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第8章  埼玉県における「文検体操科」合格者の事例分析

第1節  全体的考察

(1)「文検体操科」の果たした役割

 「文検体操科」という制度は大正、昭和戦前期における中等学校体操科教員の養成機能 を十分果たしていたのか。量と質の面から考察してみる。

 全国における体操科教員の供給数である免許取得者数は、1940(昭和15)年度までの 体操科男子だけの合計で見てみると、検定に依らない者、すなわち卒業と同時に取得でき た東京高師及び臨時教員養成所の官立の養成学校卒業生が合わせて3,024名(25.3%)、指 定学校及び許可学校卒業者、学歴経験による者を合わせた無試験検定合格者は7,650名

(64.1%)、試験検定すなわち「文検体操科」合格者が1,258名(10.5%)であった。っま り、供給源となった三者の供給の割合は、最も多い無試験検定合格者が6割を超え、次に 官立の養i成学校卒業生がほぼ4分の1、「文検体操科」合格者がほぼ10分の1を占める状 況となっていた。

 それでは、任用されて有資格教員となっている割合はどうであろうか。1937(昭和12)

年の文部省体育研究所の調査結果から男子有資格者だけの割合では、検定を要しない者が 18.0%、無試験検定合格者が68.7%、「文検体操科」合格者が13.3%である。供給源の割 合と比較すると検定を要しない者の割合が減り、その分無試験検定合格者と「文検体操科」

合格者が多少増えていた。しかしながら、埼玉県においては少し異なる結果を得た。実際 に任用されている中等学校の体操科担当教員の有資格者数は、1926(大正15)年度では

有資格者25名中、官立の養成学校出身者が6名(24.0%)、無試験検定合格者が7名(2S.O°/.)、

「文検体操科」合格者が12名(48.0%)であった。また、1937(昭和12)年度では有資格 者延べ65名中、官立の養i成校出身者は17名(26.2%)、無試験検定合格者は28名(43.1%)、

「文検体操科」合格者が20名(30.8%)であった。埼玉県は「文検体操科」合格者の多 い県であるため、無試験検定合格者の割合が低く、「文検体操科」合格者の採用される割合 が高い結果になったものと思われる。

 埼玉県のように採用に高率な県もあったが、「文検体操科」制度によって中等学校体操 科免許を取得した者は供給源の中では10分の1の人数を占め、任用された者は全国平均 では10分の1以上という割合を保っていた。このようなことから、「文検体操科」制度は 単に検定を実施して合格者に資格を付与しただけに留まらず、確実に任用まで期待される 供給源として同じ割合で採用され、中等学校教員養成のシステムとして十分に機能してい

たという事ができよう。

 全体的な供給数の増加は中等学校の有資格教員の数に現れてくる。第7章で見た通り埼 玉県の場合には1926(大正15)年度には有資格教員は25名であったものが、1937(昭

和12)年度には65名まで増加し2.6倍となった。中等学校の増加の割合は、33校から 50校に1.5倍の伸びであったので、有資格教員は1校当たり0.8人から1.3人に増えたこ

とになる。

 一方、無資格教員に目を転じてみると次のようなことが云える。1926(大正15)年度 では体操科担当教員61名の中で、27名が無資格者である。無資格者27名の職名は助教 諭が1名、教諭心得が8名、嘱託が10名、武道教師が3名、書記は1名、書記兼嘱託が 2名、書記兼武道教師が1名、書記心得が1名である。担当科目は延べ人数で体操20名、

教練が5名、武道が剣道、柔道も併せて6名、習字が1名、他に書記の者は会計、書記が 付随している。同年の体操科担当教員は有資格者と同数程度の無資格者教員がいて、武道

よりも体操の担当者不足をその者たちが補っていたと云える。

 1937(昭和12)年度では、実業学校を除く中等学校の体操科担当教員92名中、有資格 者56名以外の者36名から、他教科の免許状所持者である可能性が高い「教諭」である者 を除くと、23名を数える。その中で体操、教練、ダンス等を除き、武道を専ら担当してい る教員は、嘱託、武道教師合わせて17名であった。すなわち、他教科の免許も持たない 無資格教員23名中17名(73.9%)が武道担当者であり、その勤務校は、師範学校、中学 校という男子校に限られていた。

 武道の必修化は1931(昭和6)年から始まった。大正期にはいわば選択必修であったた めか、武道専任の教員自体が少なく、無資格教員は体操担当の者が多かった。1937(昭和 12)年になると、大量の無資格教員の任用実態が、剣道、柔道の授業のあった男子校に顕 著に表れた。体操科の無資格教員の実態は、武道担当教員の供給数が少なかったことと、

