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第8章  埼玉県における「文検体操科」合格者の事例分析

第2節  浅海公平にとっての「文検体操科」

 浅海公平は埼玉師範専攻科修了後、その年の「文検体操科」に合格した。使用する資料 は本人の記した履歴書、及び浅海が晩年、パーキンソン病に倒れ不自由な身体でキーを打 ってまとめ、親しい人に配った自叙伝『聴て灯りが見えてくる』(以下、「自叙伝1」とい

う)、『撫て灯りが見えてくる II』(以下、「自叙伝II」という)である。そこから、浅海 にとっての「文検体操科」とは何だったのか検討しながら、「文検体操科」合格者の姿を浮 き彫りにし、また、異動の実態について明らかにしたい。

表8−2 浅海公平の略歴

年  \ 月 日 記   事 年令

1913(大正2) 1/3 入間郡吾野村(現 飯能市吾野)において、小学校教 ェ浅海代亮の第一子、5人兄弟の長男として生まれる。

0

1919(大正8) 4 入間郡吾野村立北川小学校尋常科入学 6 1925(大正14)

34

同上 卒業

?ヤ郡吾野村立吾野小学校高等科入学

12

1927(昭和2)

34

同上 卒業

?ヤ郡飯能町立第一飯能小学校高等科入学

14

1928(昭和3)

34

同上 卒業

驪ハ師範本科一部入学

15

1933(昭和8)

34/149/1

同上 卒業

?ヤ郡第一飯能小学校訓導に補す Z期現役兵 海軍横須賀管区

ッ上 退団、 入間郡飯能第一小着任

20

1934(昭和9) 3/31

S

同上 休職

驪ハ師範専攻科入学 21

1935(昭和10)

33/3157

同上 修了

恊E 入間郡第一飯能小学校訓導 カ検体操科予試合格

@    本試合格

22

1936(昭和11) 10 児玉郡児玉小学校訓導(12円)

yび県立児玉高女嘱託(70円)

23

1937(昭和12) 6/30 P0/31

浦和市立第一小学校専訓及び県立浦和商業学校嘱託 閧ノより嘱託を解く

皷ネ正教員を免じ本科正教員勤務を命ず

24

1939(昭和14) 3/31 浦和市立第一小学校訓導及び第一青年学校兼務 セ治神宮大会

26

1940(昭和15) 3/31

S/17

浦和市立第一小学校訓導及び浦和市立高女嘱託 ッ野喜美代(22歳)と結婚

セ治神宮大会

27

1941(昭和16)

33/314

長女誕生

閧ノより嘱託を解く

驪ハ県立川口工業学校教諭 Oライダー訓練

セ治神宮大会

28

1942(昭和17)

1943(昭和18) 1/17 長男誕生 30

1944(昭和19) 12/20 召集令状 横須賀海兵団 31 1945(昭和20) 11/243/933/17/318!159/29/30 土浦海軍航空隊へ転勤

增@浅海邦平 ニューギニア・ソロンにて戦死

̀弟 星野忠三 ボーゲンビルにて病死(戦死の広報

@は昭和2L1)

゙良海軍航空隊へ転勤 結梠蜍 襲

男誕生

I戦

Y和に帰る

驪ハ県立川越高等女学校教諭

32

1946(昭和21) 4/3 浦和市立中学校勤務を命ずる 33

1947(昭和22) 34

1948(昭和23) 35

1949(昭和24) 3/31 浦和市教育委員会事務局体育主事 36 1950(昭和25) 3/31 浦和市立高等学校(新設)教諭 37 1952(昭和27) 3/31

U/3

兼指導主事

Y和市立北浦和小学校長事務取扱

39

1953(昭和28) 4/1 北足立郡土合村教育委員会指導主事 40 1954(昭和29) 4/1 浦和市立商業高等学校教諭

結梛ウ育大に県外派遣

41

1956(昭和31) 3/31

X/16

浦和市立高等学校教諭 Y和市立木崎中学校教頭

43

1957(昭和32) 11/1 教材等調査委員会(中学校、高等学校保健体育小委員

?j委員を嘱託

44

1958(昭和33) 12/1 教材等調査委員会(中学校、高等学校保健体育小委員

?j委員を嘱託

45

1962(昭和37) 4/1 浦和市立針ヶ谷小学校長 49

1963(昭和38) 4/1 埼玉県教育委員会体育課課長補佐 50 1964(昭和39) 4!1

X/15 P1/1

国民体育大会埼玉県準備事務局総務課第一係長 塔Iリンピック東京大会埼玉県事務局企画部副部長 蜍{蹴球場事務所副所長

走ッ体育大会埼玉県準備事務局連絡調整課長

51

1965(昭和40) 4/1 国民体育大会埼玉県事務局連絡調整課長 52

1968(昭和43) 4/1 戸田市立戸田第一小学校長 55

1971(昭和46) 4!1 埼玉県立越谷北高等学校長 58

1973(昭和49) 3/31 退職 61

1996(平成8) 1/2 死去 83

『自叙伝』及び『履歴書』から作成

(1)文検受験まで

 浅海公平は1913(大正2)年正月、当時はまだ秩父郡に属していた吾野村(現飯能市吾 野)に小学校教師浅海代亮の長男として生まれた。下に妹、弟4人いる長男だった。実家 は曽祖父が寺子屋で、祖父は明治の最初の校長、父は日露戦争の頃に師範を出て、長い間 校長をしていた三代続いての教師の家系であった。

