う。
7. 時 国村 と大川村 の浜地争論
『輪島市史資料 編 ・罪一巻 』に
,
「元 禄畑頃か ら輪禍 薬 が盛 にな り,その浜をめ ぐって両噂国 家 の間に深 刻な係争を生 じた らしい」 とあ るO また 『奥能登時 Eg家又苗』の中 に 「時国村 論地 一開 帳」
「煎 出入一朗 8iJ 「纂置開 園碧葺 論地一件軌 があ り. 当時相 当重要視 ‑ た 争 論のよ うに考 え られ るので取上 げてみたい。資料 と したのは 『奥能登時 国家文番 .罪 1‑ 5巷 』であるo これ には上時国家の文宙 しか 出 ていないので 『輪島I行史染料編・罪 l巻 J)も使用 した. 現地凋 壷がほ とん どで きなか ったこと は残念であるC
当村 恥私儀時国村 EEI地見下迄帳曳舶 相穣 キ雅在 幌成五七年 己来一 向他 為曳不 申右大川村之 者共当村猟師麟曳投 ケ候 所網 ヲPl破 り右蟻取放 シ或者細事 ヲ切 り・・・・・・
文政十 三年寅二 月 時 国村庄屋 左 門 徽鞠所 御役所
これ は 「時国村 論地一件 留鵬」の地初に出て くる ものであ るO
この折えの中心 となってい るのは.昏 々木の住民で はなかろ うかo 当 時 の F.yjT々木 は塩 と漁 と小 作で生活 していた と考 え られる。曲集 は重重な生計の手 だてだったのであ ろ う。それゆえ, 上記のよ うな不法は許せ11いので ある。
この浜で柵を させて もらいたい とい う根拠 は.①大野村 ・伏戸村 ・大川村 との堺 は町野川で あること,②大川村 の塩戯が川顔にあ り.臥水の般筈 か ら逃れるため頼膏 を した こと,③ この 浜 は,大野 村 ・伏戸 村 ・大 川村の入金 であ るが.大野村 ・伏戸村 は時圏村 がはいることを認め た。 というものである。
これに対 して大川村 は
,
①堺 は亨 ほっ と出航岩 とい う大陸 にある大石 と海中にあ る助忠 とい う岩を結んだ線 であ り,川は駄水 のたびに材 曹す るので堺ではない。②塩蔵は村 の中にあ る.①大野札 伏戸村 は時国村が はいる ことを認めたといってい るが ,そのよ う11‑覚 はない と両村 は言 ってい る。 と反論 してい るo
大川村の方が筋が適 ってい るよ うだが.この抵副 とついては何 も戦 っていない。
参考 までに,大 川 と曽 々木で 聞いたそれぞれの漁業席 をせい てお く。
昏々木が主張する
曽々木の漁業板 の髄節 :渋 田〜 タ ラサ カ 大 川の漁業権の恥 囲 :渋 田〜 町野川 大川が主張す る
昏 々木 の漁藁廟 の範囲 :悪者 か ら果 大 川 の独英極の範開 :渋 田〜 袈宕
このよ うに現在で も食い遅いを見せ ているのは注 目すべきであ ろう0
0 時南村浜地争論
続 いて(引まとんとが ,字下 川 (河) 原の問題で あ る。 すなわ ち上時国家 (左門) は,下 河 原を入会地 と主張 し.下 時国家 (藤左 衛門) は 自分一人 の所有 だ と主張するのである。
「居村湊河原寄 I)付 ニー Yrl婦珊仕 私共差薬等組付中葉畑 地二相成 僚・・・・,・=月下旬御私儀時国 村藤左衛門普代之者共‑ ・.‑悉 ク打荒 シ‑ ・・・近年来大 川村寄合餅 二腸相等 目除私共網等理不尽 こ為切統始終村方 ヲ相手‑取 り付レ曳航事故併較義二御座候得者 ‑‑・・」
卸預所 卸役所
ノ 天 保三年 辰二月
時国村百性 孫左衛門 (以下58名連署) l■、‑.
