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大 島 紬

ドキュメント内 離島の 自然 と生活 ( (ページ 144-151)

い。

4. 大 島 紬

( 1) 大島紬の由来

大島紬織 物業は .歴史的には旧封建社会の中に成長 してきた 日本固有 の在来産弟 で あ り,そ の製品は品質 の堅靭 さと特殊 の色合 いと雅致 に富み .製掛 こ長 期間を要す ることによ って知 ら れてい る。

大 島紬 の起 源は明確ではないが ,琉球 の久米島紬 に由来す るものだといわれてい る この久 米島紬は ,原糸 は共綿 を手 引き した もので ,四百数十年 の歴史 を有 してい るが ,元来久米 島軸

といえ ど も琉球固有の織物 ではな く,中国か ら伝 え られて きた もので あ る。

しか し記銀 によれば.我が国 においては綿織物 よ りも絹織物 の方が古 い時代か ら存在 してお り,我が国のいた るところで織 られ ていた紬 も日本 瓦有 の もの であ った ことは確 かであ る. た だ中国か ら久米島に伝来 した紬 の方が技術 的 .品質 的に優 れて いたのであ る。 とい って も当時 の紬 は,真綿 を紡 いで織 ったのであ るが .現在 に比べ ると品質 も劣 り,すべ て黒無地か白無地 で縞 とか餅 などはなか った。

(2)

大島柚の移 り変わ り

① 江戸時代 の大島紬

封建制下 における大 島紬が盛ん に製織 され るよ うにな ったのは .三代将軍 徳川家光 の頃で あるといわれてい る。 島津庸時代 に大 島紬 が発達 した理 由の‑ つ と しては.島津藩が その製 造を官業 と して奄美の住民 に強制 した ことが あげ られ る。 しか しそれ以前 にすでに久米 島か ら伝来 していた紬 は .生業 あるいは副 巌と して広 く庶民 の間 で製織 されていた。 そ して大 島 本島をは じめ西南諸島住民 の南国的性 と紬 の気候風土へ の適合性およ び経済事情 (亜熱帯 と い う高温多湿の気候 に的 した織物 であ り,軽快,耐久性 ,冬季 におけ る耐久性) などによ っ て .一般 に普及 していた もの と考 え られ る。 しか もこの頃は ,奄美大 島で も盛んに養蚕が行 なわれていた。

後世 に至 り紬 は島津常の重要な生産物の‑ つ とな り,官英 の形 で製織 が行なわれ ,その経 営形態は マニュフ Tクチ ャーであ ったO最初の大島紬 は民間では 自家消費 か贈答 用 として製 織 されていたが ,宮共 として生産 され るよ うにな って始めて商品化 されたので あ るQ 旧時に おける製織法 は非常に幼稚 で ,蛮 あるいは木 皮 で染めた色合 いで製織 していたが ,当時藍は 十 分栽培す ることがで きず ,染料 は多 くテ‑チ木 (学名車輪梅) ,クチナ シ, ヒル,ハ ゼな どの皮 を煎 じて使用 した。 しか し木皮 に染め ただけで は色合 いに面 白味がなか ったが ,本島 大島の笠利村で泥が衣服 に染 まることが発見 され ,その後 たいていの紬の織物 に泥を使用す

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るよ うにな ったO そ してそれ までの ネズ ミ色に代わ る横餅 の紬 の生塵が明治時代 まで続 いた。

明治 ・大正の大 島紬

明治十年頃の大島紬 の餅染 は簡単な餅柄 で.夜 伽 とい う娯糞 をかねた夜なべで併 くくりが 行 なわれていた。

西南没後 ,本土 と大島 との交通 の 自由に伴 って大島紬 の取 引が盛んに な り,機の技 術 も向 上 し辛作米 が織撫lこ代わ る合理的な生産方 法lこな ったO明治三十 四年 には大島紬同類組合が 組擬 され ,それ まで某紙か らつむいでいた糸 は約枚玉糸に変 わ った。

