第6章 埼玉における「文検休操科」合格者の実態
第3節 合格後の状況
分析対象とした1912(大正元)年度から1941(昭和16)年度までの埼玉県の「文検体 操科」合格者74名中、合格した翌年以降の勤務校が判明しているのは62名であり、異動 の有無、状況からまとめると以下のようになる。不明の12名は後段に記す。
(1)中等学校の教員となった者
1942(昭和17)年度までに中等学校教員となった者は次の通り62名中39名(62.9%)
であった。
1秋山英一(忍実科高女)、2新井誠治(埼玉師範)、3今井慎五郎(熊谷中)、
5青木顕壽(久喜高女、熊谷高女)、6嶋田万吉(松山中)、7石川正一(越谷高女)、
8原口多一(川越中)、11原田隣造(粕壁中、浦和中)、13森田與喜(松山実科高女)、
14押田勤(埼玉師範)、15岡村正一(久喜高女)、16白石武司(栃木女子師範)、
17出牛福蔵(浦和中)、20岩田巳代治(秩父高女)、
22青木勝(川越高女、久喜高女、不動岡中)、23竹本禮三(秩父高女)、
26田中博(熊谷高女)、27名野沖一(熊谷商業)、28吉野勝文(熊谷中、深谷商業)、
30寺崎長太郎(忍高女)、31横塚林次(越谷高女)、33浅海公平(児玉高女、川口工業)、
37高田卓彌(熊谷農業)、38栗原文之進(中部実業)、40田中幸作(東武実業)、
42坂西恒吉(浦和商業、川越中)、46中村由蔵(小川高女)、
47犬竹正雄i(粕壁中、川越高女)、48井田万三郎(女子師範、浦和第二高女)、
49岡野文吉(熊谷高女、久喜高女、飯能高女)、50小暮豊男(不動岡中)、
54安藤松壽(粕壁中)、55石川正男(所沢商業)、57須崎泰次(浦和商業)、
58中畝(野口)義男(越谷高女)、63加藤一(粕壁中)、69U」浦直心(熊谷中)、
72長島敏男(川口高女)、74吉澤喜一(熊谷商業)。
39名を着任した順に並べた表が6・5である。中等学校の教諭となる以前に、嘱託である 場合は、中等学校の給料が小学校の給料を上回った年を着任した年とした。
表6−5 中等学校体操科教員として着任した者
氏 名 学科 授与年月日 着任年度 着任校、職名
1 秋山 英一 体操 T1.12.13 T4 忍実科高女教諭 2
新井誠治
体操 T8.1127 T9 埼師教諭兼訓導 3 今井 慎五郎 撃剣 T8.11.27 T9 熊谷中教諭 4 青木 顕壽 体操 T11 T11 久喜高女教諭 5 原口 多一 撃剣T12
T12 川越中教諭兼舎監 6 石川 正一 体操T12
T13 埼師教諭兼舎監 7 嶋田 万吉 体操 T11 T13 松山中嘱託 8 原田 隣造 体操 T13.726 T14 粕壁中教諭 9 森田 與喜 撃剣 T14.7.27 T15 松山実科高女教諭 10 岡村 正一 体操 T15.8.10 S2 久喜高女嘱託 11 出牛 福蔵 体操 T15.8,10 S2 浦和中教諭12 押田 勤 体操 T15.8.10 S4 埼師教諭
13 白石 武司 体操 T15.8.10 S4 栃木女子師範
14 青木 勝 体操 S5.7.30 S6 川越高女教諭
15 名野 沖一 教練 S8.8.23 S9 熊谷商教諭兼書記 16 栗原 文之進 教練 S10.8.5 S10 中部実業教諭 17 岩田 巳代治 体操 S3.8.1 S10 秩父高女教諭 18 吉野 勝文 教練 S8,823 S11 熊谷中教諭 19 浅海 公平 体操 S10.8.5 S11 児玉高女嘱託 20 田中 幸作 教練 S11.8.7 S11 東武実業教諭 21 寺崎 長太郎 体操 S9.7.28 S13 不動岡中嘱託 22 横塚 林次 体操 S9.7.28 S13 越谷高女教諭 23 坂西 恒吉 体操 S12.8.20 S13 浦和商教諭 24 竹本 禮三 体操 S5.7.30 S14 秩父高女教諭 25 中村 由蔵 体操 S13.8.9 S14 小川高女教諭
26 岡野 文吉 体操 S13.8.9 S14 熊谷高女教諭 27 石川 正男 体操 S14.8.10 S15 所沢商教諭 28 中畝 義男 体操 S14.8.10 S15 越谷高女教諭
