近年加速する地球温暖化やエネルギー資源の枯渇への懸念から,クリーンで持続可能 なエネルギー源としての水素が注目されている.水素をエネルギー源とする機器が普及 するためには,機器の安全性を高め,製造・運用コストを引き下げることが必要である が,その過程において水素脆化が大きな問題となる.例えば,燃料電池自動車に用いら れる水素ガス蓄圧器には現行規格で70 MPaの水素ガスが充填されるが,このような高 圧水素ガスに金属材料が曝された場合,材料内部に水素原子が侵入し,多くの材料で機 械的特性が悪化する.そのため,高圧水素ガスに触れる部材に使用できる材料を,水素 により特性が悪化しないものに限定することにより,水素利用機器の安全性が確保され てきた.こうした水素の影響を受けない材料は一般に高価であるため,水素利用機器の コスト低減に対して不利に働く.そこで,本研究では,耐水素脆化特性に優れた金属の 高強度化による水素利用機器の低コスト化に着目した.高強度材料を使用することによ り材料の使用量を低減することができ,材料コストを削減することが可能である.また,
高強度材料を使用することにより機器の軽量化も実現でき,特に輸送機器の分野では運 用コストの低減にもつながる.
本論文では,耐水素脆化特性に優れた高強度金属開発のため,水素脆化メカニズムに 基づく合金設計の指針を構築することを目標とした.そのために,水素により顕著に延 性低下するニッケルと,ほとんど水素の影響を受けない銅の合金である,銅―ニッケル 二元合金をモデル材料として選定した.さらに,材料の強化手法の一つである析出強化 に注目し,銅とニッケルをベースに析出強化した材料であるモネルK-500についても研 究対象とした.これらの金属の変形・破壊挙動に及ぼす水素の影響を網羅的に調査し,
それぞれの合金組成において水素脆化を支配するメカニズムの解明を試みた.以下に本 研究で得られた結論を総括する.
第2章では,研究に用いたモデル材料について述べ,さらに水素固溶度と水素拡散特 性の調査を行った.得られた結論を以下に示す.
1. 飽和水素濃度cSは55 Niで最大となり,ニッケル量が増加もしくは減少するにつれ てcSは減少した.
2. 30~100 Ni の範囲では,ニッケル量の減少とともに拡散係数はわずかに減少した.
3. ほぼ同量のニッケルを含有する70 NiとK-500とのcSを比較すると,K-500のcSは
70 Niの2倍以上であった.また,K-500の拡散係数Dは70 Niの1/10程度であっ
た.これらの違いは,K-500中の析出物がトラップサイトとして作用したことに起 因すると考えられる.
第3章では,100 Niおよび55 Niの水素による硬化メカニズムを解明するため,両材
料の硬化挙動の温度依存性を調査した.得られた結論を以下に示す.
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1. 100 Niおよび55 Niの両方の材料で,水素により降伏応力および流動応力が上昇(硬
化)した.しかし,その硬化挙動の温度依存性は100 Niと55 Niで逆転した.すな
わち,100Niにおいては室温の方が77Kよりも流動応力の上昇が大きかったのに対
して,55Niにおいては77Kの方が室温よりも流動応力の上昇が大きかった.
2. 100 Niは,室温において加工硬化率dσ/dεの上昇を伴い硬化した一方,77 Kにおい
てはdσ/dεの上昇を伴わずに硬化した.55 Niは試験温度によらず,dσ/dεの上昇を
伴わずに硬化した.
3. 室温において3.3%の塑性ひずみを与えた100 Niを走査型透過電子顕微鏡(STEM) により観察したところ,水素チャージ材のセル直径は未チャージ材に比べて小さか った.一方,室温において10 %の塑性ひずみを与えた55 Niでは,水素によるセル 直径の変化は観察されなかった.
4. 100 Niを室温変形させた場合に観察されたdσ/dεの上昇を伴う硬化は水素により転
位組織の発達が助長されたことに起因すると考えると,100 Niの硬化挙動の温度依 存性を説明できる.一方,dσ/dε の上昇を伴わない硬化は主に固溶強化に起因する と考えられる.
5. 硬さ試験の結果,水素による硬化には可逆的な成分と不可逆的な成分を含むことが 明らかとなった.100 Niを室温変形させた場合には不可逆的な成分が多く,その他 の場合には可逆的な成分が多かった.可逆的な成分および不可逆的な成分は,それ ぞれ水素による固溶強化と転位組織発達の助長による硬化に対応していると考え られる.
6. 以上の試験結果を総合的に考慮すると,室温における100 Niの水素による硬化は,
主に水素による転位組織発達の助長に起因していると考えられる.一方,室温にお
ける55 Niの水素による硬化および77 Kにおける100,55 Niの水素による硬化は,
主に固溶強化に起因していることが想定される.
第4章では,純ニッケル(100 Ni),銅―55 wt.% Ni(55 Ni)および純銅(0 Ni)を対 象に,水素による強度・延性挙動を明らかにし,そのメカニズムについて議論した.得 られた結論を以下にまとめる.
1. 100 Niおよび55 Niの両方において,室温での水素による延性・強度の低下が確認
された.同じ水素チャージガス圧力(100 MPa)で比較すると,その低下量は100 Ni の方が大きかった.
