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前章で確認したとおり、ヴァレラが神経現象学を展開する上で、現象学と認知科学を繋 ぐのは、現象学的還元という方法を用いることであった。しかしながら、認知科学の側か ら現象学を用いる場合、あるいは現象学の側から認知科学を用いる場合、どちらの側から にせよ、両領域から呈示される見解は、互いにどのように取り扱い、どのように補い合う のだろうか。

例えばそれは、現象学的な記述や、そこから見出される本質規則性を、それらが呈示す る特徴の類似性から、素朴に認知科学的な成果へと当てはめることなのか。また逆に、認 知科学的な観測結果や、生物学的、物理学的な法則性や因果関係を、現象学的に直観され る具体的な意識体験の記述に対応させればよいのか。しかしながら、事態はそれほど単純 なことではない。現象学がその方法である現象学的還元を遂行する以上、認知科学や物理 学など、客観的に実在措定されたものは括弧に入れられるため、その考察与件をそのまま 素朴に扱うわけにはいかないのである。つまり、そもそも現象学は、自然主義的な考察自 体をエポケーすることで、純粋に意識の構成プロセスを取り出すことを目標としているの で、そこで見出される構成の理論、構成の基づけ関係からすれば、現象学的な内容を自然 科学的に見直すということは、自然主義的な記述に逆戻りしてしまうということになる。

これは背理であろう。したがって、ここでの問は、現象学がその方法論でもって、認知科 学的な研究への哲学的な基盤を寄与するばかりでなく、逆の方向、すなわち認知科学から 現象学への寄与ないし転換は、可能なのだろうか、ということになる。

この認知科学から現象学への転換ということについて、ヴァレラは、「現象学の自然化」

ということを提唱している。この現象学の自然化とはいかなることなのか。われわれは、

この問を本章における主題とし、フッサールによる自然主義的態度や事物構成についての 考えを確認した上で、自然科学ないし経験科学の成果が、現象学的にどのように扱われる のかを考察する。われわれは、両者の関係を改めて考察し、規定することで、神経現象学 的な研究プログラムを遂行する前提を整理しなければならないのである。

以上のことから、われわれは、ヴァレラの認知科学と現象学の関係について、以下の第 10節において、神経現象学の「相互制約」と言われることの内実がいかなるものであるか を整理し、規定することとする。そして、その規定に対し、第 11 節でわれわれは、ヴァ レラの言う現象学の自然化の意味を確認し、自然主義的な成果に対するフッサール現象学 の考察として提示された「領域的存在論(regionalen Ontologie)」(HuaIV, S. 91)325を 対照することで、現象学が諸科学(物理学や生物学、数学など)に対してどのような規定 を持ってそれらの事例を扱うのかを確認する。これらの考察により、われわれは、神経現 象学の学的な基盤を吟味することになり、また、ヴァレラの提唱する現象学の自然化から、

認知科学研究の成果が現象学にどのような寄与をもたらすのかを、理解することになるで

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第 10 節 認知科学と現象学の相互制約

ヴァレラの神経現象学的な研究プログラムにおいて、認知科学と現象学が制限しながら も接合するということは、いかなることなのか。この点について、ヴァレラは端的に、「問 題の外面と経験面の両方について、バランスのとれた、そして訓練された記述のみが、生 物学的な心と経験的な心のギャップを架橋することへと、より近づく一歩を踏み出し得る」

326と述べている。また、その中で神経現象学が目指すのは、「両方の記述の共同規定を強 調することによって、それらの記述の間の、架橋、異議申し立て、洞察、そして矛盾を探 索し得ること」327である。つまり、それぞれの研究におけるアプローチについて、互いに 意見を交わし合い、一方の領域から提示された成果、結論に対して、他方の側から吟味し た時に、それぞれの領域においても正当性が認められ得るかどうか、考察するということ である。

以上のような目標は、一般的な対照考察の基本として誰しもが認めるところであるが、

しかし、両領域からの記述を共同規定することについて、ヴァレラが懸念するのは、科学 的な説明と経験の記述の相互補完を目指すさいに、「どのようにして科学的な記述が心的な 経験を解明するのかということを見るのは容易だが、経験から科学へのという逆の方向は、

一般的に無視される」328ということである。これはすでに見たように、科学研究の基本的 な態度である還元主義において顕著である(本文第4章第8節1)参照)。そこでヴァレラ は、現象学から認知科学への寄与について、次の二つの点に注目せねばならないと考える。

それは、「第一に、現象学的な記述無しでは、経験の直接的な質が消えてしまうか、あるい は神秘的な難問になってしまう。第二に、構造的な記述は、経験的な観察に対して制約を 提供する」329ということである。ここでとくに重要なのは、第二の「制約」ということで ある。

