第 4 章 認知科学とヴァレラの神経現象学
第 9 節 現象学的還元に対するヴァレラの見解
ヴァレラが認知科学に対して現象学ないし現象学的還元を導入する意図は、一人称的な アプローチという、人間的な経験の生動性を考察の基盤に据えようとするところにある。
ヴァレラは、この意図の下で、「経験によって示される現象の野と、認知科学によって提示 される現象の野の間で、相互に制限し合うこと(mutual constraints)による接合を探し
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求める」308という研究プログラムを提唱する。これは、科学の伝統的な研究スタイル、す なわち客観的な対象の観察という外面的な説明を重視するスタイルとは、根本的に異なっ たものである。そこでわれわれは、現象学における意識経験の記述、すなわち一人称的な アプローチの内実をヴァレラの理解に即して確認し、従来の外面的なアプローチによる研 究と、いかなる点で異なるのかを考察する。
ヴァレラは、現代の認知科学や、人間の経験を専門にして研究する諸学問を、現象学の 下で捉え直そうと考える。なぜなら、ヴァレラは、「経験についての真の科学が自然科学と 同等の基盤の上に立ち得るだけでなく、実際、自然科学に必要な根拠が与えられ、すべて の知識にとって、われわれの生きられた経験から必然的に創発するということは、フッサ ールが期待するものであったし、依然として現象学的な探求の背景を成す基本的なインス ピレーションでもあった」309と理解しているからである。上述したように(第4章第7節
4)参照)、ヴァレラ自身は、もともとメルロ=ポンティの身体論から、認知科学における
イナクションという発想を得ており、「生きられた経験」が、科学の土台になっているとい う考えに同調している。そしてそのことは、元を質せばフッサールの生活世界論であるこ とから、ヴァレラの見解は、フッサールの思想の系譜上にあると言えよう310。とくに、ヴ ァレラは、このようなフッサールの言及と共に、メルロ=ポンティの「事物そのものへと たち帰るとは、認識がいつもそれについて語っている.....
あの認識以前の世界へとたち帰るこ とであって、一切の科学的規定は、この世界にたいしては抽象的・記号的・従属的でしか なく、・・・」311という言及を、現象学的なアプローチの基本原理として理解している。こ のようにして、ヴァレラは、現象学における二人の重要な哲学者の思想を背景に、科学的 に規定される以前の体験そのもの、事象そのものを重要視して、それを考察の主題へとも たらす現象学的還元という方法を用いることになる。この現象学的還元を、ヴァレラは、
「意識することという能力についての特殊なタイプの反省、、、、、、、、、
ないし態度」312であるとし、そ して「直接的に感受されることにおいて体験された世界への還帰」313を促す方法であると 理解している。そしてヴァレラは、このような現象学的還元を遂行する上で、四つのポイ ントを上げている。一つ目は、現象学的還元という態度(attitude)、二つ目に直観の親密 性(intimacy)、三つ目に記述の不変項(invariant)、そして四つ目に安定性(stability)
の訓練である314。
ヴァレラが一つ目に挙げるのは、現象学的還元によって為される「態度変更」であるが、
これは、フッサールが定式化するように、自然的態度における経験の括弧入れ(エポケー)
によって、習慣的な思考や信憑を中止することである。これについて、ヴァレラの述べる ところでは、「還元という態度の体勢に入ることは、自動的な思考パターンに気づくことに よって、それをいったん流れ去らせて、そしてその源泉へと反省を向け変えることによっ て始まる」315というものである。つまり、思考の保留や中止というのは、思考の流れを止 める、考えるのを止めるというのではなく、まさにその流れの中に、考察の新たな可能性、
思考の源泉を見出すことなのである。したがって、現象学的還元は、自らの意識の内へ閉 じこもることではなく、新たな考察や研究へ展開するための契機として理解されるべきな のである。そして、ここで現象学的還元の成果として現れる源泉こそが、二つ目のポイン
94 トである「直観の親密性」である。
現象学的還元を遂行することによって、経験は直接性を持って、生き生きと現前する。
この直接的な経験は、ヴァレラによると、「経験する者と世界を引き離している常習的な霧 が無くなったかのよう」316に現れてくるという。つまり、現象学的還元の遂行という経験 は、深く親密な、両者の間に隙間のない体験そのものを開示させるのである。この体験こ そ、まさに現象学的な分析における明証性の基準であり、核となる。これについてヴァレ ラは、フッサールに即して、この明証的な体験の核を研究の始源とするならば、現象の多 様な可能性を考慮しつつ、その多様性に対して為される自由変更から、本質直観に至るこ とができると考えている317。これがまさに、ヴァレラの言う直観の親密性の内実である。
そして、これらの体験の明証性と本質直観が、ヴァレラの理解における現象学的還元を遂 行する狙いの三つ目、「記述の不変項」として提示される。
われわれの意識において直観にもたらされるものは、本質というある意味で抽象化され た内容、すなわち言語や記号など、コミュニケーションを可能にする表現へと書き移され、
