• 検索結果がありません。

『 播 磨

ドキュメント内 古風土記受容の研究 (ページ 50-65)

風 土 記 考

』 に つ い て

は じめ に 東

京 大 学史 料 編纂 所 に は『 播 磨 風 土記 考

』と 題 す る 謄写 本 が ある

。 著 者 は

、 幕末 か ら 明治 に かけ て 播 磨国 揖 西 郡室 津 加 茂神 社 祠 官で あ っ た 岡 平 保(

)で ある

。本 書 は同 社 の 祠官 で あ っ た 岡 平 満(

)の 所 蔵本 を

、東 京 帝国 大 学 教授 の 重 野安 繹 が 謄 写 した も の であ る

。『 揖 保 郡 地誌

』 の 岡平 保 の 項に は

、「 風土 記 に つい て の 著 作 が あ る と さ れ る が

、 未 刊 であ った

」 と ある が

、 お そ ら く 本書 を 指す の で あろ う

。 そ も そ も、

『播 磨 国 風土 記

』は

、『 続 日 本紀

』和 銅六 年(

)五 月 甲 子 条 の、 五 月 甲 子

。制

。 畿 内 七 道諸 国 郡 郷 名 着

好 字

。 其郡 内 所

。 銀 銅 彩 色 草木 禽 獣魚 虫 等 物。 具録

色 目

。 及 土地 沃 塉。 山 川原 野 名 号 所 由。 又 古老 相 伝 旧聞 異 事

。載

于 史籍

宜 言

。 と あ る 官 命を 受 けて 編 纂 され た

、い わゆ る 風土 記(

)の 一つ で

、全 一巻

。和 銅 五 年(

)七 月 の 時 点で 播 磨 国 大 目 で あ っ た楽 浪

) 河 内 は

、 そ の 編 者 の 一 人 で は な い か と いわ れ て い る が

、 詳 細 は 不 明 で あ る

。『 播 磨 国 風 土 記』 で は

『 常 陸 国 風土 記

』と 同 様、 霊 亀 元年

)ご ろ ま で続 い た 郡里 制 に よ る 地 名表 記 を 採用 し てい る の で、 官 命が 出 て ほど な く 提 出さ れ た と 考 え られ る が、 こ れ も詳 し い こと は わ から な い