2. 100 MPaのガス圧力により水素チャージした100 Niおよび55 Niを77 Kで引張試
験すると,100 Niでは室温と同様に強度・延性の低下が見られた一方,55 Niでは 強度・延性が低下しなかった.
3. 100 Niの水素による延性・強度低下挙動の温度依存性から,低温で働きが弱くなる
メカニズム(水素による転位のキャラクターの変化・水素による変形の局所化)が
100 Niの水素助長破壊に対して果たす役割は限定的であると考えられる.また,こ
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れらのメカニズムが55 Niの水素助長破壊に関与していたことを示す実験・観察結 果は得られなかった.
4. 100 Niにおける絞り(RA)および真破断応力(TFS)の固溶水素濃度依存性の調査
では折れ点の存在が確認された.55 Ni においては調査を行ったすべての範囲で固 溶水素濃度の増加とともにRAおよびTFSは低下し,折れ点は存在しなかった.折 れ点よりも低い固溶水素濃度では100 Niの水素助長破壊形態は55 Niと類似してい た.
5. 100 Ni 0.7 MPa水素チャージ材と55 Ni 100 MPa水素チャージ材の水素助長破壊挙
動を比較すると,ディンプルとファセットにより構成されるマクロには平坦な破面 を形成した点,試験片内部に粒界き裂が確認された点など,多くの類似点が認めら れた.これらの観察結果は,100 Niと55 Niには共通した水素助長破壊メカニズム が存在することを強く示唆している.
6. 以上の実験・観察結果から,100 Niおよび55 Niにおいては粒界破壊を生じさせる のに必要となる局所水素濃度の限界値が存在することを提案した.変形初期の局所 水素濃度が限界値に達していない場合には,変形中の動的な水素の供給により局所 水素濃度が限界値を超えると考えられる.55 Ni におけるこの局所水素濃度の限界
値は,100 Niよりもかなり高いと推察される.
第 5 章では,100 Ni におけるトラップ水素濃度を昇温脱離分析(thermal desorption
analysis: TDA)により定量評価し,そのトラップ水素の存在位置を二次イオン質量分析
(secondary mass iron spectrometry: SIMS)により可視化した.さらに,低ひずみ速度引 張(slow strain rate tensile: SSRT)試験により,トラップ水素濃度が100 Niの強度低下に 及ぼす影響を定量的に調査した.得られた結論を以下に示す.
1. 100 NiのTDAプロファイルは2つのGaussianピークに分離された.低温側のピー
クは格子間サイトに,高温側のピークはトラップサイトに対応していると考えられ る.
2. 水素トラップの局所平衡に関する理論式から,TDA プロファイル上で確認された 高温側のピークは,20.6 kJ/molのトラップエネルギーを持つトラップサイトに起因 すると推定される.
3. SIMS 分析により,結晶粒界に沿った水素の濃化を可視化した.水素は結晶粒界そ のものの他に粒界偏析した硫黄の周囲にも濃化していた.
4. SSRT試験により測定した相対絞り(relative reduction in area: RRA)および最大真応
力(maximum true stress: MTS)は,トラップ水素濃度の上昇とともに低下した.ま
た,RRTおよびMTSが低下する際,粒界破面を伴った.これらの結果は,結晶粒 界の周辺に集積した水素が粒界破壊を助長することが,100 Niにおける延性・強度 低下の要因であることを示している.
第6章では,調査対象を30 Ni,70 Niおよび析出強化系合金K-500に広げ,変形・破
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壊挙動に及ぼす水素の影響を網羅的に調査した.その結果,以下に示す結論が得られた.
1. 100 NiにおいてTDAプロファイル上に確認されたトラップサイトに対応するピー
クは,他の銅―ニッケル二元合金およびK-500においては確認されなかった.この
ことは,100 Niを除く合金中には水素のトラップサイトが存在しないか,存在した
としてもそのトラップエネルギーが非常に小さいことを示唆している.
2. 銅―ニッケル二元合金では,ニッケル量が減少するに従い水素による硬化が抑制さ れた.これは,水素による転位組織発達の助長および固溶強化の両方が,ニッケル 量の減少とともに抑制された結果であると考えられる.
3. 銅―ニッケル二元合金では,ニッケル量が減少するに従い水素による強度・延性低 下が抑制されるようになった.このとき,破面形態も延性的なものに遷移したが,
破壊の基点は結晶粒界の割れであった.このことから,銅―ニッケル二元合金およ
びK-500における水素による強度・延性低下は,水素により粒界破壊が生じること
に起因すると考えられる.
4. 銅―ニッケル二元合金およびK-500における水素助長粒界破壊には,結晶粒界に沿 った水素の濃化およびそれによる粒界強度の低下という共通のプロセスが存在し た.ニッケル量の上昇とともに水素によるMTSの低下量が大きくなったことから,
水素による粒界強度の低下はニッケル量が多いほど顕著になると考えられる.
5. 水素による粒界強度の低下挙動に対して,γ’ (Ni3 (Al, Ti)) 相は影響を及ぼさないと 考えられる.このことから,銅―ニッケルをベースとする析出強化金属の水素脆化 特性は,析出物を含まないベース金属の水素脆化特性から予測可能であることが期 待される.すなわち,銅とニッケルをベースとする耐水素脆化特性に優れた高強度 金属の開発にあたっては,母相を水素による粒界強度の低下が生じない組成とする ことが必要条件であると言える.