翻訳されて、客観的に共有される。このような直観ないし操作について、ヴァレラは、「こ れらの〔経験の〕記述の諸々の質料性は、現象学的還元の構成的な一部分でもあるが、記 述の質料性を形式化する直観も、同様にわれわれの経験を形作っている。換言すれば、わ れわれはたんに公共的な記録へと「コード化する」ことについてのみ述べているのではな く、むしろ、われわれが経験するものを肉づけして形作る「具体化」ということについて も述べているである」318。つまり、体験の記述はもとより、それを、自由変更による本質 直観にもたらすことで、体験の内容をさらに具体的に形作り、そうして仕上がった直観の 内容は、本質的なものとして、公共的に伝達可能になる。したがって、体験を本質直観す ることは、体験の不変項を規定、抽出するために必要な手続きなのである。
そして最後に、「安定性の訓練」であるが、これは、現象学的還元を遂行するための鍛錬 が必要という意味である。現象学に馴染みのない自然科学ないし経験科学の研究者が、フ ッサールの提示する方法を直ちに遂行するのは困難であろう。現象学的還元という方法は、
客観化された実在的な事物の注意深い括弧入れと、括弧入れされた直接体験の直観という 把握をもたらすものであるが、これには熟練を必要とすると、ヴァレラは考えている。し かも、現象学的還元は、能動的な作用として意識的に行われるが、しかし、この現象学的 還元による態度変更は、「崩れやすい」319ものである。神経現象学において、意識経験を 自然科学的な成果と結びつけるといった研究プログラムを遂行するさいには、つねに体験 の直接性に立ち戻りつつ、客観的で実在的な観測結果を措定するという循環がなされるこ とになるが、しかし気を抜けば、体験の記述は、直ぐに自然的態度の客観的で実在的なも のとなり、それを主観的に解釈する信憑や先入観に陥ってしまう。したがって、ヴァレラ は、この現象学的還元の崩れやすさに対し、それを用いて体系的な研究をするためには、
「研究者たちの共同体からの鍛錬された上での参加を必要とする」320と考えるのである。
以上のことから、ヴァレラは、現象学的還元によって、1)これまでの観察や研究の前 提に対する信憑や立場を括弧入れする態度を取り、2)それによって見出される体験の親 密性として直接的な明証性を直観し、3)その直観における本質規則性を記述することで、
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それを不変項として間主観的に共通の理念へともたらし、4)これら上記の三つのことを 実現し、実用に耐え得るものにするために、訓練によって熟達した、安定的な現象学的還 元の方法を、研究者一人ひとりが身にづけることを目標とするのである321。
ではここで、上で見た(本文第4章第8節4)参照)サールの懸念に対し、このような 現象学的還元という方法論に則ったヴァレラが提示する回答を見てみよう。
一つ目の懸念は、内観の問題であったが、現象学的還元は、この問題も解消することが できる。現象学的還元によって見出されるわれわれの体験は、サールが懸念するような「私 秘的なトリップ」322ではない。何度も繰り返すが、現象学的還元の狙いは、経験を構成す る内的意識の志向的な体験を考察の主題とすることであり、この方法によって考察の主題 となる内的意識の分析は、心理学が行うような自然的態度において、意識を客観的な対象 として分析することとは異なっている。つまり、現象学的還元が呈示するのは、直接的な 個々の体験や感覚それ自体はもちろんのこと、意識経験の基礎的な構造原理(ノエシス-
ノエマの相関関係、過去把持、連合など)であり、経験を構成する本質規則性なのである
(本文第 1 部参照)。現象学的還元は、明証性において考察の対象を明確に規定し、その 構成の本質を見出す点で、サールが述べる曖昧な「思い描き」とは一線を画する学的な方 法なのである。
これらの記述と洞察は、英米系の経験論において呈示されるような心的な過程の反省と はまったく異なったものである。とくにその違いは、フッサールが呈示する原意識の議論 において顕著である(本文第1部第1章第2節参照)。つまり、原意識においてわれわれ は、内観がたんに反省によって意識の内容の対象化による確認に留まるのとは異なって、
まさに顕現的な意識構成がなされるさいの意識内容(ノエマ)と意識作用(ノエシス)自 体を実的に意識する働きそれ自体を確証することができる。原意識が意識の働きそれ自体 を対象化することなく把捉できることで、内観の内観というような無限遡行も起きないと いうことは、第1部での考察のとおりである(本文第1章第3節2)、第2章第4節1)参 照)。したがって、一人称的な、現象学的に言えば超越論的な主観性における直観は、サー ルが否定するような私秘的で盲目なものでは有り得ないのである。
二つ目の懸念は、三人称的な言明が心的現象の探求に寄与できないという点であるが、
これについてヴァレラは、端的に、「現象学的な探求は、間主観的に妥当であることをつう じて他者へと方向づけられている」323ことを強調する。還元を経た現象学的態度は、主観 と客観が対置される以前の、それらの分離が生じる以前の根源的な相関関係の明証性を開 示するものである。つまり、たんに内観主義的な反省によって、私個人の閉ざされた一人 称的経験に引き戻るということではまったくないのであり、むしろ現象学的還元が開示す る私の体験とは、自己と他者の分離以前の領野から、互に極として構成されるプロセスの 明証的な直観である限り、意識構成の本質規則性として呈示されるのである。そうして構 成された他者との間主観性において展開される三人称的な言明が学問的な妥当性を有する ことは、現象学的な分析から確証し得る事柄なのである(現象学の学問的な性格について、
以下の第5章第11節にて再度考察する)。ヴァレラは、一人称と三人称という自然的態度 での素朴で単純な対置を、研究をミスリードするものであるとして退けた上で、「三人称的