本 太 郎 氏 の 所 説 を 中 心 に ―
は じめ に 推
古 天 皇朝 に 隋 に派 遣 さ れた
、い わ ゆる 遣 隋 使に つ いて は
、『 隋 書
』 本 紀 と 列 伝(
東 夷 伝
、 倭 国 条
、以 下
、「 倭 国 伝
」 と 称 す る
) に 記 録 が あ る と と も に
、『 日 本 書紀
』巻 二 十一 の 推 古天 皇 紀 にも 記載 さ れ てお り
、 こ れ ら の記 録 に よっ て
、 遣使 の 回 数・ 年 次 や派 遣の 目 的
、 隋 と の 交 渉 とい っ た もの が か なり 詳 し く知 ら れ る。 た だ
、『 隋書
』と
『日 本 書 紀』 で は 遣 隋使 に 関 する 記録 に 齟 齬が あ り
、 派 遣 の総 回 数 と年 次 に つい て は
、い ま だ 定説 を みる に 至 っ て い な い
1
。と く に
、 こ こで 取 り 上げ る 開 皇 二 十 年(
六
〇
〇
)の 遣 隋 使 に つ い ては
、 倭 国伝 に 記 録を 留 め てい る も のの
、そ れ に 対応 す る
『 日 本 書紀
』 の 記録 が 存 在し な い こと か ら
、そ の解 釈 を めぐ っ て は さ ま ざま な 学 説が 提 起 され て い る。 小 論 では
、こ の 開 皇二 十 年 の遣 隋使 に つ い て
、 お も に 坂 本 太 郎 氏 の 提 説
2
を 再 吟 味 し た い
。 坂 本 氏 は、 は じ め、 こ の 遣使 を 隋 の国 情 偵 察の ため の 非 公式 な 使 いと して い た が
3
、 の ち に 自 説 を あ ら た め
、 こ の と き の 遣 使 は
「 大 和 朝 廷の 派 遣 した 使 節 では な く
、ど こ か 九州
・山 陽 あ た り
の 豪 族 が
、私 に 派 遣し た 使 にす ぎ な い」 と さ れ たが
、こ れ は
、本 居 宣 長
『 馭戎 概 言
』の 指 摘 を敷 延 し たも の で ある
。 坂 本 説 につ い て は、 す で に 篠川 賢 氏 など も 批 判の 目を 向 け てお ら れ た が
4
、 そ の 後
、 推 古 天 皇 朝 の 外 交 に 関 す る 研 究 は
、 聖 徳 太 子 の 実 在 性を め ぐ る争 論 と 相俟 っ て
、い ち じ る しく 進捗 し て いる
。 そ う し た 研究 を 参 照 しつ つ
、 ここ で あ らた め て この 問題 に つ いて 取 り 上 げ るこ と は
、ま っ た く不 毛 の 議論 で は ある まい
。 一
、開 皇二 十年 の遣 隋使 の 有 無 周
知 の こと で は ある が
、『 隋 書』 倭 国 伝 には
、つ ぎ のよ う な 記載 が あ る
(『
北 史
』 も ほ ぼ 同 じ
)。 開 皇 二 十年
、 倭 王姓 阿 毎
、字 多 利 思比 孤
、 號阿 輩 雞彌
、 遣 使 詣 闕
。 上令 所 司 訪其 風 俗
。使 者 言 倭王 以 天 為兄
、 以日 為 弟
、 天 未 明 時出 聽 政
、跏 趺 坐
、日 出 便 停理 務
、 云委 我 弟。 高 祖 曰
「 此 太 無 義 理
。」 於是 訓 令 改 之
。(
中
)略
大業 三年
、 其 王 多 利 思 比 孤 遣使 朝 貢
。使 者 曰
「聞 海 西 菩薩 天 子 重興 佛 法、 故 遣 朝 拜
、兼 沙 門數 十 人 來學 佛 法
。」 其 國書 曰「 日 出處 天 子致 書 日 沒 處 天 子 無恙
」 云 云。 帝 覽 之不 悅
