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第 1 章 時間意識の本質規則性としての過去把持

第 3 節 過去把持の発見

われわれは、フッサールの時間意識分析を考察する中で、彼の見出した様々な方途を確 認し、時間意識の根源的な解明へ向けて歩みを進めてきた。そしてわれわれは、この第 1 章の最終節において、フッサールの初期時間論の最大の発見である過去把持へと到達する ことになる。本節では、前節において絶対的意識という時間意識の最深の次元と、そこで 顕になる感覚の時間性の問題が呈示されたが、それに関連して、1)フッサールはこれま で分析に用いてきた統握‐統握内容図式を維持し得なくなる。このことについて、われわ

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れは、フッサールがいかなる理由からこの事態を招くことになってしまったのかを、確認 する。そして、2)フッサールが感覚の時間性を解明するにあたり、すでに指摘されてい た持続に関わる「新鮮な想起」の働きを改めて提題化し、その新鮮な想起が、統握とは異 なる特殊な志向性、すなわち過去把持であることを発見するという、彼の時間論における 決定的な転回を考察する。最後に、われわれは、3)この特殊な志向性である過去把持に おける二重の志向性という重要な特性を確認し、時間意識を構成する意識流の根源的な自 己構成について、考察することとする。以上の考察により、われわれは、時間意識におけ る過去把持という本質規則性を見出すことで、フッサールの十数年に及ぶ初期時間意識分 析に対する考察をいったん締め括り、そしてさらに次のステップへと歩を進めることとな る。したがって、われわれは、この第3節において、今後のフッサールの時間意識分析の 展開における基礎を得ることとなるだろう。

1)感覚の問題と統握‐統握内容図式の崩壊

フッサールはこれまで、知覚の持続を作用であるとして、統握図式を用いて時間意識の 分析を行ってきた。振り返ってみれば、フッサールは、1905年の時間講義で、作用体験の 内容を統握することで時間客体が構成されると考え、そのつどの統握の持続と、それらの 統握全体の持続を、二重の持続体として捉えていた(本文第1章第1節参照4)参照)。ま た、この当時のフッサールは、知覚の持続に対し、今の統握と過ぎ去った統握の区別をす るだけで、その構成の契機である感覚的な内容自体がいかなるものなのか、ということに は、あまり注意を払ってこなかった59。しかし、これまでのわれわれの考察が示すとおり、

原意識や絶対的意識という内的意識の諸特性によって、感覚与件の問題が浮き彫りになっ てくる。これに関して、フッサールは、知覚の持続に統握図式を用いることに疑問を抱く ようになる(vgl. HuaX, Nr. 46, Nr. 49)。

感覚の解明にあたり、フッサールは、絶対的意識を問題にしつつ、「われわれは、例とし て、強度、性質、音色にしたがって、しかじかに変様されつつある感覚の音や、高まった り弱まったりするなどの感覚の音を所有していた」(HuaX, S. 276)と指摘することで、

時間的な統一された知覚と、その契機である、たんなる感覚の区別を、改めて提示してい た。そしてさらに、フッサールは、このような感覚の内容的な変様を、新鮮な想起との関 連において、以下のように考察している。「ある音が次第に弱まるとき、音それ自体は、差 し当たり特殊な充実(強度)によって感覚されており、そして強度の即座の衰退がそのこ とに続いていく。〔だが、〕音はなおもそこにあり、〔すなわち〕なおも感覚されているのだ が、しかし〔その音は、〕たんなる残響の中で感覚されている。この真正な音の-感覚は、

新鮮な想起における音の契機から区別されねばならない。新鮮に想起された音は、現在的 なものでは一切なく、たった今において想起されたものである。〔すなわち、〕新鮮に想起 された音は、想起の意識において実的にそこにあるのではない」(HuaX, S. 311)。ここで フッサールは、「真正な音の感覚」と「新鮮な想起における音の契機」を、現在的なものか 否かに即して区別している。この区別は、新鮮な想起を作用として捉えることで、内容を 過去のものとして統握し、現在的なものの統握の仕方と区別するということである。だが、

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フッサールは、「現在的な音は、確かに過ぎ去った音「を」想起し得るし、その過ぎ去った 音を呈示し得るし、具象化し得る。しかし、そのことはすでに、ある他の過去の表象を前 提している。過去の直観それ自体は、具象化ではあり得ない。過去の直観は、原本的な意 識である」(ebd.)とも述べている。つまり、フッサールは、新鮮な想起における音を、現 在的なものではないとしながら、なおも直観として、原本的な意識であると記述するので ある60

このような過ぎ去りゆく感覚の直観について、フッサールは、それが時間意識分析の初 期において主張した新鮮な想起の働きにおける諸特徴、すなわち拡がりある現在を構成す る重要な働きであるという見解を、そのまま継続して用いている61。そしてまた、「そのさ い、二つの位相の間隔は、、、、、、、、、

、それらが沈み込む間、つねに、、、

同じものに留まっている、、、、、、、、、、、

という点 に規則、、

がある。沈み込むことの中でAは同じAとして保持し、Bは同じBとして保持す るといった恒常的な同一性の意識によって、それらは両方ともつねに同じ時間的な間隔、、、、、、、、

を 維持する」(HuaX, S. 317)という、そこで生じている位相間隔の持続的な同一性につい ても、保持の規則性が新鮮な想起の働きによるものであると指摘しているのである。だが、

このような新鮮な想起の分析に対し、フッサールは、「われわれは、ここでは至る所で、時 間的なものを、時間意識において実的に体験された内容をとおして、時間的な代表象、時 間統握によって生化された内容をとおして、構成されると考えた。その場合、つい今しが たの知覚の現前、、、、、

