トラップ水素の水素助長粒界破壊への役割
5.1 緒言
第2章で行ったTDA測定では100 Ni中に水素のトラップサイトが存在することを,
第4 章では平衡状態において粒界周辺に集積している水素が100 Ni の水素助長粒界破 壊を支配することをそれぞれ示した.しかし,結晶粒界近傍への水素の集積と,その集 積した水素の粒界破壊への関与を裏付ける実験的根拠は得られていないままである.
先行研究においては,純ニッケルにおける結晶粒界のトラップエネルギーを実験的
[1–4] および解析的 [5–7] に求めることで,純ニッケル中の結晶粒界がトラップサイト
として作用することが示されている.FukushimaとBirnbaum [8] は二次イオン質量分析
(secondary mass ion spectrometry: SIMS)により,結晶粒界への重水素の集積の有無を直 接観察している.図5-1は,彼らが報告した,粒界を通る直線上における水素濃度分布 の1 次元マッピングである.図中のmass 2 が重水素の水素濃度分布を示している.図 によると,結晶粒界付近で重水素が検出されており,彼らの結果は結晶粒界への重水素 の集積を直接的に示している.また,Oudriss ら [9] は同様のSIMS 分析を軽水素にお いて実施し,軽水素の結晶粒界への濃化を報告している.加えて,分析した結晶粒界を Σ3nの対応関係を持つspecial boundaryとそれ以外のrandom boundaryに分けて水素のト ラップ挙動を調査し,特にspecial boundaryに水素が多く集積していたことから,special
boundaryが水素のトラップサイトとしての働きを持つと結論づけている.従来,材料中
における水素濃度の分布を観察するには重水素や三重水素などの放射性の水素を使用 する必要があったが,以上にようにSIMSを用いることで軽水素の濃度分布も直接観察 できるようになりつつある.
一方で,結晶粒界にトラップされた水素が純ニッケルの粒界破壊に及ぼす影響として,
LassilaとBirnbaum [2,3] は局所平衡理論を通して議論している.彼らは,純ニッケルを
高圧・高温の水素ガス中で水素チャージした後,液体窒素温度まで急冷することにより,
試験片中に水素を一様分布させた.その後,種々の温度において引張試験を実施してい るが,その際,破断までに試験片を試験温度で保持した時間を変化させ,粒界破面率を 保持時間で整理している.図5-2に示すのはその結果であるが,保持時間が長くなるに つれて粒界破面率が上昇し,ある値に収束していることが分かる.彼らは,この粒界破 面率の保持時間依存性が局所平衡による水素の結晶粒界への集積に起因すると考えた.
そこで,結晶粒界へ向けた水素拡散と,その水素の結晶粒界へのトラップを考慮し,破 面の全面が粒界ファセットで覆われるのに必要な時効時間 tcを次式 [2] のように導い た.
100
2 1 d b
c 0
age age
exp exp 2
4
Q H
t d D
RT RT
(5-1)
ここで,dは有効結晶粒径,D0およびQdは格子拡散における振動数項および活性化エ ネルギー,Rは気体定数,Tageは時効温度,Hbは結晶粒界の水素に対する結合エンタル ピーである.彼らは,種々のTageにおいてtcを実験的に求めることにより,Tageとtcの
間には式 (5-1) に示される関係があることを認め,Hb = 11.6 kJ/molと報告している.ま
た,この値を結晶粒界のトラップエネルギーと対応づけている [2].
以上の一連の実験結果は,結晶粒界にトラップされた水素が純ニッケルの水素助長粒 界破壊を支配していることを示唆するものである.しかし,これらの調査は,①結晶粒 界への水素の集積および②粒界破壊に対するトラップ水素の関与をそれぞれ独立して 調査したものであり,結晶粒界へトラップされた水素と純ニッケルの粒界破壊とを結び つけていない.また,LassilaとBirnbaumが結晶粒界のトラップエネルギーとして報告
する 11.6 kJ/mol という値 [2] は,他の研究者らにより報告されている値 [1,5–7] と比
較してかなり低く,必ずしも結晶粒界に存在する水素が粒界破壊に関与していると断言 できない.このような状況から,結晶粒界にトラップされた水素が粒界破壊の主因子で あると断言するには疑問が残っていた.
そこで,本章では,結晶粒界への水素の集積挙動と,集積した水素が水素助長粒界破 壊へ及ぼす影響を定量的に調査することを目的とする.結晶粒界への水素の集積挙動は 昇温脱離水素分析(thermal desorption analysis: TDA)およびSIMSにより,集積した水 素の破壊挙動への影響は低ひずみ速度引張(slow strain rate tensile: SSRT)試験およびそ の後の破面観察により実施した.
101
図5-1 結晶粒界と交差する直線上における,重水素(mass 2)の1次元マッピング [8].
図5-2 粒界破面率を試験温度における試験片保持時間にて整理した結果 [2].
