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第4章  租税制裁の理論的整合性と今後の課題

第1節  無申告行為の理論構成

第1項 真正不作為犯としての無申告逋脱罪と諸学説の帰結

 無申告逋脱犯に逋脱罪の罰則規定を適用させることは、今日に至るまで 多くの研究者たちにとって実に難解な課題であったといえる。これが従来 の虚偽過少申告や虚偽還付申告である場合には、当然のことながら前提と

して申告という法手続上の行為(作為)が伴うこととなり、それが「偽り その他不正の行為」となることに実務上も学説理論上も特別の異論はなか ったものと考えられ、判例も虚偽過少申告に関しては、所得秘匿工作を伴 わない場合でも、申告それ自体が「偽りその他不正の行為」にあたるとし ていた269

 しかしながら今日までの無申告逋脱罪成立の形成過程には根本的な通説 や考え方においては部分的には躍進した批評もあったものの、幾分刑法学 的な思考プロセスや実務的な手続も補足した全体的なバランスの視野と一 貫した継続的な研究が足りなかったように思われる。

 冒頭の部分で定義したように、租税逋脱罪の本質とは「納付税額が発生 し、且つ法定申告期限内に申告納付すべきことを認識しながら、正当な理 由が無いにもかかわらず法定申告期限までに意図的に申告義務を怠り、あ るいは正しい税額に比べて少なく(過少に)申告することによって、その 結果、租税債権を害し税を免れること」であったが、これまでに検討・分 析してきた事柄を考慮すると、現行の条文規定に「偽りその他不正の行 為」という表現は必ずしも必要ではないことがわかる。本定義は、一見、

「偽りその他不正の行為」をその要件から外したため、逋脱罪の範囲を広 げているようにも見受けられるが、実際は無申告という手段による逋脱も 取り入れたにすぎない。前述したように、中国刑法の逋脱罪における小改 正後の規定にも、「虚偽の申告」や「申告をせず」との表現をそのまま残 し、当初から過少申告や無申告を実行行為として想定している姿勢を維持 しているため、日本のような実行行為に関する学説の混乱した議論からは むしろ無縁であろうと思われる。特に小改正前の逋脱罪の規定には抽象的 な表現は存在しておらず、具体的な事例を列挙していたため、かえってそ の評価問題も最小限に止められ、解釈上の混乱は生じていなかったかもし れないが、改正後はむしろ日本の逋脱罪や重加算税の規定に近い「欺罔」

や「隠蔽」また「虚偽」というやや抽象的な表現を取り込んでしまったた

め、中国からすると日本の一見シンプルな条文を参考に取り入れてきたつ もりなのかもしれないが、今後は日本の抽象表現の評価問題という新たな 問題に直面するようにも思われる。

 これまで考えてきたように、無申告逋脱犯は命令規定違反としての真正 不作為犯として扱うことにより、自然に理論構成できるのである。これま での理論構成が困難であった基因は、無申告逋脱犯を不真正不作為犯とし て捉えてしまったことにより、所得秘匿工作を無理に先行行為による作為 義務に理論構成しようとする誤りを生じさせてしまったのである。

 仮に無申告逋脱犯が不真正不作為犯だとすると、素朴な疑問も生じてく る。同じ一つの行為に対して単純無申告罪は真正不作為犯であるのに対 し、無申告逋脱罪は不真正不作為犯となってしまうことは、同じ所得税法 第120条の申告義務に対して、一方はそれを命令規定として据え、もう一 方は不作為犯の作為義務として据えているのに、結果は真正と不真正に別 れるからである。両者を同じ申告義務に対してそれを命令規定として捉え るならば、両者は共に真正不作為犯ではないだろうか。すなわち、過少申 告と無申告を一つの逋脱罪のグループとして単純無申告罪との関係を分析 するのではなく、同じ無申告行為を逋脱犯と無申告罪との一つの真正不作 為犯として構成することである。

 むしろ故意の立証の問題に力を注ぐことにより、正確な逋脱税額の算定 を把握することが必要であると考える。昭和42年大法廷判決は、不正の行 為が「積極的に」又は「消極的に」行われたか否かの抽象的な表現を使用 したために、かえってその解釈をめぐり混迷を招いたように思われる。そ の点、アメリカの制裁法で学んだ立証責任とその程度に関しては参考にな ると思われる。

