恐らく真っ先に思い浮かぶのが強固な「個人主義」であろう。それは、

同じくプロテスタンティズムを主流派とする欧州諸国においても見られ、自らの独自性、

能動性、自己同一性を強く認知し、周囲との関係づくりの拠点とすることが何よりも求め られる。また濱口恵俊(1977: 56)が述べるように、この自我意識のあり方は、単に認知 的側面だけでなく、情緒的欲求という側面にまで敷衍される。というのも、Freudの精神 分析理論が示すように、「自我(ego)」はそもそも、リビドーの貯蔵地である「イド(id)」 の力動に突き動かされ分化していったものと見做されるからである。

こうした個人主義的自我観が文化として根付いている以上、自発性や自律性を保つこと の困難や情緒的欲求の過度な否認といったACの特徴は、そうした文化的価値観とは根本

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的に相容れないもののように映るだろう。こうした“対極的な”見方は、次に述べるよう に、個々人の自我意識が育まれる場面、すなわち子ども時代の養育やしつけの段階を想定 した際にも浮上してくる。

上記のような自我意識は、そもそも、「個人と超越的絶対神との契約」を基盤としたうえ で初めて成り立つものである。ある個人が、自らの信念のみに基づき行動しようとするの は、彼が「超越的神」という絶対的基準を内在化しそれに常に支えられているからであり、

またその神との契約を履行すべく、信仰と「罪」の告白に日頃から従事しているからに他 ならない。彼はその神との「契約」を介して、同様の自我意識を持った他者との「社会契 約」を取り結ぶことも可能となるのだ(濱口 1977: 95)。したがって個人主義的自我意識 が形成される養育・しつけ場面では、子どもをこの内的な絶対的基準 ――いわゆる「超 自我(super ego)」―― に依拠させることが最重要課題となり、それに向けて養育者は、

依拠するに値する超越的神の「代理者」となるべく、一貫した秩序と倫理をもたらす存在 として機能する必要がある。

ところがACを生み出す機能不全家族は、Black(1981: 5, 10)が強調するように、家 庭内秩序をめぐるこの「一貫性(consistency)」が著しく欠如し、予測不可能性にまみれ た空間として一律に定義される。これが「機能不全性」の意味するところであり、子ども からすると、強固な自我意識および他者との契約関係を同時に保証してくれるような真正 の神が「不在」であること、さらにはその神から根本的に見放されてしまった.............

ことを意味 する。米国のAC匿名グループが用いる「克服のためのステップ」(Friends in Recovery 1987)の中に、繰り返し、超越的な力(Higher Power)を兼ね備えた「神」に対して援 助と触れ合いを求める文言が記されているが、皮肉にもそれが、上記の事実を示す何より の証拠ではないだろうか。

以上のようにAC 概念発祥の地である米国においては、ACを社会文化的な価値観にそ...........

もそもそぐわない、いわばそこから逸脱した現象として対極的に捉えやすかった....................................

のではな いかと、筆者は推察する。では一方で、日本ではどうだろうか。自我観から宗教観に至る まで、一般に米国とはほぼ正反対の文化を持つと考えられるこの国において、米国発祥の AC という概念が現代社会問題として取り沙汰されたということは、一体いかなる事態を 意味するのだろうか。結論を先取りして言うならば、わが国におけるAC問題は、米国と は対照的に、自国文化と密接に関わり合いながら生み出されてきた現象ではないかと考え られる。言い換えれば、自国文化との「連続性」「近接性」といった発想からはじめて本格 的な分析が可能ではないかと筆者は考える。というのも、日本特有の AC、すなわち「日 本型 AC」と呼ぶべき人々は、ある意味で〈自国文化に極めて適応的な形で育てられてき....................

た人々...

〉として、筆者の目には映るからである。

彼らは具体的にいかなる文化的規範・価値観へと、どのような形で「適応」するよう育 てられたのか。そしてその養育のプロセスにおいて、いかなる歪(ひず)みが生まれ、彼 らを苦しませることとなったのか。引き続き、先に紹介したオリジナルのAC概念 ――

さしあたり「米国型 AC」と呼ぶこととしよう―― との対比を踏まえながらこれらの問 いに取り組みつつ、前章までの議論が、「文化」という観点から浮かび上がる日本型AC問 題の根深さの内にいかなる形で息づいているのかも、併せて明らかにしていきたい。