 埼玉師範卒業を前に、専攻科を受験している。その時のことを「自叙伝1」に次のよう に書いている。

 師範を卒業して、海軍へ入団する直前、郷里で一通の手紙を受けとった。

 押田先生からである。昭和八年三月二十七日。

 「お手紙拝見、君の心情が一日も早く、今日のくるのを待っていた、という書出しで師 範生活の一年から三年まで、純情のスポーツマンで、四、五年は余りにも見苦しい行動で 覆われていたように思われた。

 運動会終了後の夜の外出  「大海渡、浅海、猪野、黒沢、黒沢(ママ)」

 卒業前の寄宿舎騒動 寮長  「黒沢、浅海、安藤、小林、猪野」

 君の魂の覚醒を促そうとしたが駄目だった。

 専攻科に入学を進めて、おおいに鍛えてやろうと思って進めたが、教官の三十一対一で 反対された。人生五十年だ。一年ぐらい足踏みしてもなんでもありはしない。それ以上の ことを俺が与えてあげる。先のことはおれにまかせろ。

 体育で伸びるなら、かならず路を開いてあげる。安心して海軍生活をしてくれ。」

 激励のことばだった。私の一年入学の時から見守って、卒業したらこの方面に伸ばして やろうという激励のことばだった。9

 専攻科進学の希望は、この時は叶わなかったが1年後には実現することになる。試験の 内容について詳細は不明であるが、判定が31対1で不合格という真偽は定かではない。

少なくとも、この頃から専攻科進学、その後の設計もできていたのではないだろうか。結 婚話のいきさつの中でも次のようなやり取りがある。

 海軍から帰ったときで、「結婚しない。」と話し掛けられた。「あるお店の娘さんで、き れいなひとよ。」突然なので驚いた。私の目標は、専攻科一文検一高師を狙っていたので、

当分おあづけと断った。10

 以上のように「専攻科一文検一高師を狙っていた」と述べていることから、浅海は師範 学校卒業時、あるいは短期現役兵から戻った頃は、東京高師に進みたいという希望を持っ ていた。東京高師の研究科に進むために必要な受験資格が「文検体操科」合格であり、そ のために埼玉師範の専攻科に入って「文検体操科」の受験勉強をしようという考えであっ た。そして、再び専攻科受験に踏み出す。

 私は海軍からかえると、時をえて再度専攻科入学を決意した。

父と校長より許可をえて、押田先生に相談した。昨年失敗しているので推薦入学にしても らった。我儘この上ない。昨年の入試で落ちたものが面接だけでいい。その面接がやって きた。校長室に呼び出された。有元(久五郎、筆者註)校長が中央に、右に金田(福次、

筆者註)先生、左に押田先生がおられた。昨年の失敗の原因が舎監の立場で何がでるかわ

からない。

 部屋の緊張を破ったのは、カン高い金田先生の声だった。それも投げ付けるように「君、

人生観はかわったかね」

 咄嵯に私は「変わりました」と答えた。

 それ一つで終りである。真実変わりました。

 横須賀管区の師範卒業生が水兵として訓練に入り、五月、大演習のため横須賀をでる。

山口の油谷湾一佐世保一上海一馬安群島一台湾・台北一馬公一其隆一南洋群島一大演習

「一月」一観艦式木更津沖一海兵団、九月一日退団、厳しい海軍生活、続いて飯能第一小 学校に着任、三年生の担任となり緊張が続いた。

 「人生観は変わったか」「変わりました」禅問答で試験はおわった。Il

試験はパスした。引き続き、入学した後について文は続く。

 専攻科に入って、体育二時間、週二回学ぶ。仲間は柳沢、矢島、高橋、浅海(本人、筆 者註)の四人だった。目標を文検において励んだ。昭和九年のことである。

 私の人生の方向が徐々に定まっていった。12

専攻科在学中は文検受験をしていない。初めての受験は専攻科修了時の春であった。

(2)「文検体操科」合格後

 専攻科の1年を「文検体操科」受験準備に当て、次の年予試、本試とも1回の受験で合 格した。押田の指導で、この頃には「文検体操科」合格の者は、次年度受験者の面倒を見 るというシステムができていたようである。「押田先生の組織的な勉強法が成功して、合格 を数多く出す県として認められている。その結果、県内の中等学校の体育指導者は押田先 生の弟子といっていい。」13 と浅海が述べ、他の埼玉県の合格者の体験談でもよく言わ れている事である。(前節、押田勤の項を参照)

 合格後の東京高師研究科進学は実現しなかった。浅海の合格後にっいて見てみよう。合 格の知らせを受け取った時のことが、自叙伝の中で同じ内容の文章で場所を変えて何回か 出てくる。つまり、これが浅海にとって、「文検体操科」合格と同時に自覚させられた使命 感なのであろう。

 文検をめざして十年かかる人もいるというのに、私は早かった。高師をでるより二年早 い。これから先、これでいいと満足するまで、体育学会の講習を受けて実力をつけよう。

14

 昭和10年8月、文検合格の祝電を押田から受取り、喜びを感じるとともに、何度受験 しても合格しない人もいるのに申し訳ないと考え、次の研修計画を立てる。これから先、

これでいいと満足するまで、体育学会の講習を受けて実力をつけよう。年2回ある学会の 体育講習に出席する計画を立てる。

 講師は「文検」の委員と同じで、代表的な著作もある。それが勉強の中心にもなる。続 けていると、講師とも顔見知りとなり、すべて好都合になる。県の体育講習会にはほとん ど呼び出され、実技の示範を命ぜられた。そのため県下の先生の中に名が通り、仕事もや