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― 坂

ドキュメント内 古風土記受容の研究 (ページ 123-132)

本 太 郎 氏 の 所 説 を 中 心 に ―

は じめ に 推

古 天 皇朝 に 隋 に派 遣 さ れた

、い わ ゆる 遣 隋 使に つ いて は

、『 隋 書

』 本 紀 と 列 伝(

) に 記 録 が あ る と と も に

、『 日 本 書紀

』巻 二 十一 の 推 古天 皇 紀 にも 記載 さ れ てお り

、 こ れ ら の記 録 に よっ て

、 遣使 の 回 数・ 年 次 や派 遣の 目 的

、 隋 と の 交 渉 とい っ た もの が か なり 詳 し く知 ら れ る。 た だ

、『 隋書

』と

『日 本 書 紀』 で は 遣 隋使 に 関 する 記録 に 齟 齬が あ り

、 派 遣 の総 回 数 と年 次 に つい て は

、い ま だ 定説 を みる に 至 っ て い な い

。と く に

、 こ こで 取 り 上げ る 開 皇 二 十 年(

)の 遣 隋 使 に つ い ては

、 倭 国伝 に 記 録を 留 め てい る も のの

、そ れ に 対応 す る

『 日 本 書紀

』 の 記録 が 存 在し な い こと か ら

、そ の解 釈 を めぐ っ て は さ ま ざま な 学 説が 提 起 され て い る。 小 論 では

、こ の 開 皇二 十 年 の遣 隋使 に つ い て

、 お も に 坂 本 太 郎 氏 の 提 説

を 再 吟 味 し た い

。 坂 本 氏 は、 は じ め、 こ の 遣使 を 隋 の国 情 偵 察の ため の 非 公式 な 使 いと して い た が

、 の ち に 自 説 を あ ら た め

、 こ の と き の 遣 使 は

「 大 和 朝 廷の 派 遣 した 使 節 では な く

、ど こ か 九州

・山 陽 あ た り

の 豪 族 が

、私 に 派 遣し た 使 にす ぎ な い」 と さ れ たが

、こ れ は

、本 居 宣 長

『 馭戎 概 言

』の 指 摘 を敷 延 し たも の で ある

。 坂 本 説 につ い て は、 す で に 篠川 賢 氏 など も 批 判の 目を 向 け てお ら れ た が

、 そ の 後

、 推 古 天 皇 朝 の 外 交 に 関 す る 研 究 は

、 聖 徳 太 子 の 実 在 性を め ぐ る争 論 と 相俟 っ て

、い ち じ る しく 進捗 し て いる

。 そ う し た 研究 を 参 照 しつ つ

、 ここ で あ らた め て この 問題 に つ いて 取 り 上 げ るこ と は

、ま っ た く不 毛 の 議論 で は ある まい

。 一

、開 皇二 十年 の遣 隋使 の 有 無 周

知 の こと で は ある が

、『 隋 書』 倭 国 伝 には

、つ ぎ のよ う な 記載 が あ る

)。 開 皇 二 十年

、 倭 王姓 阿 毎

、字 多 利 思比 孤

、 號阿 輩 雞彌

、 遣 使 詣 闕

。 上令 所 司 訪其 風 俗

。使 者 言 倭王 以 天 為兄

、 以日 為 弟

、 天 未 明 時出 聽 政

、跏 趺 坐

、日 出 便 停理 務

、 云委 我 弟。 高 祖 曰

「 此 太 無 義 理

。」 於是 訓 令 改 之

。(

大業 三年

、 其 王 多 利 思 比 孤 遣使 朝 貢

。使 者 曰

「聞 海 西 菩薩 天 子 重興 佛 法、 故 遣 朝 拜

、兼 沙 門數 十 人 來學 佛 法

。」 其 國書 曰「 日 出處 天 子致 書 日 沒 處 天 子 無恙

」 云 云。 帝 覽 之不 悅

、 謂鴻 臚 卿 曰「 蠻 夷書 有 無 禮 者

、 勿 復 以 聞

。」 明年

、 上 遣 文 林 郎 裴 清 使 於 倭 國

。(

) 倭

王 遣 小 德 阿輩 臺

、 從數 百 人