更に大正時代 に入 ってか らは ,す べて正絹を使 って粒 った大島が作 られた。 だか ら一応

「紬」 と呼んではい るが,正式には 「大島耕 」 とい う木綿糸織物なのであ る。 糸染めについ ては ,組物染料 ,泥染を特徴 と していた。

① 現在の大島紬

本場大島紬の何よ りの魅 力は,あの深み のある色詞で あ る. 茶梅色を含んだよ うな巣 の艶 やかな色 は

,

「泥大島」 と呼 ばれ,大島紬の代表格 とされてい る。 これは 前述 の如 く,奄美 大 島に生 えてい るテーチ木 とい う熱帯性植物の幹を刻 んで,それをよ く煮 出 した液 を染料 と して用い,これを更に泥田の泥で もみ込む ことに よ って独特 の色 が出 され るo す なわちテ‑

チ木 のタ ンニ ン酸 と泥土 の中 に含まれてい る鉄分を十 分 に化合 され るわけであ る。本藍 と泥 牡を交 互 に何度 も色攻め した ものは 「泥藍大 曲」 と呼 ば れてい る.

泥染めには相 当の根 気 を要す るが .現 在で は桧生産高 の約2%,泥藍奴は約20%にす ぎず あとは化学染料 弛めに変わ ってきてい るO大 島紬 の も う一つの製粒地であ る鹿児島では .主 に化学染料が用い られてい るが

,

「色大島

「白大 島」 と呼 ばれ る現代感'1割マ ッチ したも のが生産 され,かな りの人気を得 ているよ うで ある。

大出紬 は高槻で織 られ るが ,手 織 りなので根気のい る面倒な仕事 であ る。一反 を綴 りあげ るのに,熟練 した人で25日.遅い人は40日位かか る。 織 りあが った品物 は,その土地の協同 組合 (奄美大息 と鹿児島に分かれ てい る)に袋め られ ,検査 を受 け .合格 した ものには商棟 が貼 られ ,割 り印が押 され る。 こうしては じめて 肘掛 こ放 ってゆ くわけである。

(31 実 態

① 聞 きと り孤査

沖永良部 島には ,工場 と しての形 を牡えて紬 を細 ってい るところはないO ほ とん どが家庭 の主如 の 内政であ る。 内職 として軸を綴 ってい る人 に軌 、たことを まとめて ると・ だいたい 次の4点 に しぼ られ る。

a 男 ものは 1疋で1万七 千円,女 ものの模様稔 りさま1題 で7万 円。1カ月 で約7万 円位の

収入 にな る。

b 個人的に IL'・/った人が多 く,17年縫 って いる人 もい る。

C 材料 は名勝か ら,織 りあが った ら名瀬 へ送 り,検査 のあと工居 を送 って くる.

d 現 ̲立が手 に入 るか らいい収入 にlj:る し,同時に家庭 の こと もで きるか ら‑ 番いい仕事 で あ る。

知名町柚拙工 展成所 が朗始 され たのか昭和45年 ,和泊町軸綴工 養成所 が開始 され たのが昭 和50年 と.紬轍 工 の養成 が公的俄閑 では じめ られたのは ご く最近であ るO だか ら,内舵 と し て現在 家庭 で綴 ってい る人は ,ほとん ど個 人的に習 った人で あ ると思 われ るO 知名町 の ご く 限 られた範囲で しか仙 きと り諏童 を してい ないので ,一概 には言えないが ,rlflきと り調査 を

した屯田では楽 しんでとか .ひまにまかせ て細 っている人が多か った。

また ,知名町 ,和 泊町 の紬織工 遜成所では,卒英後家臆で内職をす るために習 ってい る人 が多 く.慮成過程が ちが うため,知名町 は家区の主婦 ,和泊町は結婚前の人が 目立 った。

そ して ,糸をは ることと模様あわせがむずか しい とは会見が納得す るところで あ った。

知名町軸織工養成所 (知名町投軌 掻済課が管理 してい るo)

a 設 立

昭和42年 か らの奄美 諸島振興 計画事演 の一群 と して.44年 に建設が完成 し,45年4月か ら開始 されたO縫工養成所 は, 最初各 島にひ とつ とい う条件 で, まず知名町 に作 られ たo