『 播 磨 国風 土 記

』は

、 現存 す る 五風 土 記の な か では も っ と も世 に 出 る の が 遅く

、伝 本 は 平安 末 期 の書 写 と され る 三 條西 家 本(

) のみ で

、 し か も披 見 は 困難 で あ った

。 は じ め て三 條 西 家本 の 存在 を 確 認し 書 写し た の は柳 原 紀 光 であ る

。 す な わ ち

、彼 の 書写 し た

『播 磨 国 風土 記

』(

の 奥 書に は

、 右 播 磨 風土 記

。 以或 家 古 巻令 写 之

。当 時 出雲 豊 後 之外 諸 国 風 土 記 逸

最 可 謂 奇 珍矣

。 寛政 八 年 六月 廿 六 日。

正 二 位

藤 紀 光 と あ り

、寛 政八 年

) の こと で あ っ たこ と が判 明 す る

。た だ

、 こ の 段階 で は流 布 す るに 至 ら なか っ たよ う で ある

『 播 磨 国風 土 記

』の 流 布に あ た って 力 があ っ た のは

、 谷 森 善臣 で あ る

。彼 は

、 嘉永 五 年

) 三 月二 十 九 日に

、 かね て よ りの 宿 願 で あ っ た三 條 西 家 本 の 書写 を 許 さ れ

)、 の ち に

、柳 原 本 に よ っ て 校 合を 加 え てい る

。こ う し て、 谷 森善 臣 の 尽力 に よ っ て『 播 磨 国 風 土 記』 は 次 第に 世 に知 ら れ

、多 く の人 々 に より 書 写 さ れ、 普 及 し て い る。

『 播 磨 国 風土 記』 は、 里 ごと に「 土 中上

」「 土 中 々」 な ど と 土 地の 肥 沃 の 度 合い に つ いて 詳 しく し る すの が 特 徴で

、 地 名の 起 源 につ い て は 詳 細 を極 め て おり

、 官命 で 要 求さ れ た 五つ の 項 目、 す な わち

① 畿 内 七 道の 国 名

・郡 名

・郷 名 に 好い 字 を 着け よ

②郡 内 に 産す る 鉱 物

・ 植 物・ 動 物 など で 有用 な も のの 品 目 を 筆録 せ よ

、③ 土 地 の肥 沃 状 態

④山 川 原 野の 名 の由 来

⑤古 老 相 伝の 旧 聞 異事

、 の うち

、 と く に

③ と④ に 忠実 で あ る。 た だ

、 惜し む ら くは

、 諸本 の 祖 本と な る 三條 西 家 本は

、 巻 首部 分 を 欠 い て いる

。『 釈 日 本 紀』 巻 第 八 が引 く 逸 文に よ って

、欠 落 部 分に 明 石 郡の 記 載 が 存 在 し た こ と が 知 ら れ る も のの

、 賀 古 郡 の冒 頭 部 分 や お そ らく は 巻 頭に あ った で あ ろう 総 記 の記 載 に つい て は まっ た く 不 明 で ある

。 ま た、 賀 古以 下

、 餝磨

・ 揖 保・ 讃 容

・宍 禾

・ 神前

・ 託 賀

・ 賀 毛・ 美 囊 の各 郡 につ い て は記 述 が 存在 す る もの の

、 赤穂 郡 に つ い て は記 事 がな く

、 その 存 否 につ い て も議 論 が ある

。 と こ ろ で、 こ こ で取 り 上げ る 岡 平保 の

『 播磨 風 土 記考

』 は

、そ の 奥 書 か ら

、安 政 六年

) に 著 され た も ので あ る こと が 知 られ る

。 こ れ は、 谷 森 善臣 が

『播 磨 国 風土 記

』 を書 写 し たわ ず か 七年 後 の こ と で

、現 在 知 られ て い る『 播 磨 国風 土 記

』の 注 釈 のな か で はも っ と も 早 く著 さ れた も の であ る

。 た だ し

、敷 田 年 治の

『 標注 播 磨 風土 記

』 のよ う に 出版 さ れ るこ と

は な か っ た。

『 播 磨風 土 記 考』 は 原 本も 現 存 せず

、写 本に つ い て も『 国 書 総 目 録

』に よ れ ば、 わ ずか に 無 窮会 専 門図 書 館 と東 京 大 学 史料 編 纂 所 に 写 本が 残 る のみ で ある

。 し かも

、 無窮 会 本 につ い て は 所在 不 明 だ し(

)、 現 状 で は東 京 大 学資 料 編 纂所 所 蔵 本 し か 現存 し ない

。 ち な み に、 無 窮 会 本に つ い ては

、『 国 書総 目 録

』が 著者 と し て 岡田 光

と 岡 平 保の 二 人 の名 前 を あげ て い る点 が 注目 さ れ る。 岡 田 光 僴は

、 播磨 国 佐用 郡 出 身の 歌 人 で、 元 禄 九年

) に 生 ま れ

、安 永 三年

)九 月 二 十三 日 に 七十 九 歳 で歿 し て いる

。 享 保 五 年

) に 儒 学 者の 伊 藤 東 涯

歿

