風 土 記 考
』 に つ い て
は じめ に 東
京 大 学史 料 編纂 所 に は『 播 磨 風 土記 考
』と 題 す る 謄写 本 が ある
。 著 者 は
、 幕末 か ら 明治 に かけ て 播 磨国 揖 西 郡室 津 加 茂神 社 祠 官で あ っ た 岡 平 保(
姓 は 岡
、 名 は 平 保
)で ある
。本 書 は同 社 の 祠官 で あ っ た 岡 平 満(
お そ らく 岡 平 保 の 子 孫 か
)の 所 蔵本 を
、東 京 帝国 大 学 教授 の 重 野安 繹 が 謄 写 した も の であ る
。『 揖 保 郡 地誌
』 の 岡平 保 の 項に は
、「 風土 記 に つい て の 著 作 が あ る と さ れ る が
、 未 刊 であ った
1
」 と ある が
、 お そ ら く 本書 を 指す の で あろ う
。 そ も そ も、
『播 磨 国 風土 記
』は
、『 続 日 本紀
』和 銅六 年(
七 一 三
)五 月 甲 子 条 の、 五 月 甲 子
。制
。 畿 内 七 道諸 国 郡 郷 名 着
二好 字
一
。 其郡 内 所
レ生
。 銀 銅 彩 色 草木 禽 獣魚 虫 等 物。 具録
二
色 目
一。 及 土地 沃 塉。 山 川原 野 名 号 所 由。 又 古老 相 伝 旧聞 異 事
。載
二
于 史籍
一
亦
二宜 言
一上
。 と あ る 官 命を 受 けて 編 纂 され た
、い わゆ る 風土 記(
官 命 に は「 風 土 記
」 の 文 言 は み え な い
)の 一つ で
、全 一巻
。和 銅 五 年(
七 一 二
)七 月 の 時 点で 播 磨 国 大 目 で あ っ た楽 浪
(
高 丘
) 河 内 は
、 そ の 編 者 の 一 人 で は な い か と いわ れ て い る が
、 詳 細 は 不 明 で あ る2
。『 播 磨 国 風 土 記』 で は
、
『 常 陸 国 風土 記
』と 同 様、 霊 亀 元年
(
七 一 五
)ご ろ ま で続 い た 郡里 制 に よ る 地 名表 記 を 採用 し てい る の で、 官 命が 出 て ほど な く 提 出さ れ た と 考 え られ る が、 こ れ も詳 し い こと は わ から な い
。
『 播 磨 国風 土 記
』は
、 現存 す る 五風 土 記の な か では も っ と も世 に 出 る の が 遅く
、伝 本 は 平安 末 期 の書 写 と され る 三 條西 家 本(
現 天 理 大 学 図 書 館 蔵
、 国 宝
) のみ で
、 し か も披 見 は 困難 で あ った
。 は じ め て三 條 西 家本 の 存在 を 確 認し 書 写し た の は柳 原 紀 光 であ る
。 す な わ ち
、彼 の 書写 し た
『播 磨 国 風土 記
』(
柳 原
)本
の 奥 書に は
、 右 播 磨 風土 記
。 以或 家 古 巻令 写 之
。当 時 出雲 豊 後 之外 諸 国 風 土 記 逸
。於 後人 擬作 者 餘 国 猶 有
。最 可 謂 奇 珍矣
。 寛政 八 年 六月 廿 六 日。
同日 令 一校 而所 々有 不 審 重 以 正 本可 校 者 也
。 正 二 位
藤 紀 光 と あ り
、寛 政八 年
(
一 七九 六
) の こと で あ っ たこ と が判 明 す る
。た だ
、 こ の 段階 で は流 布 す るに 至 ら なか っ たよ う で ある
。
『 播 磨 国風 土 記
』の 流 布に あ た って 力 があ っ た のは
、 谷 森 善臣 で あ る
。彼 は
、 嘉永 五 年
(
一八 五 二
) 三 月二 十 九 日に
、 かね て よ りの 宿 願 で あ っ た三 條 西 家 本 の 書写 を 許 さ れ
(
谷 森 本
)、 の ち に
、柳 原 本 に よ っ て 校 合を 加 え てい る
。こ う し て、 谷 森善 臣 の 尽力 に よ っ て『 播 磨 国 風 土 記』 は 次 第に 世 に知 ら れ
、多 く の人 々 に より 書 写 さ れ、 普 及 し て い る。
『 播 磨 国 風土 記』 は、 里 ごと に「 土 中上
」「 土 中 々」 な ど と 土 地の 肥 沃 の 度 合い に つ いて 詳 しく し る すの が 特 徴で
