ひとまずここまでで、心的外傷理論としてのダブル・バインドの本質は概ね明らかにな ったと思われる。それは第一に、種々の実験心理学的検証に適合的な「限局的‐量的認識」
に対する論理的‐実践的な批判を出発点とするものであった。その上で第二に、「自己‐確
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証」と呼ばれる半ば魔術的とも言うべき内的状況へと収斂されるような、子どもの側にお ける一種の「能動的な試み」を見出すものであった。それは、母親との「関係」を目の前 にして、そこから「処罰」と思しきものを観念という形で、言い換えれば“得体の知れな い観念的な苦痛”という形で能動的に感受し続けざるを得ない内的状況を指しており、こ
の点からBatesonらの外傷理論は、いわゆる「〈処罰を与える側〉/〈与えられる側〉」と
いった明確な二項図式をゆうに超え出るものであった。そして第三に、「抽象性」というキ ー概念が示すように、Batesonらが念頭に置く外傷状況は、かの共時的に描かれた母子の 相互行為場面のみに留まらない、長期に及ぶ時間的‐空間的な(通時的)シークェンスと いう観点から把握されるべきものであった。
以上のようなBatesonらの外傷論的家族臨床研究は、序論で述べたように、「心的外傷」
という概念それ自体における認識論的展開を不断に支えうる成果として、再考に値すべき ではないかと筆者は考えている。それでは、心的外傷概念をめぐる研究史、言い換えれば 一連の「概念史」において、いかなる認識論的議論が不断に展開されているのか、さらに その中で、Batesonらの成果はいかなる認識論的スタンスならびに意義を発揮するものと 考えられるのか。次章において、これらの問いに取り組みたい。
[第 I 章 注]
1) 前者のマクロ社会学的観点を代表する先行研究としては、長谷正人(1991)が挙げら れる。また後者に関しては、日本国内に目を向けると、とりわけ医療分野における言及が 多い(渡辺和子ほか 1991; 藤田博康 2002; 蓮尾英明ほか 2008 etc.)。
2) ここで「非対称」と述べたのは、単に「養育する側/される側」といった二項関係や年 齢的な上下関係などに留まらない、一種の暴力性を兼ね備えた権力関係を孕みうるもので あることを意味したいがためである。「母子関係」と聞くとやや牧歌的なイメージが先行し やすいかもしれないが、本理論は、その中に“暗に”組み込まれる権力関係を早くから暴 き出したという点でも、画期的な研究というべきなのである。
3) とはいえ、実施されたと思しき調査・観察の実態がいささか不透明であった点も否めな い。“TTS”論文の「家族状況の記述」と題された節の冒頭では、患者とその家族が同席し た面接の実施とその録音データの検討に加えて、患者と治療者との間で交わされた会話の 内容、および両親に対する集中的な精神療法の実施内容の検討も並行して行われたと記さ れている(TTS 212)。だが、同じく統合失調症の家族研究を行ったLaing & Estersonな どと比較すればわかるように、観察対象として選定された患者とその家族の事例数、それ ぞれに施した面接の頻度と時間、面接時の患者および家族の各属性(年齢、職歴、学歴等)
など、観察記録の適切な明記が一切なされていないことが目につく。さらにはそうした不 透明さに加えて、かつて実在した統合失調症患者による伝記 ――その最たるものが、
Bateson自身の編集によって復刻された、S. Percevalという人物による十九世紀半ばの自
伝(Bateson (ed.) 1961)である―― や、その他出典の不明な逸話(anecdote)なども 参考にしたとされているが、これら複数の素材を選定するに至った合理的説明も不足して いる。第III・IV章でLaing & Estersonによる臨床研究の実践例を取り上げるのは、こう したダブル・バインド理論の臨床的背景をめぐる若干の難点をカバーするためでもある。
4) 詳細についてはSluzki & Ransom(1976b: 152-7)を参照されたい。彼らが一覧表と
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して記しているように、1960~70 年代にかけて、本論に紹介したものを含む数多くの実 験・観察研究が生み出されている。
5) 他にはBateson(1970)などでも同様の主張がなされている。
6) 一般的に「敵意」と言うと、外界からの強力かつ不当な攻撃や圧力に対して個人が突発 的に感じる、あからさまで反抗的な特徴を持った一過性の情動と捉えられやすいだろう。
だがここで扱われる「敵意」は、本文にもあるように、「不安(anxiety)」や(「恐怖」か ら来る)「逃避(withdraws)」といった情動と連動するものとされている。つまり、何ら かの明確な外的圧力によって反動的に引き起こされるものではなく、半ば恒常的かつ漠然 と抱かれるような、外的他者に対する不安と恐怖心を兼ね備えたそれとして捉えられるの である。よって本来であれば、こうした微細なニュアンスを伝えることが可能な別の表現 を充てるべきであろうが、もう一方の「愛情」という情動との対称性を強調するという論 理的な便宜を優先するために、本稿では「敵意」という表現を統一して使用することとし たい。
7) 「等級」と訳すべきところに‘order’という単語が充てられているのは、その語源である
「列」「序列」という意味を汲んだものとして至極正当な使用法であると評価できる。また 周知のように、本理論は「論理階梯(Logical Types)」(Whitehead, A. N. & Russell, B. 1910)