b 目 的

職工の遵成 .沖永良部 島の振興 をはか るため。

C 経 常

矧 戊所で綴 った紬 の綴 り貨 の

割 で維持。 (先生 ‑の謝 礼等) , しか し赤字な ので赤字 分は町が負担 している

d 入 所 祭 格

知 名町の住所 を有す る者。 (町外 の場 合 は町長 の許可が必要 であ るO)年令は16才 以上 無料で髄 時入所 で きる。

e 過 程

転 臼来れば 1年桂皮 で卒叢 で きる。卒業 までに械軌 十の字 ,模様綴 りの3段階 で.2 疋 (1疋‑2反す なわ ち4反)轍 ればいい。l疋 は約5万 円であ る。

f 現 状

入所者は年令22‑23才,40.50才 台 の人が多 く,本弟は ほとん どが腿紫 であ る。 その ためfn繋期は まった く来 ない人が多い. 養成 所へは知名町 のほ とん どの部落か ら来てお り, 惑 い ところでは砥時 ,余 多などか ら来ている人 もい る.

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紬紙 工虚成 所調 べ (濃 l)

年 産 4月 1日入所生 その後 の入 所生 退 所 生 修 了 生

44 14 19 3

45 30 13⊥ 29 9

46 8 23 12

47 20 26 21

48 27 20 10 13

49 29 L甘 17 14

(50.5.7) g 卒 業 後

卒業 後 1年間 は養成所 の紬 を綴 る。 (養成所 と恭者 が契約 してい るO ) その後は 自由で 業者が搬 織 を貸 して蘇 らせ る外債の腐食 もあ るが.ほ とん どの場 合 は各 自で地裁 (1台 , 4万5, 6千 円) を購入 し,内職 として轍 って い る。拙 策者 は はとん ど名瀬 の業 者で あ る。

抽 人 口は864人。

h 問 題 点

習 う人 が少 Iiい。 (30名収容で きるの lこ対 して現 在は20名 であ る。 )

1 そ の 他

o紬 は沖永良部で は昭和36年 頃か ら織 りは じめ. 4a 47・年 頃 が虫 もさかんで あ ったO これは民芸 ブームの 駐唾 であ ろ うと思 われ る。 そ して最近 は下 が りぎみ の傾向 にあ る。

o

農のかたわ らに綴 る人が ほとん どであ り.軸 を轍 る人 の背I削 まあ ま り㈱か ないO

① 和 泊町納擬= 養成所 (和 泊町役場 ,経 済許 が管 理 してい るC )

a 設 立

知名町 の養成所 に続 き, 49年 に地物が完成 し. 50年5月か ら開始 された。

b 目 的

鍛工 の養成

C 経 営

知名町 と同 じであ るJ d 入 所 資 格

和泊町 の住所を有 す る者。 (町外の場合 は町長 の許 可が必要 で あ る。 )年 令 は16才以上 の女 子。無料 であ る。

e 過 程

毎 日8:30‑ 17:00までで2年 で終 了す る。

f 現 状

入所省は年 令16‑ 53才 まで幅広 く, 16‑ 23才 くらいの結婚前の人が多 い。 (20名 中既婚者が4名)。養成所へは和泊町 のほ とん どの部落か ら来 る。 (20名 中和 泊町の 人が

4名)51年3月31日現在で23名入所,3名退所で20名養成所 に来 てい る。

g 卒 業 後

家庭 で内織 と して織 る。工場 はあ るが ,これは新 しい職工暴威 のための もので ,内職 と して家庭で織 る以外 にない。紬 業者はほ とん ど名瀬の共著であ る。

h 問 題 点

途 中でやめ る人 (結賠等) がいるので ,紬 が製品にな らIj:い ことがあ り,こま っている。

そのため途中でやめない とい う条件 で入 所をE.JLlめ てい る。

1 そ の 他

家庭での 内職がほとん どなので ,統計的にみ るのが困難 であ るO

和泊町における過 去5ケ年間の大島紬生産状況 (推移) イ 生 産 状 況 (表 2)

生 産 反 数 生 産 金 額 町 寅 者 別 生 産 反 数内 町 外 46 300名

2 ,

1

0

0反 58.650千円 960反 1.

1

40 反 47 406 2.55日 89,240 1.800 756 48 590 3.54

0

133,950 2,loo 1,440 49 607 3,642 127.470 2 0 1,6 42

5

0

544 3.808 137,088 1.950 1.858

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