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ここまでのポイントを整理しよう。

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①まず、これまでの心的外傷研究をめぐる概念史においては、“〈限局性外傷〉か〈長期反 復性外傷〉か”という二元論に、外傷的出来事に対する認識のあり方は収斂されてきた。

だが今次刊行されたDSM-5 の中には、“〈外傷体験時〉と〈外傷体験後〉という二つの段 階を厳密に分け隔てるという発想自体もはや見直されるべきではないか”という本質的な 問題を提起した記述がなされている。

②この「二極的発想」の乗り越えが、本質的次元に迫った新たな認識論的転換として論じ られるに足る理由―― それは次のとおりである。すなわちそれが、先の“〈限局性外傷〉

か〈長期反復性外傷〉か”といった地平での二項対比的議論を超え、今後ますます重要性 を帯びるであろう〈長期反復性外傷〉の枠組みから内在的に析出された問いであるという こと、さらには、これまで等閑視されてきた分析者の側の“客観的”認識をめぐる主知主 義的優位性を根本から批判し、外傷被害者の“主観的”認識への「現象学」的接近を促す 問いであるということ―― 以上が主な理由である。

③次いで筆者は、この新たな認識論的転換が析出されるに至った概念史的および論理的必 然性を明らかにすべく、改めて“狭間の思考”としてのBatesonならびに Hermanによ る〈長期反復性外傷〉論の認識論的意義について検討した。そして、彼らの議論から共通 して見出される「外傷的絆の維持」と「人格形成途上での断続的失敗」という二つの重要 論点の中から、かの二極的発想が乗り越えられる概念史的‐論理的必然性が既に宿ってい たことが明らかとなった。ここに、筆者が呼ぶところの“狭間の思考”としてのあるべき 姿が窺える。

以上、一連の概念史的検討の成果は、例えば現在進行中の心的外傷研究の動向に目を移 せば、未だ発展途上にある「外傷性人格障害(Traumatic Personality Disorder)」と呼ば れる一領域に対し、「人格」概念を扱うことの認識論的意義を提示することにつながるだろ う10)。また他方では、Fairbairnの名を既に挙げたように、Freud以降の対象関係論学派 を中心とする諸々の精神分析学的外傷理論に対し、主知主義的接近からの脱却を促す重要 な議論ともなるだろう。

ただし、そのような学術的意義が見出される一方で、一つだけ留意しておくべき点があ る。それは、あの二極的発想を“完全に”乗り越えることなどそもそも可能なのか、ある いは望ましいのかという問題である。とりわけHermanの議論に接した際、この疑問が自 ずと湧き上がってしまう。「複雑性PTSD」という名称を用いているように、彼女は“外傷 後.

(post....

-traumatic)”という表現を捨て去っているわけでは決してない。また彼女が、被

害者が何らかの「監禁状態(captivity)」に置かれていたことを、〈長期反復性外傷〉を構 成する要件の一つに挙げている点も見逃せない。彼女が使う「監禁状態」という表現には、

戦時中の捕虜体験や強制収容所での生活を事例とした比喩的ニュアンスが強い。とはいえ この表現からは、扱われる外傷体験がたとえ長期反復性のものであっても、その[外傷的 出来事]をある明確な時間的始点と終点を持った、限られた一定区間内の出来事として位 置付けたいという強い思いが、ひしひしと伝わってくるのだ。

ここから筆者は、「治療同盟者」としてのHerman の姿を感じ取ってやまない。被害者 に対し、監禁状態と呼ぶべき過酷な状況から脱出した「生存者(survivor)」としてのアイ

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デンティティを付与することは、今現在は安全な環境に身を置いているのだという感覚と、

その感覚によって初めて達成されうる新たな人格的再統合と外傷性記憶の再構成に向けて、

有効な手立てとなる。それは、かつて放棄されたメタ認知の機会を取り戻させる作業でも あり、その意味で二極的発想の有益性を認めそれを被害者に提供することは、治療への確 固たる力動ともなるのである。

畢竟、筆者は、〈長期反復性外傷〉の被害者に携わる際、次の二つの立場を巧みに使い分 けることが、今後の重要な指針となるべきではないかと考える。すなわちそれは、〈自己統 制力の獲得と外傷性記憶の再構成に向けた治療同盟者〉としての立場と、〈(被害者の主観 的認識に対する)現象学的接近を旨とする分析者〉としての立場の二つである。筆者の考 える「臨床(clinic)」とは、かの二極的発想をめぐるこの立場の「二重性」を享受し、身 をもって体現していくことに他ならない。

とはいえ我々は、この二重性の一端を担う〈現象学的接近を旨とする分析者〉のあるべ き姿について、より深く追究していく必要があると考える。さしあたり筆者の言う「現象 学的接近」を定義しておくと、「正常/異常(病理)」という認識枠組みを所与のものとす る精神医学/病理学、ならびにその中で一般に流布している疾病単位ないし症候学的カテ ゴリ等に極力依拠することなく ――少なくともそれらを議論の出発点とも終着点ともせ ずに―― 、当事者の主観的経験のありようを最大限、追体験的に了解し記述すること、