武道担当の無資格教員を職員定数の集計上カウントしなくともよいという措置がとられて きたことから起きた結果とも見られる。

 供給数の増加とともに武道担当者以外の体操科担当教員では、有資格教員の着実な増加 が見られ、こうした教育環境の改善に「文検体操科」制度は無試験検定制度とともに貢献

していたと云えよう。

 次に質の面から見てみる。「文検体操科」の検定の内容、程度については以下のようで あった。まず、1896(明治29)年の免許規則の改正で、検定の程度については、尋常師 範学校、尋常中学校教員に関しては高等師範学校の学科程度に準じて行われることとなっ た。検定委員は東京高師や東京女高師の教員が任命された。予備試験の筆記試験のために、

彼らの著作は受験生にとっては必読書に揚げられている。

 筆記試験では体操、解剖生理衛生、遊戯競技の内容で2日間にわたって実施された。各 問いは それぞれ5問程度あった。受験希望者用のガイドブックに掲載の模範解答を見る と、解答用紙が2枚以上になるときはこれを綴りさらに番号順に重ねるよう指示もあるほ ど、量が多かった。専門的で、高度な内容を細部まで要求され、ハードな筆記試験であっ たことが分かる。

 本試験で行う実技検定の会場も東京高師であった。「文検体操科」の実技の検定内容は

東京高師主催の体育講習会で行うものと同じ内容であり、しかもそれは東京高師の授業内 容と重なる。したがって、受験生は示範を見せてくれる東京高師の学生や研究科生のレベ ルを目標とし練習を重ねた。検定のレベルは検定委員の二宮文右衛門が次のように言い表 している。「中等学校の指導者たる以上素人離れのした技術を持たなくてはならない。即ち 精錬された技術を持たなくてはならない。」しかも一種目でも失敗すれば不合格という、難 易度の高い実技種目の試験だったことが云えるだろう。

 以上のことから、量の面でも質の面でも東京高師に迫るような中等学校体操科教員養成 の実績を残した制度であったと云えよう。

(2)「文検体操科」合格者の特性

 「文検体操科」合格者の多くは現職の小学校教員で、その多くの修学歴は師範学校卒業 であった。本研究の結果、その師範学校は地元の師範学校であった事が、埼玉県の実態か ら明らかになった。埼玉県における「文検体操科」合格者158名の中で、埼玉師範出身者 は104名(65.8%)を占めていたのである。

 師範学校は様々な特典のある全寮制の小学校教員養成機関であり、入学に際しても卒業 後の赴任先にしても地域と密接に結びついていた。地域の推薦制度があり、給費制度、卒 業後の兵役義務短縮などの特典とセットで、卒業後の小学校勤務が義務付けられていた。

そのため、「文検」合格者は地元の現職小学校教員であると同時に、地元の師範学校出身者 であると予想されるが、本研究で初めて実証的に明らかにした。

 次に、一般的に言われている「文検」合格者の特性を表現する語句は、竹内洋のいう「苦 学」という行為と「立身出世」という価値観であり、また、そこから表出する「生涯学び 続ける姿勢」であった。本研究の「文検体操科」という養成制度で育成された体操科教員 の特性についても同様であった。

 苦労しての受験生活は「文検体操科」合格者には共通のものである。押田勤は「毎日50 ぺv・一一一ジ読破を目標に、朝4時起床、洗面後直ちに読書を続ける。この時間こそ自分に与え られた貴重な時間であり、登校途中は読んだ事項の反復練習の時間であった。日曜日こそ はまとまった時間の取れる最大の日で夢中になってひたむきに読み続けた。分からないと ころは丸暗記をする。何ページの何行目には何が書いてあるというほど徹底して読み込ん だ」という。早朝から深夜まで時間を惜しみ、勉強時間を確保する。その一方、実技の練 習では、平日は放課後、1人練習し、「土、日曜を練習日と決め埼玉師範に行って白石君と

ともに練習を開始した。土曜日は主として懸垂運動・転回運動に充てた。最も苦手の跳び 箱は見るのさえ悪寒を覚えていた。それでも命がけの心境で、剤助をしてもらい挑んでい

ると偶然成功することが出てきた。その時はうれしさのあまり跳び箱を撫で回すほどであ った。鉄棒も同様に苦手ではあったが、次第に手の皮がむける回数とともに技の方も心の 方にも余裕ができてくるように思われた。」このようにして、体育講習会でやったことを、

普段は放課後1人練習、週末は仲間とともに練習を続けた。このような努力の結果が晴れ