 従来の包括説の考え方としては、所得秘匿工作が申告行為自体とあいま って、包括して逋脱結果を生じさせるというものがその大要である。しか しながら前述しているように、このように考えてしまうと所得秘匿工作が

正当に存在せずに経過的に申告行為に至る逋脱行為の場合、包括する行為 自体が存在しない事例があるということに大きな欠陥がある。結果として それが所得秘匿工作を刑法上の実行行為とみなしたりするというような誤 りが生じたのである。筆者はこの所得秘匿工作というものを、申告に至る までの法手続的な角度から客観的に捉える必要があると考える。

 前述のとおり、事前の所得秘匿工作というものは申告行為に至るまでの 準備的段階行為であり、その行為体様自体は様々であるといえるが、重要 なこととしてこの行為(工作)は必ずしも法的行為ではないということで ある。確かに所得秘匿工作は、所得を課税物件(課税客体)としたなら ば、最終的に提出される申告額(法人税であるならば加算減算前の税引前 の利益額)に合致するように一貫して作成されるものであり、申告後であ るならばその金額の変更は法的な更正が要求されるとしても、申告前であ るならばそれは単なる私文書と同じ私的な書類なのである。この時点では 変更も削除も可能である場合が少なくない。逆にいうならば申告書それ自 体は、提出して初めて公文書になるのであり、まして事前の所得秘匿工作 の書類は基本的には添付書類になりえたとしても正式な税務書類になるわ けではなく、申告書提出後もそれ自体は公文書とはならないのである。そ ういった意味では所得秘匿工作はその時点では違法行為とはいえず、それ 自体は会計帳簿上270にいう試算表という決算書に至るまでの作成段階であ り、まして実行行為とは断定できないのである。

 また、この「所得秘匿工作」を逆の観点からみると答えは明白なものと なる。これまで、逋脱犯を逋脱行為の視点から検討してきたのであるが、

逆に所得秘匿工作(不正経理を含む、帳簿・伝票の虚偽記載)を行ったと しても、納税義務者が最終的な申告書には正しい税額を記載していたとし たら、果たして実行行為となりえるだろうか。申告書に正しい税額を記載 しているので、必然的に納税額も同額となるため、税を免れるという結果 が発生せず、実行行為自体の概念がそもそも存在しない。「しかも、不正

経理行為をすれば、虚偽過少の確定申告は容易にできるとはいえ、不正経 理行為がなければ虚偽過少の確定申告ができないというものではなく、不 正経理行為は脱税のための必然的な条件ではない」271のである。そして、

会計帳簿や記帳の技術は何も法定化されていて形式が定められているわけ ではなく、企業会計原則たるものは存在するもののあくまで法的拘束力は なく、法人・個人を問わず記帳手段というものは様々でむしろ多様性の招 来であって、仮に虚偽記載を行っていたとしてもそれが逋脱目的とは必ず しも断定できるものではない。取引契約先や所属団体等に対する虚偽提出 目的である場合も考えられ、仮にその当該法律に違反したとしても、直接 的には租税罰則には実質的にみても該当しないのではないだろうか。

 加えて、逋脱の範囲に関し、従来から個別的認識説と概括的認識説があ った。この問題も「所得秘匿工作」の位置づけが関係してくる。再三再四 述べているが、所得秘匿工作は故意の立証の根拠とはなりえる。それで逋 脱額に関しても所得秘匿工作が行われていることが事実認定できるのであ れば、当然その部分に関しては逋脱の故意があるのであり、逆にいうなれ ば「故意犯である以上犯意の無いことが立証上明白な部分を除外」272しな ければならない。近代における責任主義を主張する論者も「個別的認識説 を立証の問題として捉えれば、制限的概括的認識説と結果において差異は ない」と結論しているが、これも尤もなことであろう。

 結局のところ制限説も包括説も所得秘匿工作の法的立場に翻弄され、そ の他の学説の混乱もその部分が基因となっているように思われる。昭和42 年大法廷の示した「何らかの偽計その他の工作」という表現の影響力が、

必要以上に「所得秘匿工作」というまるで条文であるかのような位置にま で引き上げてしまい、それが時代の流れと調和しながら大法廷判決でなさ れたため、申告納税制度の下における無申告(不作為)で逋脱するという 特殊な状況が、制限説や包括説と相俟って複雑な混迷を招いたものと思わ れる。そして「偽りその他不正の行為」という表現そのものが抽象的であ