、設 儀 仗

、鳴 鼓 角 來迎

。後 十 日

、 又 遣 大 禮 哥多 毗

、從 二百 餘 騎 郊勞

。既 至 彼都

、其 王與 清 相 見

、 大 悅

、 曰

「我 聞 海 西有 大 隋

、禮 義 之 國、 故 遣 朝貢

。我 夷 人

、 僻 在 海 隅

、不 聞 禮 義、 是 以 稽留 境 内

、不 即 相 見。 今故 清 道 飾 館

、 以 待 大使

、 冀 聞大 國 惟 新之 化

。」 清 答 曰

「皇 帝 德並 二 儀

、 澤 流 四 海、 以 王 慕化

、故 遣 行人 來 此 宣諭

。」 既而 引 清 就館

。其 後 清 遣 人 謂其 王 曰「 朝 命既 達

、請 即 戒 塗。

」於 是設 宴享 以 遣 清

、 復 令 使 者 隨清 來 貢 方物

。 此 後遂 絶

。 こ れ に よ れば

、隋 の 開 皇二 十 年、 姓 を「 阿 毎

」、 字 を「 多 利思 比 孤

」 と 名 乗 る倭 王 が はじ め て 遣使 を お こな っ た こと が わか る

。 こ の 遣 使 の 再 考が 小 論 のね ら い であ る が

、そ れ に 先立 っ て、 あ る い は す で に 解 決済 み の こと か も 知れ な い が、 倭 国 伝に し るさ れ る

、 こ の と き の 遣隋 使 が 事実 か ど うか を た しか め て おく 必要 が あ ろ う。 開 皇 二 十 年 の遣 使 に 関す る 疑 いは す で に藤 麿 王 の論 文に み え る が

、 そ の 疑問 の 根 拠は

① 倭 国 伝 に よれ ば

、 冠位 十 二 階が 開 皇 二十 年 時 に伝 え ら れ て い る

② 大 業 三 年の 記 事 が「 詳 細 に 且つ 始 め ての 使 聘 であ るか の よ う

」 に 記 さ れ てい る な ど の 点 につ き る

た し か に

、『 日 本 書 紀』 推古 天 皇 紀に は

、倭 国 伝が 伝え る 開 皇 二 十 年 の 遣 隋使 の こ とは み え ない の で

、 疑い は あ る程 度や む を えな い と こ ろ があ る

。 こ の点 に つ いて は

、 じつ は 坂 本氏 も問 題 に され て い る の で、 次 節 であ ら た めて ふ れ る機 会 が ある が、 結 論 の みを い え ば

、『 日本 書 紀

』に み え ない こ と が

、『 隋 書

』の 記事 を 疑 う理 由 に は な らな い と 思う

。 と こ ろ で、 藤 麿 王が あ げ た二 点 の うち

② につ い て、 坂 元 義 種 氏 が い わ れた よ う に、 具 体 的な 指 摘 がな い と 検討 で きな い の で

問 題 と な る のは

① で ある が

、 これ は

、 倭国 伝 を ふく む『 隋 書

』東 夷 伝 各 条 の記 述 の スタ イ ル を分 析 す れば

、解 決 の糸 口が 得 ら れる

。 ま ず

、 倭 国伝 に 記 載さ れ る 内容 を 項 目ご と に 示せ ば、

① 倭 国 の 位 置

② 邪馬 台 が 魏に 遣 使

、③

『 魏 志』 に よ る 邪馬 台の 位 置

、④ 後 漢 時 代 の倭 奴 国 の朝 貢

⑤卑 弥 呼

、⑥ 開 皇 二十 年の 遣 使

⑦冠 位 十 二 階、

⑧ 国 県制

、⑨ 服 装・ 装 飾

、⑩ 刑 罰

、⑪ 楽

、⑫ 年 中 行 事

・ 風 土

⑬ 風俗

⑭ 葬送 儀 礼

、⑮ 新 羅

・百 済 と の関 係、

⑯ 大 業 三年

)の 遣 使

、⑰ 明 年(

) の 裴 世清 の 来 日、

⑱ 倭 国ま で の 行程

、 と なる

。 こ う し た記 述 の スタ イ ル は、 じ つ は倭 国 伝 だけ のも の で な く、 東 夷 伝 に は 同 様 の 構 成 を と る も の が い く つ か あ る