例えば、コネクショニズムにおける脳神経系の認知処理について見てみよう。それは、

複数のニューロン群による並列分散処理によって生じるということであった(本文第4章

第7節1)参照)。つまり、何らかの視覚刺激によって、ニューロン群が反応するさい、異

なる領域のニューロン群が同期することによって、大域的な並列分散処理がなされ、認知 が生じるということである。この時、脳の異なる領野への同期をもたらすのが、ガンマ波 という一定の周期を持った脳波の共鳴であると考えられている330。このことから、認知は 脳神経細胞の発する振動共鳴によって生じるという帰結が立ち得る。他方でヴァレラは、

このような帰結に対し、「持続といった心的な内容の一人称的な記述への洞察を提供する能 力に基づくことも同様に、、、、

有効であると認められるべきである」331と述べる。つまり、ヴァ レラは、このガンマ帯における神経同期化といった、脳における大規模な統合メカニズム が認知を生じるという帰結によって、すなわち観測の事実からの推論によって、因果性を 導き出すだけでなく、意識経験における持続という心的な内容も、この帰結や推論の根拠

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となり得ると考え、科学的な観測に対する心的な記述の寄与も強調するのである。

では、実際のところ、そのような寄与はどのように扱われ得るのか。すでに第1部で見 てきたことであるが、意識構成には、ある程度の時間の幅が生じているということが、現 象学的な体験の記述において明らかにされている(本文第1章第1節、第2節参照)。こ のことは、コネクショニズムが見出したガンマ帯の神経同期という共鳴振動によって生じ る認知や表象構成に時間がかかるという観測的な事実と呼応しているとみなし得る(この ことは、第6章において時間意識の神経現象学の考察のさいに改めて述べることになる)。 つまり、認知が神経同期という物理的な時間を要する脳神経系の処理と、意識の本質規則 性によって呈示される持続的な構成とが、ここで相応していると見ることができるのであ る。このような例から、両領域からの記述が、互いの記述を根拠付し合うものとして見出 されるのである。また、この他に、現象学が神経科学の問題に決定的な寄与をもたらした 例として、山口が過去把持によってベンジャミン・リベットの主観的時間遡及の問題を批 判したという事例も挙げられる332。他にも、「身体イメージ」、「情動」などの問題で、現 象学的な経験に基づく一人称的な記述が、認知科学的な研究を主導したり、根拠づけたり する可能性は大いにあり得る333

これらのことからすると、確かに、現象学的還元によってもたらされる一人称的で明証 的な記述によって、脳神経科学研究とその成果が、意識的にしろ、無意識的にしろ、先導 される可能性があるということを、われわれは指摘し得るだろう。つまり、この神経現象 学というヴァレラの提案は、「訓練された一人称的な記述が、神経生物学的な提案の正当性 という不可欠な要素であるべきで、そしてそれは、もはや、偶然一致するように発見され る情報ではない」334のであり、科学的な研究を遂行する者(とくに還元主義者や機能主義 者など)は、その地位の重要性を認識すべきである、という主張なのである。そもそも、

イナクティブな観点から見れば、「行為によって生じる認知は恣意的ではない」335のであ り、一人称的な記述は、十分に科学的な研究の根拠になり得るものである。したがって、

このように互いの研究へ貢献し、時に他方のアプローチや研究成果に疑問を投げかけるこ とが、神経現象学的な研究を展開する上で、重要な、方法的な態度であると理解されるの である。

しかしながら、他方でヴァレラは、神経現象学を、「一つの方法という実用と習得の問で あって、アプリオリな、、、、、、

論証ないし理論的な完全性の問ではない」336と考えており、すなわ ち神経現象学的な研究プログラムとは、そもそも両研究領域に対する作業仮説に過ぎない ことを注意する。「経験的なメカニズムへの何かまったく新たな洞察を神経現象学的なアプ ローチから期待するという目的は、的外れになるであろう・・・確かに、現象学的還元という アプローチは、心的な生の構造に関する興味深いアイディア(時間性や充実化の事例を参 照)を提供するが、現象学的還元というアプローチの主要な効力は、われわれの経験を認 識可能にするという方法において為されるのである」337。つまり、現象学を認知科学に導 入しただけで、何か問題が解決するわけではないということである。しかしながら、神経 現象学が作業仮説に過ぎないのだとしても、それでも、ヴァレラは、科学的な説明と意識 経験の記述の間を、現象学によって架橋できる可能性を秘めていると考えるのである。