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5.2 実験方法
5.2.1 供試材および試験片
第2~4章で使用した材料のうち,100 Niを対象として試験を実施した.素材から,
TDA 分析,SIMS 分析および SSRT 試験に用いる試験片を採取した.TDA 用の試験片 は,圧延方向と軸方向が一致するよう直径5 mmの円柱を採取し,表面を#600の研磨紙 で仕上げた後,その円柱からファインカッターにより厚さ5 mmのチップを切り出すこ とで作製した.SIMS 分析用の試験片は,素材から一辺7 mm厚さ3 mm の角柱を採取 し,観察面を腐食研磨により鏡面に仕上げて作製した.このとき,観察面の法線が圧延 方向と一致するようにした.SSRT試験片は,第3章および第4章で使用した物と同一 形状・仕上げである.いずれの試験片も加工および研磨を行った後に923 K,2時間の 真空焼鈍を施した.
5.2.2 水素チャージ
以上の試験片を543 Kの高圧水素ガスに200時間曝露することで,試験片中に水素を 一様分布させた.このとき,水素ガス圧力pHを変化させることで,飽和水素濃度cSを 変化させた.水素ガス圧力は,TDAおよびSSRT試験片に関しては0.7,11,50および
100 MPa,SIMS用試験片に関しては100 MPaとした.試験片からの水素放出を避ける
ため,水素チャージ後には試験片を188 Kにて保管した.TDA測定,SIMS測定および SSRT試験を実施する前には,試験片を室温で3時間以上保持し,試験片中の水素濃度 分布が平衡状態となるようにした [2](第4章参照).
5.2.3 TDA測定
TDA測定の条件は,昇温速度100 K/h,到達温度1073 Kとした.図2-4 (e)(第2章)
で示したように,100 Niにおいては2つのピークが確認されており,それぞれ格子間水 素とトラップ水素と対応していることが想定される.そこで,Gaussian曲線でのフィッ ティングによりこれらのピークを分離し,それぞれの水素量(cH 1,cH 2)を求めた.
5.2.4 トラップエネルギーの推定
TDA プロファイルより求めたトラップ水素濃度の水素チャージガス圧力依存性から,
TDA プロファイルの高温側のピークを形成するトラップサイトの結合エネルギー(ト ラップエネルギー)を求めた.格子間サイト占有率L 1のとき,平衡状態におけるト ラップサイト占有率θxは,次式により表される.
b
X L
X
1 exp
Q RT
(5-2)
ここで,Qbはトラップサイトの結合エネルギー,Rは気体定数(8.314 J/K mol),Tは絶
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対温度である.この式は第2章の式(2-8)と同一であるが,式中の表記を一部改めている.
1つの格子間水素原子が1つのOサイトを占めると仮定すると,fcc金属の場合θLは水 素の原子数濃度と一致する.
図5-3に,式 (5-2) から計算したθXのQb依存性を示す.Qbが上昇するにつれてθXも 上昇し,Qbが十分に高くなると θX ≈ 1となる.また,水素チャージガス圧力が高いほ ど,すなわち,格子間水素の濃度が高いほど,θX ≈ 1となるQbは小さくなる.図3中に 例示するように,グラフ上にQbが一定となる直線を引き,この直線と式 (5-2) で表さ れる曲線との交点を読み取ると,そのQb,pHにおけるθXを求めることができる.例え ば図中の破線はQb = 20 kJ/molを示しており,このときのθXは0.91(pH = 100 MPa),
0.88(pH = 50 MPa),0.79(pH = 11 MPa),0.26(pH = 0.7 MPa)である.以上の手順によ り様々なQbに対してθXを反復計算し,得られたθXをcH 2と比較して最適なQbを探索 することで,高温側のピークに対応するトラップサイトのQbを求めた.
以上の方法によりcH 2からθXを求めるためにはトラップサイト密度が必要であるが,
材料中のトラップサイト密度が不明なため,cH 2から直ちに θXを求めることはできな い.しかし,少なくともθXとcH 2は比例関係にあるはずである.そこで,上述の方法に より算出したθXとcH 2の相関係数R2を求め,最大のR2を与えるQbを求めることとし た.R2は次式により計算した.
2
X, X,
2 1
2
X, X
1
1 ˆ
n
i i
i n i i
R
(5-3)ここで,n はデータ数,X,iはi 番目におけるX,ˆX,iは回帰直線上のX,i,XはXの 平均値である.
5.2.5 SIMS測定
水素分布と結晶粒界およびそのキャラクターとの対応を明らかにするため,SIMS 分 析の前にEBSDによる結晶粒界のマッピングを行った.EBSD分析は,加速電圧20 kV, ステップサイズ 5 μm にて実施した.EBSD により得られた結晶粒界マップから SIMS により観察する視野を決定し,その視野中での水素分布を1Hの二次元マッピングによ り可視化した.SIMS分析の条件は,加速電圧15 kV,セシウムイオン強度60 nA,走査
範囲300 × 300 μm2とした.ただし,後述するように走査範囲周囲からの偽信号を除去
するために四辺50 μmを除去した結果,実際の視野は200 × 200 μm2となった.SIMSで 検出される1Hの信号には,試験片表面の汚染やチャンバー中の水分などに起因する偽 信号が含まれ,材料中の水素を高精度に検出するためにはこの偽信号を最小限に抑える 必要がある [10–12].そのために,SIMS測定の手順に以下の操作を加えた.
① チャンバー壁や試験片表面に付着した炭化水素や水分を抑制するため,試験片を チャンバーに挿入した後に十分な時間のSiスパッタを行う.