。 な か で も 共 通 点 が 多 い のは

、 高 麗伝

・ 百 済伝

・ 新 羅伝 の 三 伝で ある

。 た とえ

、 高 麗 伝 は、

① 高 麗の 先 祖 の出 自

・ 高麗 の 成 立、

② 北魏

・ 北 周 へ の 遣 使

③ 平原 王

) に よる 隋 へ の 遣 使

④ 風 土

)、

⑤ 位 階制 度

・ 官職

⑥ 服 装

・ 行 事

⑦税 制

・ 刑罰

⑧ 楽、

⑨ 風 俗・ 為 人

、⑩ 婚葬 祭

⑪ 開 皇 初 の 遣 使、

⑫大 業七 年

) の 遣 使

⑬ 大 業 九 年

) の 遣 使

⑭大 業 十 年(

) の 遣使

、 の 項目 か ら なる

。 同 様 に

、 百 済伝 は

①百 済 の 先祖 の 出 自・ 百 済 の成 立・ 国 号 の 由 来

、② 開 皇 年間 の 遣 使、

③ 風 土

、④ 位階 制 度、

⑤ 行政

、⑥ 風 俗

・ 行 事

⑦ 開 皇 十八 年

) の 遣 使

⑧百 済 の 王 位 継 承 の次 第

⑨ 大 業 三 年(

) の 遣 使

⑩ 大 業 七 年

) の 遣 使

⑪ 大 業 十 年(

の 遣 使、

⑫ 百 済の 属 国 の諸 項 目 を記 載 し、 新 羅 伝 に は

① 新 羅の 位 置

、② 新 羅 王の 出 自

・新 羅 の 成立

、③ 開 皇 十四 年

)の 遣 使

、④ 位 階制 度

、⑤ 行 政区 画

・ 軍

・風 俗

・ 刑 政

・ 衣 服

⑥ 年 中行 事

⑦新 羅 人 の特 徴

・ 婚葬 祭

⑧国 土 の特 徴

・ 産 物

・ 隋 へ の朝 貢

、 の順 で 記 載が あ る

。 増 村 宏 氏 は

、こ れ が 東夷 伝 す べて に わ たる 叙 述 のス タ イ ル で あ る か のよ うに 説 か れ る が

、 かな ら ず し も そ う と は い え な い

。 た と え ば

、靺 鞨伝 で は

、① 靺鞨 の 位 置、

②部 族

、③ 地 理

④ 風 俗

・ 為 人

⑤ 開 皇初 の 遣 使、

⑥ 靺 鞨使 者 の 無礼

⑦ 近隣 国契 丹 と の関 係

⑧ 煬 帝の 初 め にお け る 隋・ 高 麗 戦争

⑨ 大業 十 三年

の 煬 帝 の 行 幸へ の 同 行、 と い った 項 目 につ い て 記載 があ る が

、高 麗 伝 な ど とは い さ さか 出 入 りが あ る

。 ま た

、流 求伝 で は、

①流 求 の 位置

、② 流 求 王の 名・ 居 所

、③ 土 地 の 特 徴、

④ 統 治形 態

、⑤ 服 装・ 装 飾・ 武 器

、⑥ 為 人、

⑦ 税・ 刑

⑧ 文 字 の 有無

⑨ 顔の 特 徴

・身 分 制 の有 無

・ 風俗

、⑩ 婚 葬 祭

、⑪ 国 土 の 特 徴・ 気 候

、⑫ 信仰

、⑬ 大 業元 年(

)の 遣 使

、⑭ 大業 三 年

) に お け る 朱 寛 の 流 求 派 遣

⑮ 大 業 四 年

) 再 度 の 朱 寛 派 遣、 と い った 体 裁 であ っ て

、さ き の 高麗

・百 済

・ 新羅 と く ら べ ると 形 が 崩れ て い る。 こ れ ら は、 隋 が 把握 して い た 情報 量 の ち が いに も よ るの で あ ろう が

、 いず れ に して も

、東 夷 伝 の各 条 が こ と ごと く 倭 国伝 解 釈 の参 考 に なる も の では ない

。 し か し

、そ れ で も、 高 麗 伝・ 百 済 伝・ 新 羅 伝の 各 条が 比 較 的 倭 国 伝 に 近 い叙 述 の 体裁 を 採 用し て い るこ と は

、 たし かで あ る

。つ ま り

、 こ れら 各 条 では

、 共 通 して 文 帝 の時 代 の 開皇 年間 の 初 回の 遣 使 の 記 事の あ と

、隋 が 得 たそ の 国 につ い て の知 識が 記 載 さ れ、 そ れ に つ づい て 煬 帝の 時 代

、す な わ ち大 業 年 間の 遣使 を し る す体 裁 を と っ て いる と い う特 徴 が みら れ る

。そ こ か ら判 断す る と

、開 皇 二 十 年 の遣 使 に つづ け て 記載 さ れ る冠 位 十 二階 も、 か な ら ずし も こ の と きの 遣 隋 使と の か かわ り で とら え る 必要 はな い の で あ る。 そ も そ も、 東 夷 伝の 各 条 では

