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第8章  埼玉県における「文検体操科」合格者の事例分析

第1節  押田勤にとっての「文検体操科」

 表8・1は押田勤の略歴をまとめたものである。押田は「文検体操科」合格後、東京高師 研究科に進み、修了後、埼玉師範の体操科担当教員となった。受験記をもとに押田にとっ て「文検体操科」はどんな意味を持っていたのか検討する。資料は『文検世界』13巻5 号1927(昭和2)年5月号に掲載の「文検髄操科受験記」(以下、第一の受験記という)

及び、『学徒体育2』昭和17年3月号、5.月号に掲載の「捨身」と題された受験記(以下、

第二の受験記という)である。

表8−1 押田勤の略歴

年  \ 月 日 記   事 年令

1905(明治38) 1/28 北足立郡新郷村(現川口市)の農業、押田英太郎の三男と オて生まれる。

0

1919(大正8) 4 埼玉師範本科第一部に入学、陸上競技部に入部。 14 1923(大正12) 11 全国中等学校陸上競技選手権で走り高跳びに優勝、走り幅

オび、三段跳びに準優勝。

18

1924(大正13) 3 埼玉師範を卒業、鳩ヶ谷尋常小の訓導となる。 19

10 県陸上選手権で走り高跳び、走り幅跳び、三段跳びの三種 レに優勝

1925(大正14) 5/18・20 V/11・17

P0

文検予備試験 合格 カ検本試験 不合格

S国陸上競技選手権大会走り高跳び第6位(1m70)

ァ陸上選手権で走り高跳び、走り幅跳び、三段跳びの連続 O種目優勝

20

1926(大正15) 7/17・21 文検本試験 合格 21

1927(昭和2) 4 東京高師研究科入学 驪ハ師範嘱託

22

1929(昭和4) 39/14.15 東京高師研究科修了、埼玉師範着任

S国中等学校陸上選手権大会(神宮)埼玉師範総合優勝

24

1932(昭和7) 6/10 小学校教員 関根静(しず)と結婚 27 1937(昭和12) 11 第1回県下器械体操選手権大会開催に尽力 32 1939(昭和14) 10

P1/1

関東集団徒手体操競技大会(明治神宮外苑陸上競技場)

驪ハ師範生徒約200名 指揮押田勤・・文部大臣賞 驪ハ師範OB体操チーム「フェニックス」監督として 謔P0回明治神宮大会集団体操(大日本青年体操)第2位

34

1940(昭和15) 9/29 P1/1

第2回関東集団徒手体操競技大会 埼玉師範連続優勝 uフェニックス」監督として第11回明治神宮大会集団徒手 i大日本青年体操)第3位

35

1941(昭和16) 410/30 新設の川口市立川口中学へ転任

uフェニックス」監督として第12回明治神宮大会団体徒手 i大日本青年体操)第3位

36

1942(昭和17) 12/8

P1/

東京日日新聞主催第3回男女中等校自校体操競技大会

?羽?ト督として優勝

uフェニックス」監督として第13回明治神宮大会団体徒手 i大日本青年体操、自由創作による体操)第3位

37

1947(昭和22)

34511

埼玉県中等学校体育連盟設立準備委員に任命され、規約起 粋マ員を務める。

U.3.3制が始まり新制の川口市立青木中学に転任 驪ハ県体操協会設立 会長梅根悟、理事長押田勤

uフェニックス」監督として第2回国民体育大会(金沢)

@徒手体操第3位

42

1948(昭和23) 11 「フェニックス」監督として第3回国民体育大会(戸畑) 43

徒手体操優勝 1949(昭和24)

311

青木中学校長に就任

uフェニックス」監督として第4回国民体育大会(横浜)