と言えるだろう11) 12)。次章でLaing & Estersonの家族臨床研究を取り上げるのは、まさ に彼らが、統合失調症患者個人のみならずその家族成員に対しても、実存的‐現象学的観 点からの接近を一貫して試みようとしていたからに他ならない。J. P. Sartreらの強い影響 下にある彼らが、実存的‐現象学的接近を通じて追体験しえた状況 ――彼らの表現で言 うと「可知化(intellection)」しえた状況―― とは、一体いかなる心的外傷性を有する 状況なのか。さらにその研究成果が、(Sartreに由来する)「(家族の)全体化(totalization)」 と呼ばれる観点の獲得に向けた、いかなる“狭間の思考”としての認識論的意義を有して いるのか。これらの問題について、次章で明らかにしていきたい。

[第 II 章 注]

1) このような集団的外傷体験のアナロジーに基づく限局的認識は、後年の Freud の思索 においても確実に引き継がれている。例えば『続・精神分析入門講義』(Freud [1933] 1973:

100)の中では、それまで多用されてきた「外傷的状況(traumatische Situation)」とい

う表現に代わって、「外傷的瞬間(traumatischen Moment)」という表現がわざわざ用い られている。彼は「快原則の彼岸」(JdL 10)などで、「不安(Angst)」と「驚愕(Schreck)」 とを区別し、ある外的危険状況に対する予期状態を意味する前者は、後者の状態に陥るこ とをあらかじめ予防し、さらには神経症症状に陥ることをも防御する役割を果たすと述べ ている。上記のように「瞬間」とも「契機」とも訳出可能な„(traumatischen) Moment“と いう表現が採用された背景には、外傷体験というものが継続的な予期的「不安」状態すら 許さないほどの不意打ちかつ「驚愕」体験であることを、殊更に強調するためだったと考 えられる。

ところで、驚愕状態に陥るほどの外傷体験と聞くと、対人関係上のそれの場合、明確な 加害的意図を持った人物が突如として無力な被害者に襲い掛かるようなケースが、一律に

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イメージされるのではないかと思われる。しかしながらFreudは、加害者の側の心理 ―

―加害的「意図」の明確さなど―― がいかなるものであるか、そしてそれが被害者の驚 愕体験や後の症状形成の深刻度にどのように影響するかといった点に関しては、ほとんど 厳密な議論を施していない。これはそのまま、Freud外傷論を扱う際に避けて通れないヒ ステリー研究および「性的誘惑」をめぐる、極めて重要な論点でもあると筆者は考える。

彼はJ. Breuerと手がけた初期のヒステリーに関する論考(Breuer und Freud [1895] 1977)

の中で、近親者からの性的誘惑、すなわち性器を刺激されることによる欲動興奮の高まり が症状形成に寄与すると述べているが、その際の近親者の加害的意図については詳しく論 じていない。それどころか後年になると、問題となる性器刺激は、近親者(とりわけ母親)

が身体の世話をする際“偶然に”性器に触れることによって引き起こされた快感であると 結論付けられ(Freud [1933] 1973: 129)、加害的意図の性質が問われる余地そのものが根 本的に失われてしまっている ――集団的外傷体験とのアナロジーにおいて、この外傷体 験の「偶然性」という観点も、〈限局的認識〉と共に敷衍されたものと筆者は推察する―― 。

Freudの関心はあくまで外傷被害者の(神経症的)内的力動に向けられており、彼の複

雑かつ思弁に満ちたメタ心理学体系は、この一貫した関心に沿って構築されたものであっ た。だがそれは裏を返すと、加害者の側の心理、ならびに加害者と被害者との社会的関係 性や情動的交わりといった点にまでは、十分な分析の行き届かないものである。後に筆者 は本論の中で、BatesonならびにHermanに代表される〈長期反復性外傷〉論を扱うが、

彼らがFreud外傷論に対する批判的議論として重要なのは、単に〈限局性外傷〉に対する

認識論的批判を展開したというだけでなく、加害者との通時的な関係性という部分にまで 分析の視野を押し広げたからでもある。そのことを端的に示したものが、後に本論で取り 上げる「外傷的絆の維持」という論点である。

2) Freudの精神分析学的力動モデルの一角をなす「経済論」的観点が、彼の擬似物理学的

な自然科学観を端的に表したものだと言えよう。彼は『精神分析入門講義』の中で、「外傷 性という言い方は、経済的なそれ以外の意味は有していない(der Ausdruck traumatisch hat keinen anderen als einen solchen ökonomischen Sinn)」(Freud [1917] 1973: 284)

とまで断言するほどである。

3) なお序論で紹介したHoffman(1981: 6)もまた、外因型の精神力動モデルを批判する 際に同様の指摘をしている。

4) 前章でも一度登場した「物象化」という概念は、Bateson においては、かの有名な K.

Marx によって展開された商品や資本の物神崇拝という議論を意味しているわけではない 点に留意されたい。

5) つまり小出浩之(1983: 51-2)のように、ダブル・バインド状況を生き延びるための防 衛手段としてスプリッティングの有効性を指摘する議論は、筆者からすると全て誤りであ ると考えられる。繰り返すようにスプリッティングとは、母親との対象関係を構築するに あたって、〈愛情に満ちた母親〉と〈敵意に満ちた母親〉という二つの対象表象の結合を模 索するのではなく、その分離を維持し続けるという防衛機制である。小出の議論に従うな らば、この防衛機制に依拠することで、自己‐確証の過程においては、分離されたままの

〈愛情に満ちた母親〉表象をさらに捨象することが可能だということになり、「愛情」とい う要素によって自己‐確証が断続的に阻害されるという混乱状況は回避できるのではない