、 開 皇年 間 の 国交 につ い て は 敏感

、 か な ら ずと い っ てよ い ほ ど

む ろん

、 実 際に 国 交の あ る 場 合 に 限 る で あろ う が

記 載 があ る

。 これ は

、 やは り

、隋 代 に な っ て は じ め てひ ら け た国 交 を 重視 し て のこ と で あろ う。 だ と すれ ば

、 倭 国 伝 がし る す 開皇 二 十 年の 遣 使 もこ と さ ら疑 問視 す る 必要 は な い の であ っ て

、こ れ を 強 いて 疑 う 理由 は 認 めら れ な い。 も し

、 開 皇 二 十 年 の倭 国 に よる 遣 使 を疑 う の であ れ ば

、東 夷伝 の 他 の記 事 に も 疑 い を向 け ね ばな ら な いこ と に なる が

、 それ は 現実 的 で は あ る ま い

。 か つ て 大 庭 脩氏 は

、 魏志 倭 人 伝に み え る景 初 三 年の 魏皇 帝 の 詔 文 に ふ れ

、「

「魏 書

」 が魏 の 国 の歴 史 を 書い た も ので ある 以 上

、魏 と 倭 と の 交 渉を し る した 後 部 の二 割 が 倭人 伝 の 眼目 であ り

、 その な か ば に 及 ぶ魏 の 皇 帝の 詔 は

「魏 志 倭 人伝

」 の 中の 一番 大 切 な部 分 で あ る と考 え な けれ ば な らな い

」 こと を 指 摘さ れ た

『 隋 書

』 の 場 合 に も 同じ こ と がい え る ので あ っ て、 列 伝 で周 辺 諸国 の こ と を 記 載 す る のは

、 こ れら の 国 々が い つ

、い か に して 中 国王 朝 と 関 係 を も っ てい た か(

)を 明確 に し て おく 必 要が あ っ た か ら で あ る

。そ れ ゆ え、 隋 の 場合 に も

、倭 と は じめ て 国交 が 拓 け た 際 の 遣 使 につ い て

『隋 書

』 が虚 偽 の 記載 を し てい る とは 考 え が た い の で ある

、坂 本説 の根 拠と その 問 題 点 さ

、 以上 の 確 認を 踏 ま えた う え で、 つ ぎ に坂 本氏 の 所 説 を取 り 上 げ た い が、 氏 は

、開 皇 二 十年 の 遣 使を 疑 う とい う自 説 の 根拠 と し て

、 おも に 以 下の 三 点 をあ げ て おら れ る

( 1

)『 日 本 書紀

』に 触 れて い な い。 推古 天 皇十 五・ 十 六 年

、二 十 二 年 の遣 使 の 記録 は

『 隋書

』 の 合う と こ ろは 多 いが

、 開 皇 二 十 年

) の 場 合 だ け 記 録 が な か っ た とい う こ と は 不 自 然で あ る

。こ れ は

、こ の 遣 使が 西 辺 豪族 の しわ ざ で

、 朝 廷 は 全く 関 知 しな か っ たか ら で ある

( 2

) 開 皇 二 十 年

) は

、 新 羅 出 兵 が 開 始 さ れ た 年 だ が

、 もし

、 そ の出 兵 に 対し 隋 の 諒解 を 得 たり

、 何ら か の 権 威 を 負 うこ と を 求め る の であ れ ば 一、 二 年 前に 行 うこ と が 効 果 的 で あり

、 同 年で は 効 果が 少 な い。 新 羅 出兵 だ けで 大 事 業 で あ り

、そ う い う大 事 業 を行 う 年 を選 ん で

、同 じ 外国 関 係 の そ れ 以 上の 大 事 業を 開 始 する と い うこ と 自 体が 不 自然 で あ る。

( 3

)「 姓は ア メ

、字 は タ リ シヒ コ

、号 は オ ホキ ミ

」と い う の は

、 使 者 が のべ た 天 皇の 称 号 を、 先 方 が聞 き か じっ て 文字 化 し た も の で あろ う

。 当時 は 推 古天 皇 だ から

「 タ リシ ヒ コ」 で は お か し く

、天 皇 に 通有 と 考 えら れ て いた 尊 号 をの べ たも の で あ

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