、 地 名の 起 源 につ い て は 詳 細 を極 め て おり
、 官命 で 要 求さ れ た 五つ の 項 目、 す な わち
、
① 畿 内 七 道の 国 名
・郡 名
・郷 名 に 好い 字 を 着け よ
、
②郡 内 に 産す る 鉱 物
・ 植 物・ 動 物 など で 有用 な も のの 品 目 を 筆録 せ よ
、③ 土 地 の肥 沃 状 態
、
④山 川 原 野の 名 の由 来
、
⑤古 老 相 伝の 旧 聞 異事
、 の うち
、 と く に
③ と④ に 忠実 で あ る。 た だ
、 惜し む ら くは
、 諸本 の 祖 本と な る 三條 西 家 本は
、 巻 首部 分 を 欠 い て いる
。『 釈 日 本 紀』 巻 第 八 が引 く 逸 文に よ って
、欠 落 部 分に 明 石 郡の 記 載 が 存 在 し た こ と が 知 ら れ る も のの
3
、 賀 古 郡 の冒 頭 部 分 や お そ らく は 巻 頭に あ った で あ ろう 総 記 の記 載 に つい て は まっ た く 不 明 で ある
。 ま た、 賀 古以 下
、 餝磨
・ 揖 保・ 讃 容
・宍 禾
・ 神前
・ 託 賀
・ 賀 毛・ 美 囊 の各 郡 につ い て は記 述 が 存在 す る もの の
、 赤穂 郡 に つ い て は記 事 がな く
、 その 存 否 につ い て も議 論 が ある
。 と こ ろ で、 こ こ で取 り 上げ る 岡 平保 の
『 播磨 風 土 記考
』 は
、そ の 奥 書 か ら
、安 政 六年
(
一 八 五九
) に 著 され た も ので あ る こと が 知 られ る
。 こ れ は、 谷 森 善臣 が
『播 磨 国 風土 記
』 を書 写 し たわ ず か 七年 後 の こ と で
、現 在 知 られ て い る『 播 磨 国風 土 記
』の 注 釈 のな か で はも っ と も 早 く著 さ れた も の であ る
。 た だ し
、敷 田 年 治の
『 標注 播 磨 風土 記
』 のよ う に 出版 さ れ るこ と
は な か っ た。
『 播 磨風 土 記 考』 は 原 本も 現 存 せず
、写 本に つ い て も『 国 書 総 目 録
』に よ れ ば、 わ ずか に 無 窮会 専 門図 書 館 と東 京 大 学 史料 編 纂 所 に 写 本が 残 る のみ で ある
。 し かも
、 無窮 会 本 につ い て は 所在 不 明 だ し(
無 窮 会 専 門 図 書 館 の 回 答 に よ る
)、 現 状 で は東 京 大 学資 料 編 纂所 所 蔵 本 し か 現存 し ない
。 ち な み に、 無 窮 会 本に つ い ては
、『 国 書総 目 録
』が 著者 と し て 岡田 光みつ
僴かど
と 岡 平 保の 二 人 の名 前 を あげ て い る点 が 注目 さ れ る。 岡 田 光 僴は
、 播磨 国 佐用 郡 出 身の 歌 人 で、 元 禄 九年
(
一六 九 六
) に 生 ま れ
、安 永 三年
(
一 七 七 四
)九 月 二 十三 日 に 七十 九 歳 で歿 し て いる
。 享 保 五 年
(
一 七 二
〇
) に 儒 学 者の 伊 藤 東 涯
(
寛 文 十 年
〈 一 六 七
〇
〉 生
、 元文 元 年
〈 一 七 三 六
〉 歿
)の もと に 入 門 し
、同 じ 頃
、歌 人 の烏 丸 光 栄(
元 禄 二 年
〈 一 六 八 九
〉 生
、 延 享 五 年
〈 一 七 四 八
〉 薨
)の とこ ろ に も 入門 し て い る。 烏 丸 光 栄 亡 きあ と は
、有 栖 川 職仁 親 王の も と で和 歌 を 学ん だ と いう が
、 和 歌 だ け でな く 郷 土史 家 とし て の 一面 が あり
、 お もな 著 作 に は『 播 磨 古 跡 考
』(
宝 暦 五 年
)が あ る
。 と こ ろ で、 無 窮 会本 が 著 者を 岡 田 光僴 と 岡平 保 の 連名 に し て いる 点 だ が
、こ れ は 不 審 で あ る
。 平 保 は 文 化 三 年
(
一 八〇 九
) に 生 ま れ
、 明 治 十 五 年(
一 八 八 二
)に 歿 し てい る