29 田中 博 体操 S7.7.25 S15 熊谷高女教諭
30 犬竹 正雄 体操 S13.8.9 S15 粕壁中教諭 31 井田 萬三郎 体操 S13.8.9 S16 女師訓導兼教諭 32 小暮 豊男 教練 S13.8、9 S16 不動岡中教諭 33 須崎 泰次 体操 S14.8、10 S16 浦和商教諭 34 山浦 直心 柔道 S15.8.10 S16 熊谷中教諭
35 加藤 一 体操 S15.8.10 S16 粕壁中教諭
36 高田 卓爾 教練 S11.8.7 S17 熊谷農嘱託 37 安藤 松壽 体操 S14.8.10 S17 粕壁中教諭 38 長島 敏男 体操 S16.8.28 S17 川口高女教諭 39 吉澤 喜一 教練 S16.8.28 S17 熊谷商教諭
『埼玉県学事関係職員録』他と照合し作成
着任した年から見た特徴を挙げてみると、1931(昭和6)年以前では、着任した中等学 校は実科高女、師範学校、中学、高女であり、実業学校は一人もいなかった。1920(大正 9)年から1931(昭和6)年までの間に着任した人数は13人で、平均1.2人/年ほどであ った。その後増加し始め、多い年は1941(昭和16)年の5名、1940(昭和15)、1942(昭 和17)年が4名、3名ずつが1936(昭和11)、1938(昭和13)、1939(昭和14)年とな った。埼玉県において学校数の増加は1931(昭和6)年以降、師範学校、中学校、高女の 増加は止まり、実業学校の増加に転じた。甲種実業学校では1926(大正15)年から1935
(昭和10)年までの10年間で10校増え、1942(昭和17)年までの間にさらに10校増 えている。1934(昭和9)年に名野沖一が熊谷商業に教練の教諭兼書記となって以来、新 たに着任した25・名中3分の1に当たる8名が実業学校へ進出するようになった。
この他、1943(昭不018)年以降については資料不足のため不明であるが、戦後の1949
(昭和24)年までに新制の高等学校へ異動している者は9名いた。(番号は表6・4を参照)
35齋藤一郎(川口女子高)、37吉川正雄(児玉農高)、43櫻井栄(本庄高)、
45関口昌助(本庄高)、64黒田清次(浦和高)、65須田浩三(川越女子高)、
66長谷川正之助(都立城北高)、68横溝貞三(大宮女子高)、
73堀越(野村)なつ子(大宮女子高) である。
合計で48名、すなわち埼玉県の1912(明治45、大正元)年から1941(昭和16)年度ま での「文検体操科」合格者74名中64.9%の者が中等学校「教諭」への異動を果たすこと ができたといえよう。
(2)中等学校の教員とはならなかった者及び詳細不明の者
一方、小学校勤務を継続したのは次の通りである。この者たちは合格時もその後も中等 学校の名簿には見当たらない。
18酒井八重朔、32岩田章、41岩崎敏夫、44加藤i隆次、56金子堅太郎、59峯友直、
67渡邊正、70金室博、71鈴木良三 の9名(74名中12.2%)である。埼玉県の中等 学校職員名簿に一度も見当たらない者たちで、「文検体操科」に合格はしたけれども、県内 では中等学校教員にはならなかった者である。
この中で、18酒井八重朔、44加藤隆次、56金子堅太郎の4名は戦後の薪制中学に勤務
している。
これとは別に次の5名は「文検体操科」合格後に一時的に中等学校勤務が見られるもの である。しかし小学校と兼務のない教員として異動したかは資料不足もあり詳細は不明の 者である。
9茂木豊次郎は撃剣合格後、本庄尋常高小の訓導をしながら本庄中で武道教師を3年間
受け持った。
19金杉松次は1934(昭和9)年から1937(昭和12)年まで浦和商業の剣道の嘱託教師 となっている。その後1942(昭和17)年には浦和中に併設された定時制の敬和中の嘱託 を務めている。
21古川美亀雄は前述のように合格後、東京高師の研究科に進み、その間、鴻巣実科高女 の嘱託となって、月額60円の俸給を得ている。しかし「教諭」とならずに徳島県に移っ ている。その後の詳細は不明である。