t
「当村湊浜之儀津 田大 門坂 口本石 よ り岡崎国境義之下 成正浜 ヨ リ出シ申江川切 り上音両時国 御田地尻迄両時 国両昏々木入合浜二御座 摸・・・・‑・‑
天保三年度二月
→BE‑
時 国村庄 屋 左 門 細預所 勧役所
また.同内容の文が細私債の 百姓か ら出てい る。
この問題 とTiってい る畑 地 は約三千歩 ほどであ る。これが何 故大問題 とTiり,三冊の冊子類 にまとめ られたのであろ うか。
それ は. この土 地が主 に昏 々木 の人 々が使用 して お り,先 Iこも述 べたよ うに.塩 と漁業を主 と し,文 中に も しば しばで て くる 「無有無 山同様 」の所で あ ったため と考え られ る。 そ して , この土 地で繊細 を引 き,珠 を と り.双方 の 「軽 キ者共折 々菜大 根等格 付」 し,生活 の一助 とし ていたの であろ うC
ます.この争点 とな ってい る土地を地図上 で推定 してみ るO 末七月付 の藤左南門の文 に.
「御堺 筋 の義左門等申上 方 ハ字穴 釜之上 二生侯加境松 侯湊人 家往来通山之上 二御座候本石与 申 ヲE]当二仕夫 侯砂山松林通町野 川岸迄 ヲ境 ニ‥‑・」
とある。 これか ら現在の 「港」附近 であろ うと考え られる。 しか し
,
「字 穴釜」
「本石 (津 田 大門坂 口本石 と同一の もの と思われ る)」 は未 調査のた めは っきり した位置 はつかめないが, おおよそ図 Jの線 でか こまれた所が問題の土 地ではないか と考 え られ る。 また ,町野川河 口は図 I
F]rk木海岸
玉 東大野
現在 よ り酉 にあ り,ほぼ直線 的に海 に統れていたと考 え られ る。
そ して,ここは ,
「元来浜地之義惣名 ヲ洪浜与申 候而都 而入合浜と処井 内三ヶ所二相分 リ内転中浜外転与 申侯」
とあ り,その うち掛 こ中医 .外浜が問題 となってい る。 内転は国道249号線の す ぐ北 に壊 し, 中浜 は町野川が 日本海 に平行 に頁行 してい るあた りで,外敵はその北 となるのであ ろ うか。
また.町野川西岸
に
「河原」 とい う地名が あ る机 問題 とな っている 「下河 原」 と 「中浜」 は同一 と見て長い と思 うが,判断 しかねる0‑万 「字外 川原」 とい う地名が 出てい るが.左門の文 に.