。二 人 の生 存 期 間に は お よそ 百 年 の 隔 た りが あ る ので あ って
、 共 同作 業 で『 播 磨 風土 記 考
』 を執 筆 し た こ と は考 え が たい
。 そも そ も
、岡 田 光僴 の 歿 年は
、 柳 原 紀光 が
三 條 西 家 本を 謄 写し た 寛 政八 年(
一 七 九六
)の 二年 も 前 のこ と で あり
、 岡 田 光 僴 が『 播 磨 国風 土 記
』を 披 見 した こ と さえ 疑 わ しい の で ある
。 無 窮 会 本 が所 在 不 明と な って い る 今日 で は
、こ の あ たり の 事 情を 解 明 す る こ とは 不 可 能だ が
、ひ と ま ず『 国 書 総目 録
』 の記 載 に は疑 問 を 呈 し て おき た い。 一
、岡 平保 につ いて こ
こで
、 岡 平 保 に つ い て
『 揖 保 郡 地 誌
』
4
を 参 考 に しつ つ簡 単 に 紹 介 し て おく
。 岡 平 保 は
、文 化三 年(
一八
〇 九
)、 播 磨 国 室 津(
兵 庫 県 揖 保郡 御 津 町
)に 生 ま れ た
。岡 家 は 代々
、 加茂 神 社 の祠 官 を 務め る 家 柄で
、 平 保は
、 明 治 二 年(
一 八 六 九
)六 月
、 元飾 東 郡 上野 田 村 鎮座 妙 見 神社 ほ か 二社 の 社 司 に 任じ ら れ
、加 茂 神 社と あ わ せて 三 社 の取 り 調 べを 任 さ れて い る
。 ま た、 同 年 十二 月 に は、 上 月 為彦 と と もに 祭 祀 幹事 を 申 しつ け ら れ た こと か ら
、姫 路 藩 内の 神 官 たち に 祭 祀典 礼 を 教授 し て い る。 さ ら に
、 明治 三 年(
一 八 七
〇
)一 月 に は、 藩 内 の神 道 講 義総 督 に 任じ ら れ
、 そ の後
、 前 出の 三 社 に加 え て
、新 た に 元飾 東 郡 中阿 保 村 鎮座 の 稲 荷 神 社ほ か 四 社の 社 司と 神 社 取り 調 べ に任 じ ら れて い る
。 明治 七 年
(
一 八七 四
) に は権 少 講 義 とな っ たが
、 同 十三 年(
一 八 八
)〇
に は
職 を 辞 し
、同 十 五年
(
一 八 八 二
)に 七 十 三 歳で 歿 し てい る
。 平 保 は
、幼 い 頃 から 耳 に 疾患 を 抱 えて お り、 聴 力 を失 っ て い たに も か か わ らず
、 熱 心に 学 問に 取 り 組ん だ とい う
。 はじ め
、 姫 路藩 士 の 小 屋 左 次右 衛 門 のも と で和 漢 の 学を 学 び、 の ち に本 居 内 遠 につ い て 国 学 を 学ん だ
。和 歌・ 和 文 に 造詣 が 深 かっ た ので
、彼 の も と には
、 近 隣 か ら たく さ んの 門 人 が訪 れ た とい わ れて い る
。 二
、東 京大 学史 料 編纂 所所 蔵
『播 磨風 土記 考』 さ
て
、こ こで 東京 大学 史 料 編 纂 所 所 蔵 の 岡 平 保
『 播 磨 風 土 記 考
』
(
請 求 番 号 二
〇 四 一
. 六 四
‐ 五 八
)に つ い て 詳 しく み て みた い
。 ま ず さ きに
、 書 誌的 デ ー タを あ げ てお く
。 同 書 は、 袋 綴 一 冊。 外 題 に題 箋 を もち い
、「 播磨 風 土記 考 全」 と 左 上 に 貼 附し
、右 下 に 請求 番 号 を記 し た ラベ ル を 貼附 す る
。縦 二六
・ 九 セ ン チ
、横 一 九
・〇 セ ンチ
。 本 文三 十 六丁
、 地 図一 丁 の 全 三十 七 丁
。 一 面 二十 字× 十行 を 基本 の 体 裁と す る が、 頭 注
・細 字 に よる 書 き 込 み も あり 一 定し な い
。表 紙 裏に 上 か ら順 に「 東 京大 学 図 書」
(
朱 印
、 縦 五
・ 八 セ ン チ
、 横 五
・八 セ ンチ
)「 史 料 編 纂 所 図書 之 印」
(
朱 印
、 縦 五
・八 セ ン チ
、横 五・ 九 セ ン チ
)「 文 科 大 学史 誌 編 纂掛
」(
黒 印
、縦 三・ 四 セ ンチ
、 横 三