という論理学的命題から大いにヒントを得ているのだが、「等級」を意味するのに‘type’(階 梯)という語をそのまま使用せずわざわざ‘order’という語を充てているのは、‘type’の中に 含まれる「等級」「階梯」という意味が、論理学の世界を離れると一般的に認知されてはい ないという点を考慮した、Batesonらの適切な配慮によるものだと筆者は考えている。ち なみに‘type’の語源は「打撃」である。
8) Freudにとって精神分析療法の課題は、個人の防衛機制を解除することで無意識の記憶
内容を露わにし、それを意識的=理性的処理の可能な形へ導くことにあった。だが周知の ようにそうした方法論は、「欲動仮説」に代表される彼の生物学主義とも相まって、「一者 の心理学」と一般に揶揄されるような極めて孤立した人間観につながる。本論での母子相 互行為場面を引き合いに出すならば、母親は“無意識的=非理性的敵意にまみれた病理的 な存在”として当該場面から切り離されて扱われ、その上で敵意の表出根拠が彼女自身の 欲動の処遇との関連から分析される、という方向へ向かうのである。
9) もっとも、「知」それ自体が疑いなく理性的なものと考えられるべきかという点が、主 に哲学‐思想(史)領域の重大問題として提示されていることも筆者は重々承知している。
またそもそも「理性/非理性」という二元論に近代合理主義の残滓が見え隠れしている。
Batesonは本理論のみならず、自身の思想全体の課題として、この二元論を超越すること
に力を注いでいたようにも思える ――彼が提唱する「生態学的精神(ecological mind)」 はその最たるものである。だが本稿ではこうした議論にまでは足を踏み入れず、「知」が理 性的性格の宿るものであるという前提に立った上で、それを無意識領域という水準にまで 押し広げたBatesonの発想を最大限評価したい。
10) 例えば“猫はマットの上にいる”というメッセージが発せられた場合、猫の居場所を ただ単純に相手に教えるだけでなく(=指示的水準)、“あなたに猫の居場所を教えてあげ たのは友好の気持ちからだ”とか“これは単なる遊びだ”など、相手との「関係」それ自 体の性質を規定し伝えるという狙いも必然的に含まれる(=メタ・コミュニケーション的
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水準)。Bateson のコミュニケーション研究に関するより詳細な議論については、P.
Watzlawick et al.(1967: 51-4)や長谷(1989: 311-2)を参照されたい。
11) Batesonらが、「母親が子どもに対してなぜそのような感情〔=敵意のこと〕を抱くか
については、我々は具体的な関心を向けることはない」(TTS 213)と述べている点に、こ の立場は端的に反映されているといえよう。ただし筆者は、Batesonのこの言明を無条件 に受け入れているわけではない。あくまで排斥すべきなのは、本論で述べたように、母親 の敵意を“非理性的ないし病理的”な「要因」という形で個別内的に遡及していこうとす る発想である。第III・IV章において筆者は、同じく黎明期の家族臨床研究を支えたLaing
& Estersonを取り上げるが、彼らは母親および他の家族成員が抱える敵意や不安について、
その発現のプロセスを、対人関係論的文脈やさらにより広く社会文化的文脈から探ろうと した。さらに言うと、単純な直線的因果律に陥らないための認識論的配慮を施した上で、
そうした野心的な臨床研究を行ったのである。本稿の問題関心からすると、これらの研究 課題まで排斥されてしまうべきではない。むしろ重要な知見として検討に値すると筆者は 考える。
12) なお上記引用文の周辺箇所では、この(信念の)「妥当性」という部分に、繰り返し
‘validity’という語が充てられている(Bateson & Ruesch 1951: 212, 217-8, 220-2 etc.)。 本稿のキータームである「確証(validating)」との接点がここで明らかとなろう。また、
ある何らかの不幸な信念に基づいて、それに妥当するような外的世界を選択していくとい うこの「自己‐確証」という思考は、広い意味で「嗜癖」や「依存」といったテーマとも 通じるところがある。なお第V章で取り上げる「アダルト・チルドレン」も、背景として 共依存ないし対人関係上の嗜癖が指摘されている。
13) より厳密に言うと、受動的に被らざるを得なかった外的攻撃が始まりだったにもかか わらず、その攻撃を受け続けていた当人が一転してさも自らが招いた現象かのように解釈 し、さらには能動的に招き寄せようとすら考えるに至るという一連の魔術的思考を意味す る。
14) 周知のように「演繹(deduction)」とは、一般に享受されている既存の哲学的ないし 論理学的命題を起点にその応用可能性や限界を指摘する中で、日常生活の一部を占める対 人関係や個々人の認知的、心理的経験のパターンを導き出す推論の一方法である。本理論 の場合、Whitehead & Russell(1910)によって提唱された「論理階梯」と、そこから派 生した「論理的パラドックス」が、既存の形式論理学の命題として参照されている。
本論で述べたように、Batesonらはダブル・バインド理論が主として演繹的に導かれた 推論の産物である旨を示唆していた。しかし残念ながら、その中では上記の論理学的命題 に関する説明に終始する傾向があったためか、読者においては「推論」という部分が否定 的に印象付けられてしまったように思われる。経験科学の立場と本来的に対峙するものと される論理学ならびにその命題に依拠する演繹法といえども、本理論が実際の家族関係を 観察しそこから自己‐確証という重要な内的経験に直面したように、日常の生活世界から 一切切り離された上で生活世界の一部を思い描くといったような「身勝手な推論」を意味 するわけでは決してないのだ。端的に言うなら、本理論をめぐっては、もはや一般的に認 められるような「経験科学/論理学」といった対比はそもそもそぐわないと筆者は考える。
ましてや、この対比に沿った上で前者の科学的優位性を強調し、後者を非科学的であると