@徒手体操第5位

44

1952(昭和27) 11 「フェニックス」監督に復帰し第7回国民体育大会(山形)

c体徒手第3位

47

1955(昭和30) 4 元郷中学校長に転任 驪ハ県中体連会長に就任

50

1963(昭和38) 31018

病気入院 58

押田記念体育賞資料及び『埼玉県体育史』から作成

(1)第一の受験記

 「文検体操科」合格後ほどなく書かれた受験記を『文検世界』に掲載している。少し長 くなるが引用してみよう。

 1.文検に志した決意

 貴い紙面を私のために御与え下さる厚意に対して私の全精力を嘉して有りの儘を述べ させていただきます。私は体育道には本当にほれていると言ってよい位自己の全力を投げ 込んで没頭し得られる。最も気に入っている仕事です。だから体育道のために一身をささ げ何にか仕事を為し得たいと考えた。そのためには是非とも或る程度の学識の必要を感じ たので文検に志した。

一匹の男が頭を入れた以上、最後まで貫徹せずば止まぬ堅い決意を抱いて、苦しみを建 設創造の世界へと現実の大地に突っ立って臥薪嘗胆の歌を歌いっつ、一切創造の大精神を 抱いて彼岸に輝く光明の世界を目標として勇敢なる銀のカブトの勇者とならんと欲して、

血みどろ汚(ママ)みどうの奮闘努力を続けた。

(中略)

 5.本試にのぞむ迄

 本試は実地が大切であるから、総ての講習会や研究会に出席した。それだけでは充分で なかったので友達と毎土曜日には母校まで練習に出かけた。

 土曜 午後二時より五時迄 その晩は寄宿舎に宿った。

 日曜 午前九時より午後四時迄

 雨の日は体操場で、如何なる日でも実行した。花も酒もビールも頭中には無かった。た だ鉄棒とバックと跳箱と円盤と砲丸槍が一番仲のよい友達だった。その姿を見るのがこの 上ないよろこびだった。跳び箱と心中するなら本望だと考えていた。倒立転回で落ちて瞥 部をいやという程打っても平気でとびおきてすぐまた初めた(ママ)。六十回位続けざま

にやって出来た時は鬼の首でも取ったよりうれしかった。万物がよろこびに満たされた。

鉄棒にぶらさがって度々手の皮をむいた。赤い血がサットほとばしってちくりちくりいた むが、それでも尚続け様としたこともあった。赤い血を見なければ止めないという練習だ った。赤い血をみればよろこんだ。これが努力のしるしとなって表現されたのだと考えた。

汗に、しっ通りむれた身体を湯場に運んできれいに洗い流す愉快さはまたとない味だった。

来る土曜日は本当に私に与えられた尊いうれしい日だった。或る時は受け持った公童全部 を前に並べてお前は脚お前は腕お前は頭お前は上体を見てもらった(ママ)。そうして批 評をさせて練習を励んだ。人が十日で行るのを三十四位(ママ)続けざまにやってどうし ても出来る迄がん張った。この様に愉快に元気で奮闘努力を続けた。本試が迫って来た時 には或る程度の自信を抱いていた。

 6.本試にのぞんだ精神

 試験は真剣だった。自己の力を発揮して振い落されるなら詮方ない。ただ自己の真の力 が発揮されるか否か不安だった。試合とか、試験とかになると、或る不思議な力が働いて 頗る悪く出来る時と上手に出来る時がある。しかし自分は自己の力を信じた、自己の実力 で押し進んだ決して実力以上のことは欲しなかった。精一ぱいの奮闘を続けて満足した。

労苦と努力とを続けて来た自己を神は守ってくれた実力以上の力が不思議に試験に表現

された。

(以下略)1

 「文検に志した決意」では、決意を熱く語る。 「体育道」という語句は、後の1939(昭 和14)年ころから国防戦技が重んじられ、武道振興が盛んになり西洋のスポーツ観に対抗 する言葉として「日本の体育道」2 というような使い方が一時見られた。押田は体育の 世界に一生を賭けようと思い始めた表現であろう。