・ 四 セ ン チ
) と いう 蔵 書 印 が ある
。 ま た、 奥 付に
、
右 風 土 記 考 播磨 国 揖 西 郡室 津 加 茂神 社 祠 官岡 平 満 蔵本 明 治 廿一 年 五 月 編修 長 重 野安 繹 採 訪明 年 十 一月 謄 写 了 と あ る こ とか ら
、同 書 は
、播 磨 国 揖西 郡 室津 の 加 茂神 社 の 祠 官で あ っ た 岡 平満 の 蔵書 を
、 明治 二 十 一年
(
一 八 八
)八
五 月
、重 野 安 繹が 加 茂 神 社 を訪 れ
、 翌年 十 一月 に 謄 写し お わ った も の であ る こ とが わ か る
。 本 書 を 謄 写し た 重野 安 繹 は
、明 治十 五 年(
一 八 八 二
) から 開 始 され た 漢 文 体 編年 修 史
『大 日 本編 年 史
』の 編 修 に編 修 長 とし て 知 られ る が
、 お そ らく 本 書 の謄 写 も、 そ の 事業 の 一 環と し て 行わ れ た もの で あ ろ う
。 ち な み に
、『 国 書 総 目 録
』 第六 巻(
岩 波 書 店
、 一九 六 九 年 四 月
)の
『 播 磨 国 風 土 記』 の 項に は
、
(
前 略
) 国会
( 明 治写
)( 一 冊)
・ 内 閣( 文 久 二写
)( 明 治 写
、二 部
)・ 静 嘉( 三 部
)・ 東 洋
岩
(崎
諸 国 風土 記
及
図田 帳 の 内
、二 部
)・ 宮 書( 嘉 永 五谷 森 善 臣写
、地 名・ 人名 目 録 を付 す
、三 冊
)( 明 治 写
)( 二 部)
・関 大・ 九 大・ 京 大・ 教大
( 二 部)
・国 学院
( 文久 二 写
)・ 早 大( 常 陸 風 土記 と 合
)・ 東大
・東 大
史料
( 兵 庫賀 茂 神 社 蔵 本 写
)・ 広島 大・ 愛媛
伊 予
・史
岩 手( 三 浦義 好 写
、常 陸 風土 記 と 合
)・ 大 阪 府
石崎
( 文 久 元 写
)・ 岩 瀬
(安 政 五 速 水 行道 写
)( 三部
)・ 金
沢 市
加越 能
(松 雲 公 採集 遺 編 類纂
四 三
)・ 川 越( 明 治写
)・ 北 野・ 金 刀 比 羅・ 神 宮( 文 久 元 写)
( 二 冊)
・鈴 鹿・ 多 和(
「 風 土記
播 磨
」国
)・ 茶 図
竹相
・ 天 理
(首 欠
、 平 安中 期 写 一軸
、 国 宝)
・ 丸山
・ 無 窮
神習
( 大 安 寺資 財 知 行と 合
)( 三 部
)・ 旧彰 考
(安 政 四 年写
)( 一 冊
)
(
後 略
) と あ っ て、
『播 磨 国 風土 記
』の 写 本 の 所在 が 記 され て い る。 これ に よ れ ば
、 東京 大 学 史料 編 纂所 に
「 兵庫 県 賀 茂神 社 蔵 本」 と さ れる 一 本 が 存 在 した こ とが 知 ら れる
。こ の 写 本は
、こ と によ る と
、『 播磨 風 土 記 考
』と と もに
、 重 野安 繹 が 明治 二 十 一年
(
一八 八
)八
に 加 茂神 社 で 採 訪
・ 書写 し た もの か も知 れ な いが
、 この 一 本 は現 在 所 在 不明 で あ る
。 周 知 の よう に
、 東京 大 学 史料 編 纂 所の 蔵 書に つ い ては
、 同 所 から
『 東 京 大 学史 料 編纂 所 図 書目 録
』が 刊 行 され て お り、 同書 第 二 部「 和 漢 書 写 本 編」 に は 史料 編 纂所 が 所 蔵す る 写本 や 古 記録 に つ い ての 書 誌 デ ー タ が掲 載 さ れて い るが
、 な ぜか こ の図 書 目 録に も
「 兵 庫賀 茂 神 社 蔵 本 写」 と さ れる
『 播磨 国 風 土記
』 の写 本 は 見当 た ら な い。 さ ら に
、 史 料編 纂 所 だけ で なく
、 東 京大 学 総合 図 書 館に も
、 こ れに 該 当 す る
『 播磨 国 風土 記
』 の写 本 は 存在 し ない
。 そ も そ も、
『国 書 総 目録
』は いか な る 目録 類 に よっ て
、こ の 写本 を 記 し た の かも は っ きり せ ず、 原 本 を確 認 しえ な い 状 況で は
、 これ が