「右藤左術門 ヨ ')字外 川顕与態上億凝 所書下 河原卓苅軒 与 申所」 とあ り
,
「外川原」 と 「下河原」 は同一 櫨所 と考え られ る。争 論の ポイ ン トを まとめると,たいた い次の よ うに なるo
E A
) 訴えた左門の雷ぶんは. 「下 河原は入会地であるに もかか わ らず ,藤左新円一 人の持 ちも ののよ うに主萌 し.藤 左裾門 と同 じく作付 していた曽 々木の者 に手 を入れ させ ない。 入会也 であるとい う根拠 は,明細帳に草刈壕 が三町税 とせかれていること一実際 に r掌保八年 時国 村様子昔 』の中に 『革苅軌 三 脚程御座候早 壌無血座転 宅 ケ所長百二間幅三十八間 壱 ケ 所長四十間恒二十五闇 』とある。何年間かそ こで耕作 して きた こと」である。一方,藤左衛門は
,
「ここは 自分の 持地 である。 その根拠 は両時国へ卿 定年貴を とりたで ていた ことO また手をっ け させ ない のは天保三年 の年貢 を はらわないので他の人 に貸 し.四 年九月に三年 の分をは らいに来 たが ,すでに他の人 に貸す ことに していたので.昏々木の者 には侵 さなか ったO」 とい うことである。(Bl また.左門の訴 の巾で 「入会浜で塙柵を引きあげてい る時,藤左術門の普代 の者が網 を破 る等の理不尽 の行為 」を した といい,これ に対 して藤左術門は 「自分の持 ち地であるか ら瀬 を引 くことはな らない。 だか ら引かせlilいよ うに してい るうちに破れた。」 と しているC
帆)については
『輪島市史 資料福野 1巻 Jiの時毘宏文廿の 「某保二年 時国村百姓 田島当一作甜証文」の 中に 「川原畑
」
「川原畠」 とい うのが出てい る。これが争点 であ る 「下河 原」 と同一地 な ら 藤左衛門側 に分があ ることに fiるo Lか し,同D 「延宝三年 時国曽 々木領境 に付定等」 に「疾之儲ハ時国村長左 衛門塩蘇僚時 盛付頚左衝門兼浜軌 海浜両時国 ・両 昏 々木入合こ侯 併時厨村長左衛 門‑両 曽 々木侯藤 左術 門湊喪二於後 々年 二家 ヲ建 ,鰍 目入 申間数侯 ,ケ梯
二双方納得 ヲ以相 究‑・‑・」 とあ り.双方 の主張がともに くずれ ることにな るO 旧)については
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延宝三年の文IB によ って左門側 に分があ るよ うに考 え られ る。
それでは.この よ うfi文を受 けた 「和知所 ,徴税所 」 と 「改作方御郡奉行」 の動 きを見 て み るa
「
・・・・‑去年以来寄 付 口達 ヲ以委細 加藤 申上候鹿‑ 応右集左衛 門江恕合其趣可 申上 旨被 仰#*・・‑・・・・・J
天 保三年辰二月
時 国村庄屋 左 門 御預所 細役所
これ が最初 に見 られ る役所の判断であ る。 文中に 「去年以来」 とあ るが.その文 は見 られ ない. あ るいは,大川村 との争 論の もの か も しれ ないO
か けあいに行 くが ,あ しらわれ藤左術門 はます ますカで押 して くるのであ る。 それ に対 し て訴 え も多 くなり.当事者 で解 決 させよ うと した役所側 の恵図 は, はずれ 「御許用鳩 で 詮議
」す るに至 るのである。
その時 に下 され た内容を直接示す文はないが .間接的 には示 され ている。
「未設義 中相成居候所承知之通 二俣 然鹿先 日以来毛附有之場所放漫 申分有 之右先 達而於 御井用場詮義之節申渡侯適右一件恕而才判 申渡侯迄 去年迄仕 来適相心得 ・‑・・・」
(天保 四年) 巳十一月四 日 山 森 堆次 郎 高 田 幸 助
時 回付 藤 左肺 門方 と曲左柵門 に対 してin知 してい るo Lか し, この文 中の 「去年迄仕来泊」 とい うのが,両者 の解釈 の相塵 を生 み,先 に も背 いたよ うに 「このような判断 があ ったか ら作付 できるD」 と 言 い ,一方 では 「昨年 は別人に貸 した。 去年通 りで あるか ら,その人 に賃すO」 として新 た な野件 とな ってい る.
これ らの争詮 の結果 は出ていないが ,天保七年 には藤 四郎 (鹿 左術門せがれ) が当主 とな り その頃 にはすでに一件 落着 とな っているよ うで あ る。
これ らの争 論の背蚊 に は. 皆 々木が両 時 国 一札領 ・天領 ‑の入 会地であったことがあげられる だろ う。 昏 々木 においては両 群 と向いは天 領 ,斜 向い と自分は私儀 とい うよ うな錯雑 した入会 地であ ったことが,この争論を複雑 な ものに した と思 われ る
(生 木 季太郎)