 「本試にのぞむ迄」では、すべての講習会、研究会に意欲的に参加し、しかも毎週末、

師範学校の寄宿舎に泊まり、計画通りのスケジュールをこなしたという。その結果、受験 直前には自信にあふれているように見える。

 「本試にのぞんだ精神」では、不安を口にし、実力以上の力は期待しなかったといいな がらも、神が実力以上の力をくれたといって感謝している。

 押田の体験談は一般的に見られる苦労話や、やりくりの実践記録とは少し趣を異にして いる。この体験談は1927(昭和2)年5月号に掲載された。その時にはすでに、押田は東 京高師の研究科に進学していた。

(2)第二の受験記

 押田は1925(大正14)年「文検体操科」予備試験には合格したけれども本試験には不 合格、そして翌1926(大正15)年本試験に合格しているのである(表8・1参照)。押田は それから15年後、『学徒体育』にもう一っの受験体験記3 を発表している。そこには『文

検世界』の体験記にはない本試験合格までの約2年間について述べている。この受験体験 記に基づいて、押田の受験の動機、予備試験への準備、本試験への準備、本試験の失敗か

ら1年後への試験に向けてどんなことをやっていたのか等を見ることができる。さらに10 数年後に振り返った「文検体操科」を押田はどう位置付けているのか検討してみよう。

 この資料が掲載されている『学徒体育』は大正時代後期に東京高師内に設置された体育 学会の機関紙『体育と競技』の後継雑誌である。1922(大正11)年3A創刊の『体育と 競技』は1941(昭和16)年1月に幾種類かの体操に関する雑誌と統合し『学校体錬』と なり、その翌年1942(昭和17)年に『学徒体育』へと名称変更したものである。

①受験の動機

 1924(大正13)年3月埼玉師範を卒業した押田は4月から鳩ヶ谷尋常小学校に赴任し た。新卒者としては珍しく6年生の担任となった。とはいっても学力別に学級編成された 一番下のクラスの担当であった。着任して3度目の職員会議で「押田君は在校当時競技を やっていたのだから体操は得意だろう。一つ体操の研究授業を5月27日にやってもらお

う。」という突然の校長の命令。これをきっかけに、その晩から「体操」に関する書物を読 み始めた。1ヶ月くらいの勉強でしっかりした仕事はできるとは考えなかったが全力を尽

くした。研究授業の結果はあまり芳しいものではなかった。押田にとって、この機会こそ 自分に反省材料を与えてくれると同時に「やるべき仕事に自信を持てない程さびしい生活 はない」ということを強く感じさせられた貴重な試練の時であったという。研究授業を通

して考えていた体操の仕事も問題も一層深く掘り下げられ、その結果体操の仕事に興味と 生きがいとを見出していた。

 受験の直接のきっかけを作ってくれたのは、翌1925(大正14)年正月、恩師(新井誠 治か?筆者註)からの手紙による呼び出しであった。「君の持っている能力を存分発揮して

ご奉公するのも一つの道だ。文検でもやってみたらどうだ。」との話があり、有無も言わせ ずその場で願書を書かされ、すぐ県庁に提出するよう命ぜられた。このようにしていやで も受験せねばならない境地に立ってしまったと押田は云う。受け身の表現をしているけれ ども押田にとっては、時期は早まったものの「体操」を生涯の仕事と思い始めていたこと から、いずれ進む道と考えていた。予想以上に早まっただけであり、このような経過をた

どり卒業後1年もたたないうちに「文検体操科」受験に取り組むことになった。押田は「体 操」の授業の実践経験を通して受験を志すようになったといえよう。

② 予備試験の準備

 県庁に出願した帰途さっそく神田の古本屋に廻って必要な本を買い求めている。まず取 り組んだのは運動生理衛生学の勉強だった。毎日50ページ読破を目標に、朝4時起床、

洗面後直ちに読書を続ける。この時間こそ自分に与えられた貴重な時間であり、登校途中 は読んだ事項の反復練習の時間であった。日曜日こそはまとまった時間の取れる最大の日