)の もと に 入 門 し

、同 じ 頃

、歌 人 の烏 丸 光 栄(

)の とこ ろ に も 入門 し て い る。 烏 丸 光 栄 亡 きあ と は

、有 栖 川 職仁 親 王の も と で和 歌 を 学ん だ と いう が

、 和 歌 だ け でな く 郷 土史 家 とし て の 一面 が あり

、 お もな 著 作 に は『 播 磨 古 跡 考

』(

)が あ る

。 と こ ろ で、 無 窮 会本 が 著 者を 岡 田 光僴 と 岡平 保 の 連名 に し て いる 点 だ が

、こ れ は 不 審 で あ る

。 平 保 は 文 化 三 年

) に 生 ま れ

、 明 治 十 五 年(

)に 歿 し てい る

。二 人 の生 存 期 間に は お よそ 百 年 の 隔 た りが あ る ので あ って

、 共 同作 業 で『 播 磨 風土 記 考

』 を執 筆 し た こ と は考 え が たい

。 そも そ も

、岡 田 光僴 の 歿 年は

、 柳 原 紀光 が

三 條 西 家 本を 謄 写し た 寛 政八 年(

)の 二年 も 前 のこ と で あり

、 岡 田 光 僴 が『 播 磨 国風 土 記

』を 披 見 した こ と さえ 疑 わ しい の で ある

。 無 窮 会 本 が所 在 不 明と な って い る 今日 で は

、こ の あ たり の 事 情を 解 明 す る こ とは 不 可 能だ が

、ひ と ま ず『 国 書 総目 録

』 の記 載 に は疑 問 を 呈 し て おき た い。 一

、岡 平保 につ いて こ

こで

、 岡 平 保 に つ い て

『 揖 保 郡 地 誌

を 参 考 に しつ つ簡 単 に 紹 介 し て おく

。 岡 平 保 は

、文 化三 年(

)、 播 磨 国 室 津(

)に 生 ま れ た

。岡 家 は 代々

、 加茂 神 社 の祠 官 を 務め る 家 柄で

、 平 保は

、 明 治 二 年(

)六 月

、 元飾 東 郡 上野 田 村 鎮座 妙 見 神社 ほ か 二社 の 社 司 に 任じ ら れ

、加 茂 神 社と あ わ せて 三 社 の取 り 調 べを 任 さ れて い る

。 ま た、 同 年 十二 月 に は、 上 月 為彦 と と もに 祭 祀 幹事 を 申 しつ け ら れ た こと か ら

、姫 路 藩 内の 神 官 たち に 祭 祀典 礼 を 教授 し て い る。 さ ら に

、 明治 三 年(

)一 月 に は、 藩 内 の神 道 講 義総 督 に 任じ ら れ

、 そ の後

、 前 出の 三 社 に加 え て

、新 た に 元飾 東 郡 中阿 保 村 鎮座 の 稲 荷 神 社ほ か 四 社の 社 司と 神 社 取り 調 べ に任 じ ら れて い る

。 明治 七 年

) に は権 少 講 義 とな っ たが

、 同 十三 年(

に は

職 を 辞 し

、同 十 五年

)に 七 十 三 歳で 歿 し てい る

。 平 保 は

、幼 い 頃 から 耳 に 疾患 を 抱 えて お り、 聴 力 を失 っ て い たに も か か わ らず

、 熱 心に 学 問に 取 り 組ん だ とい う

。 はじ め

、 姫 路藩 士 の 小 屋 左 次右 衛 門 のも と で和 漢 の 学を 学 び、 の ち に本 居 内 遠 につ い て 国 学 を 学ん だ

。和 歌・ 和 文 に 造詣 が 深 かっ た ので

、彼 の も と には

、 近 隣 か ら たく さ んの 門 人 が訪 れ た とい わ れて い る

。 二

、東 京大 学史 料 編纂 所所 蔵

『播 磨風 土記 考』 さ

、こ こで 東京 大学 史 料 編 纂 所 所 蔵 の 岡 平 保

『 播 磨 風 土 記 考

)に つ い て 詳 しく み て みた い

。 ま ず さ きに

、 書 誌的 デ ー タを あ げ てお く

。 同 書 は、 袋 綴 一 冊。 外 題 に題 箋 を もち い

、「 播磨 風 土記 考 全」 と 左 上 に 貼 附し

、右 下 に 請求 番 号 を記 し た ラベ ル を 貼附 す る

。縦 二六

・ 九 セ ン チ

、横 一 九

・〇 セ ンチ

。 本 文三 十 六丁

、 地 図一 丁 の 全 三十 七 丁

。 一 面 二十 字× 十行 を 基本 の 体 裁と す る が、 頭 注

・細 字 に よる 書 き 込 み も あり 一 定し な い

。表 紙 裏に 上 か ら順 に「 東 京大 学 図 書」

)「 史 料 編 纂 所 図書 之 印」

)「 文 科 大 学史 誌 編 纂掛

」(

) と いう 蔵 書 印 が ある

。 ま た、 奥 付に

右 風 土 記 考 播磨 国 揖 西 郡室 津 加 茂神 社 祠 官岡 平 満 蔵本 明 治 廿一 年 五 月 編修 長 重 野安 繹 採 訪明 年 十 一月 謄 写 了 と あ る こ とか ら