24藤崎榮春は「撃剣」合格後、北吉見尋常高小に勤務しながら松山中の嘱託となり、剣 道を担当した。埼玉師範同窓会名簿によれば昭和25年1月の発行時には死去となってい
るので、詳細は不明である。
53網野三一は合格時に加須尋常高小訓導であり、同時に加須実科高女の嘱託をしていた。
小学校訓導を継続し、戦後は新制の中学校に勤務した。
網野以外はいずれも「剣道」の嘱託であり、武道教師の教諭採用は少なかった当時の事 情が考えられる。網野の場合には勤務先が加須近辺地域に限られている。地域から離れら れないとすれば中等学校の数も限られてしまい、異動の機会は少ないと想像されるが詳細
は不明である。
すなわち、合格後一時的な中等学校勤務が見られたものは74名中5名(6.8%)である。
また、検討の対象となった74名中、次の12名が合格後の動きの不明なため追跡できな かった者である。
4利根川孫一、10今井忠太郎、12関山久行、25島1暗平二、29加藤i貞治、34狩野喜好、
36澁谷宏三、51青木一三、52内田恭作、60渡邊江津、61内田喜作、62茂木義男 この12名は、埼玉県の中等学校職員録では見いだせなかったので、中等学校の教員と
はならなかったものの中に含めると合計で74名中21名(28.4%)となる。
中等学校の教員となった者48名(64.9%)、兼務をしただけの者5名(6.8%)、ならな かった者21名(28.4%)という結果であった。
(3)小学校教員から中等学校教員への異動のまとめ
「文検体操科」を受験し、中等学校の教員となろうとしたものの多くを小学校教員が占 めていた。合格者の中には小学校教員でありながら中等学校教員を兼務する者もいた。さ らに、兼務の状態から中等学校だけの教員になる者もいれば、ならなかった者もいる。こ こで小学校教員から中等学校教員へ異動したケースについてまとめておこう。
対象は中等学校教員となった中で、その経過を検討できる者、つまり合格の前とその後 の実態について判明した者であり、28名である。
第1は小学校教員から合格後その翌年、遅いものは戦後になって異動した者。そこには 小学校と中等学校との兼務の実態がなく、小学校から中等学校の教員へと所属の異動とな っている者。第2は小学校教員が中等学校教員となるまでの間に小学校と中等学校との兼 務の実態が見られる者である。兼務は「文検体操科」に合格する前からの場合と、合格後 に兼務教員となる場合とが見られ、他にも、同一校で教諭となる者と兼務したところとは 別の中等学校に移って教諭となる者とがあった。第3は合格後、さらに東京高師研究科に 進学し、中等学校の教員を目指した者たちである。第1のグループは17名、第2のグル ープは7名、第3のグループは4名であった。
一つめに該当する17名は次の通りである。
2新井誠治、7石川正一、11原田隣造、13森田與喜、17出牛福蔵、22青木勝、
23竹本禮三、42坂西恒吉、46中村由蔵、48井田萬三郎、49岡野文吉、54安藤i松壽、
55石川正男、57須崎泰次、58中畝義男、63加藤一、72長島敏男。
合格後、翌年の異動は2新井誠治、7石川正一、11原田隣造、13森田與喜、17出牛福 蔵、22青木勝、42坂西恒吉、46中村由蔵、49岡野文吉、55石川正男、58中畝義男、63 加藤一、72長島敏男の14名。57須崎泰次は2年後、48井田萬三郎、54安藤松壽の二人
は3年後、遅かったのは23竹本禮三の9年後の異動であった。
このグループでは、7石川正一が埼玉師範付属の訓導から埼玉師範の教諭になったほか、
13森田與喜は松山第一尋常高小から同じ町内の松山実科高女へ、46中村由蔵が松山の小 学校から小川高女への異動ということで距離が比較的近いほかは、同一地域内の異動は見
当たらない。
また、48井田萬三郎は、合格時には北足立郡六辻第二尋常高小訓導であり、同時に埼玉 女子師範の附属小に兼務訓導として勤務していた。その状態で3年後に同女子師範の訓導 兼教諭となった。
二っめは小学校と中等学校との兼務の経験を持ちながら異動したケースで、7名が該当
する。