であるという同じものの、、、、、

内容が、恣意的に、、、、、、

ある、、

想起の代表象、、、、、、

として、作 動し得るということもあり得るのではないか、という問題がある」(ebd.)とし、代表象と いう統握の仕方に同一性の根拠を求め得るかどうか、すなわち、新鮮な想起の働きを作用 としての代表象の構成理論(統握図式)に組み込み得るかどうか、ということを再考する こととなる。

ここで、フッサールは、赤色の感覚が現出する場合を例にとって、以下のように検討し ている。「顕在的で現在的な赤がそこに絶えず保持されて、「代表象」として作動し得るのだ ろうか。人は、代表象理論で十分満足し得るだろうか。ある赤がなおも、、、

そこにあったとし て、以前の赤というように、同じ意味で実際に体験されるならば、確かに赤は単純に持続 するだけだろうし、せいぜい衰えたり、充実に即して、強度が減ったりするなどのことが あるだけであろう」(HuaX, S. 318)。ここで、フッサールは、感覚内容が衰えたり強度が 減っていったりするという変様を、「根源的で時間的な退去」と呼ぶ(vgl. HuaX, S. 318)。 これについてフッサールは、この根源的な時間的な退去を、以前から用いてきた代表象理 論で解釈することは、「まったく根拠のないことかもしれない」(HuaX, S. 319)と、これ まで適用してきた統握図式に限界を示唆している。なぜなら、「衰えつつある感覚の内容」

が代表象あるいは統握内容であるならば、すなわち衰えという変化を内容変化と取るなら ば、以前にフッサールがブレンターノを批判したさいの、「内容変化は統握の変化であり、

統握内容は変化しない」という自らの主張(本文第1章第1節3)参照)と矛盾してしま うからである。そして、やはり当初のフッサールの主張どおり、内容の変化ではなく統握 の変化であると説明することとなり、この変化も結局は統握図式に依拠することによって、

構成に関する無限性と無限遡行の不具合が生じることとなる62(本文第1章第1節1)、4)

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参照)。確かに、これらのことは、より以前の古い草稿においても、フッサール自身がすで に、そしてつねに、懸念してきたことであった。フッサールは、自身がこれまで様々な時 間意識考察の方途を辿ったことによって、自身の中で、この理論の再構築の必要性の高ま りに、改めて向き合うことになる。

以上のような統握図式に対するフッサール自身の批判は、ここでさらに、「われわれが時 間直観を「統握-統握内容」図式にしたがって解釈するか、しないか」(HuaX, S. 320)

という根本的な選択の問題に至る。その選択を迫る最大の理由は、「すべての事況の下で、

われわれは、持続の直観が現出論的な観点における持続体であるというアプリオリな必然 性を正当と認めるべき」(ebd.)という点にある。これまでフッサールは、統握図式による 構成理論の形式に、分析の方法を担わせてきた。しかし、フッサールは、すでに現出論的 な分析や原意識において内在的な与件自体の持続の分析をとおして呈示されてきたもの、

すなわち感覚の持続を、統握図式ないし代表象理論に対するアプリオリな領野として、そ の必然性を認めることによって(本文第1章第2節3)参照)、代表象ではない実的に存在 する原初的な内容が、時間的な統握によって代表象として構成されていると考えることに、

齟齬を感じるようになったのである63。つまり、フッサールは、すべての構成が統握図式 によって説明可能ではないということを、これまでの分析から認めざるを得なくなったの である。こうして、フッサールは、統握以前の契機である感覚自体に考察の眼差しを移し、

改めて、感覚の時間的な変化について分析をすることになる。

感覚の時間的な変化を記述するにあたり、フッサールは、今の感覚とたった今過ぎ去っ た感覚について、改めて以下のように述べる。「たった今過ぎ去った音は、それが現前時間

(Präsenzzeit)へ(選び出された今点におけるメロディーの顕在的で直観的な断片へ)下 降して行く限り、なおも意識され、、、、、、、

てい、、

る、

のだが、それが実際、実的に「感覚されている」

という意味においてではなく、今の-音という様態において現にあるかのようにあるのでは ない。・・・なおも生き生きとして、「なおも」時間直観の眼差しの内に存立する音というの はもはやなく、そしてその現出の属するものは、「音の-感覚」(ある顕在的な今)ではなく、

感覚の〔言わば〕「残響」であり、顕在的な意味における原初的な内容ではもはやなく(内 在的な音の-今ではなく)、何らか変様したもの、〔すなわち、〕過ぎ去った感覚の意識とい う変様なのである。そこには、しかし、実際の音が見出されるのではなく、音の-既在が見 出されるのである」(HuaX, S. 324)。この記述は、今の知覚とたった今過ぎ去った知覚の 時間的な関係の記述と同型のものであるが、しかし、たんに知覚を感覚に言い替えただけ のものではない。これについて、フッサールは、続けて、「要するに、それは根底的、、、

な変化、、、

であり、そしてわれわれが諸感覚へと再び、、、、、、、

導くといった、感覚の諸変化、、、、、、

を記述するような 仕方では、、、、

決して記述され得ない、、、、、、、、、、

変化なのである」(ebd.)と述べる。ここで指摘される感覚 の変化は、「再び導くという記述の仕方」、すなわち反省的な対象化によって記述されるよ うなものではないということである。それはつまり、「感覚は、今意識(あるいは今を含む 持続の現出)にその本質がある。持続性は、意識の諸変化の持続性であり、その意識の諸 変化は、至る所で共通する存続体の部分―例えばcの音、赤など―を含有する諸々の産出 物としてみなされてはならない」64(ebd.)とし、感覚を統握して、「感覚として...

」記述す