第4章 「定常状態」への移行に際してエネルギーおよび食料の果たす役割
第2節 :結論
それでは、持続可能な社会への転換の実現可能性はどう捉えるべきか。まず、確かなこ とは、資本主義経済は金融化することによって強引に成長路線を進もうとしているため、
環境的持続不可能性に拍車がかかっている。したがって、転換しなければならないことは 反対の余地はないであろう。
「定常状態」は富と人口の増加が停止した状態であるから、経済の規模は一定である。
つまり、エネルギー消費をはじめとする環境負荷も一定以内に収まる。その移行手法とし ては、再生可能エネルギーを基盤としたエネルギー体系の構築にある。そして持続可能な 社会は"Basic Freedom"に基づく必要があるから、食料を保障することも求められる。エネ ルギーは地域特性によって、食料は市場にゆだねることに不向きという理由によって、そ れぞれ自給体系が構築される必要がある。
両者の自給体系の構築は、持続可能な社会としての「定常状態」への移行に必要な要素 であり、自給体系が構築できれば「定常状態」の実現可能性はあるといえる。それは屋久 島やロシアでの現実をみたときに、少なくとも可能性の否定はできないことが物語ってい る。
最後に、エネルギーおよび食料の自給圏の構築をどのように進めるのかについて少し言 及しておきたい。屋久島の例のように、基本的には地方自治体やあるいはより細かい地域 単位の方が、自給圏域を構築しやすいことは言うまでもない。なぜなら、再生可能エネル
ギーには地域特性があるためで、食料に関しても基本的には同じことが言えると考えられ る。したがって、自給圏を構築するための基本的な地域単位としては、地域の状況を理解 できる市町村レベルの行政単位が適当であろう。ただ、自給圏を構築する過程では当然の ことながらそれなりの費用が見込まれ、財政面でそうした取組が難しい市町村も出てくる であろう。そうした時はやはり国の支援が必要になる。また、ある地域で不足するエネル ギー・食料は他地域との移出入も行われて然るべきであり、そのような時にやはり国によ るコーディネートが必要となる可能性も出てくると思われる。したがって、エネルギー・
食料の自給圏の構築は、基本的には国が政策として進めることが妥当であり、現場レベル の取組主体は地方自治体ということになろう。
186)戸田武雄『経済哲学』草人社、1993年、PP100-101
187)ゾンバルトは資本主義の概念について「同時に指揮権をも有し経済主体である生産手段所有者と無所有の単なる 労働者(経済客体としての)とが市場によって結合され労働するところの、そして営利主義と経済的合理主義とによ って支配されるところの、ひとつの流通経済的組織である」として、営利主義と経済的合理主義とが支配することを あげている。(ヴェルナー・ゾンバルト 岡崎次郎訳『近世資本主義』第一巻第二冊、生活社、1943年、P466)
188)マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』梶山力訳、安藤英治編、未來社、1994 年、P93
補論 資本主義確立期における担い手と職業倫理に関する考察
緒言
ヴェルナー・ゾンバルトは資本主義という言葉を普遍化せしめた功労者であり 186)、氏 によれば資本主義の枠内においては貨幣利得を目的として経済活動が行われる、すなわち 営利の原則が支配するという187)。我々は、この営利が支配する資本主義の世界で生まれ、
個々の意識とは関係なく営利を追求する経済社会に組み込まれており、営利の追求を至極 自然なことと認識している。資本主義経済において営利の追求は、商品生産と市場を通し た交換が社会的に全面展開しながら行われる。一方歴史的に見れば、資本主義以前におい ては当然ながら商品交換により営利を追求する社会が全面展開することは見られない。そ れらの時代では大部分が農民であり、自給自足に近い生活が営まれており、営利とはほど 遠いといえる。現代では、資本主義という外枠に強制される形で営利を追求するが、その 外枠がなかった時代、つまり封建時代に、それまで人々にみられなかった営利追求の姿勢 がどこから生まれたのか。その姿勢なくして資本主義が成立すると考えることはできない のである。
マックス・ヴェーバーはゾンバルト同様、資本主義において人々が営利を目的として活 動することを挙げているが、さらにそれがプロテスタンティズムの職業倫理に規定されて いる、倫理的な色彩をもつ生活原理だとしている。営利を追求するという意味での資本主 義ならば、中国や印度、古代にも中世にも存在していたが、そこから近代資本主義は芽生 えなかったのである。また、ゾンバルトも資本主義における倫理的側面を無視しているわ けではないが、彼の考えによればその倫理的側面は資本主義の結果であり、ヴェーバーは 倫理的側面が資本主義の形成の一翼を担っていると主張する 188)。すなわち資本主義の萌 芽期において人々の営利追求という精神が重要な役割を担っているのであり、それを醸成 した要因について、ヴェーバーは論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
(以下、「倫理」論文と略記)を中心に考察しているのである。
イギリスはいち早く資本主義を確立したため、「イギリスに追いつくため」に資本主義 化していった後発国とは、資本主義確立の過程やそれを担った人々の階層に違いがあると 考えられる。そのイギリスにおいて「資本主義の精神」の担い手がどのような階層の人々 であったのか。大塚久雄氏によれば「資本主義の精神」の担い手は、資本家と労働者の双 方であるが、かれらは「資本主義の精神」をもった中産的生産者が分化したことによるも
189)大塚久雄氏は「中産的生産者層の内面に「資本主義の精神」が宿ったばあい、そのうちのある人々は経営を拡大 して近代的な産業経営者となり、取り残された他の人々は経営内の規律にみずから進んで服することができるような 近代的な労働者となっていく」(マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄 訳、岩波文庫、1989年、P390)
190)小柳敦史「資本主義の精神と近代の運命-ヴェーバー・ゾンバルト・トレルチの比較から-」(『キリスト教と近 代社会』2011年、P40)
191)マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』梶山力訳、安藤英治編、未來社、1994 年、P169
192)『同上書』P174 193)『同上書』P224
のだとしている 189)。しかしながら彼らが「資本主義の精神」を持ち、資本主義の形成に おいて主要な役割を果たしたのかという疑問が挙げられる。つまり現実の資本主義形成と
「倫理」論文との整合性が問題である。そこで本稿ではイギリスにおいて封建制から資本 主義へと移行する際の歴史背景を整理し、ヴェーバーのいう「資本主義の精神」の担い手 がどういった階層であり、また彼らがヴェーバーの言う「資本主義の精神」の持ち主とさ れる階層であったかを検証していくものである。