、同 書 は

、播 磨 国 揖西 郡 室津 の 加 茂神 社 の 祠 官で あ っ た 岡 平満 の 蔵書 を

、 明治 二 十 一年

五 月

、重 野 安 繹が 加 茂 神 社 を訪 れ

、 翌年 十 一月 に 謄 写し お わ った も の であ る こ とが わ か る

。 本 書 を 謄 写し た 重野 安 繹 は

、明 治十 五 年(

) から 開 始 され た 漢 文 体 編年 修 史

『大 日 本編 年 史

』の 編 修 に編 修 長 とし て 知 られ る が

、 お そ らく 本 書 の謄 写 も、 そ の 事業 の 一 環と し て 行わ れ た もの で あ ろ う

。 ち な み に

、『 国 書 総 目 録

』 第六 巻(

)の

『 播 磨 国 風 土 記』 の 項に は

) 国会

( 明 治写

)( 一 冊)

・ 内 閣( 文 久 二写

)( 明 治 写

、二 部

)・ 静 嘉( 三 部

)・ 東 洋

諸 国 風土 記

図田 帳 の 内

、二 部

)・ 宮 書( 嘉 永 五谷 森 善 臣写

、地 名・ 人名 目 録 を付 す

、三 冊

)( 明 治 写

)( 二 部)

・関 大・ 九 大・ 京 大・ 教大

( 二 部)

・国 学院

( 文久 二 写

)・ 早 大( 常 陸 風 土記 と 合

)・ 東大

・東 大

( 兵 庫賀 茂 神 社 蔵 本 写

)・ 広島 大・ 愛媛

岩 手( 三 浦義 好 写

、常 陸 風土 記 と 合

)・ 大 阪 府

( 文 久 元 写

)・ 岩 瀬

(安 政 五 速 水 行道 写

)( 三部

)・ 金

沢 市

(松 雲 公 採集 遺 編 類纂

)・ 川 越( 明 治写

)・ 北 野・ 金 刀 比 羅・ 神 宮( 文 久 元 写)

( 二 冊)

・鈴 鹿・ 多 和(

「 風 土記

)・ 茶 図

・ 天 理

(首 欠

、 平 安中 期 写 一軸

、 国 宝)

・ 丸山

・ 無 窮

( 大 安 寺資 財 知 行と 合

)( 三 部

)・ 旧彰 考

(安 政 四 年写

)( 一 冊

) と あ っ て、

『播 磨 国 風土 記

』の 写 本 の 所在 が 記 され て い る。 これ に よ れ ば

、 東京 大 学 史料 編 纂所 に

「 兵庫 県 賀 茂神 社 蔵 本」 と さ れる 一 本 が 存 在 した こ とが 知 ら れる

。こ の 写 本は

、こ と によ る と

、『 播磨 風 土 記 考

』と と もに

、 重 野安 繹 が 明治 二 十 一年

に 加 茂神 社 で 採 訪

・ 書写 し た もの か も知 れ な いが

、 この 一 本 は現 在 所 在 不明 で あ る

。 周 知 の よう に

、 東京 大 学 史料 編 纂 所の 蔵 書に つ い ては

、 同 所 から

『 東 京 大 学史 料 編纂 所 図 書目 録

』が 刊 行 され て お り、 同書 第 二 部「 和 漢 書 写 本 編」 に は 史料 編 纂所 が 所 蔵す る 写本 や 古 記録 に つ い ての 書 誌 デ ー タ が掲 載 さ れて い るが

、 な ぜか こ の図 書 目 録に も

「 兵 庫賀 茂 神 社 蔵 本 写」 と さ れる

『 播磨 国 風 土記

』 の写 本 は 見当 た ら な い。 さ ら に

、 史 料編 纂 所 だけ で なく

、 東 京大 学 総合 図 書 館に も

、 こ れに 該 当 す る

『 播磨 国 風土 記

』 の写 本 は 存在 し ない

。 そ も そ も、

『国 書 総 目録

』は いか な る 目録 類 に よっ て

、こ の 写本 を 記 し た の かも は っ きり せ ず、 原 本 を確 認 しえ な い 状 況で は

、 これ が

ドキュメント内 古風土記受容の研究 (ページ 50-65)

関連したドキュメント