、 謂鴻 臚 卿 曰「 蠻 夷書 有 無 禮 者
、 勿 復 以 聞
。」 明年
、 上 遣 文 林 郎 裴 清 使 於 倭 國
。(
中 略
) 倭
王 遣 小 德 阿輩 臺
、 從數 百 人
、設 儀 仗
、鳴 鼓 角 來迎
。後 十 日
、 又 遣 大 禮 哥多 毗
、從 二百 餘 騎 郊勞
。既 至 彼都
、其 王與 清 相 見
、 大 悅
、 曰
「我 聞 海 西有 大 隋
、禮 義 之 國、 故 遣 朝貢
。我 夷 人
、 僻 在 海 隅
、不 聞 禮 義、 是 以 稽留 境 内
、不 即 相 見。 今故 清 道 飾 館
、 以 待 大使
、 冀 聞大 國 惟 新之 化
。」 清 答 曰
「皇 帝 德並 二 儀
、 澤 流 四 海、 以 王 慕化
、故 遣 行人 來 此 宣諭
。」 既而 引 清 就館
。其 後 清 遣 人 謂其 王 曰「 朝 命既 達
、請 即 戒 塗。
」於 是設 宴享 以 遣 清
、 復 令 使 者 隨清 來 貢 方物
。 此 後遂 絶
。 こ れ に よ れば
、隋 の 開 皇二 十 年、 姓 を「 阿 毎
」、 字 を「 多 利思 比 孤
」 と 名 乗 る倭 王 が はじ め て 遣使 を お こな っ た こと が わか る
。 こ の 遣 使 の 再 考が 小 論 のね ら い であ る が
、そ れ に 先立 っ て、 あ る い は す で に 解 決済 み の こと か も 知れ な い が、 倭 国 伝に し るさ れ る
、 こ の と き の 遣隋 使 が 事実 か ど うか を た しか め て おく 必要 が あ ろ う。 開 皇 二 十 年 の遣 使 に 関す る 疑 いは す で に藤 麿 王 の論 文に み え る が
5
、 そ の 疑問 の 根 拠は
、
① 倭 国 伝 に よれ ば
、 冠位 十 二 階が 開 皇 二十 年 時 に伝 え ら れ て い る
。
② 大 業 三 年の 記 事 が「 詳 細 に 且つ 始 め ての 使 聘 であ るか の よ う
」 に 記 さ れ てい る な ど の 点 につ き る
。
た し か に
、『 日 本 書 紀』 推古 天 皇 紀に は
、倭 国 伝が 伝え る 開 皇 二 十 年 の 遣 隋使 の こ とは み え ない の で
、 疑い は あ る程 度や む を えな い と こ ろ があ る
。 こ の点 に つ いて は
、 じつ は 坂 本氏 も問 題 に され て い る の で、 次 節 であ ら た めて ふ れ る機 会 が ある が、 結 論 の みを い え ば
、『 日本 書 紀
』に み え ない こ と が
、『 隋 書
』の 記事 を 疑 う理 由 に は な らな い と 思う
。 と こ ろ で、 藤 麿 王が あ げ た二 点 の うち
、
② につ い て、 坂 元 義 種 氏 が い わ れた よ う に、 具 体 的な 指 摘 がな い と 検討 で きな い の で
、6
問 題 と な る のは
① で ある が
、 これ は
、 倭国 伝 を ふく む『 隋 書
』東 夷 伝 各 条 の記 述 の スタ イ ル を分 析 す れば
、解 決 の糸 口が 得 ら れる
。 ま ず
、 倭 国伝 に 記 載さ れ る 内容 を 項 目ご と に 示せ ば、
① 倭 国 の 位 置
、
② 邪馬 台 が 魏に 遣 使
、③
『 魏 志』 に よ る 邪馬 台の 位 置
、④ 後 漢 時 代 の倭 奴 国 の朝 貢
、
⑤卑 弥 呼
、⑥ 開 皇 二十 年の 遣 使
、
⑦冠 位 十 二 階、
⑧ 国 県制
、⑨ 服 装・ 装 飾
、⑩ 刑 罰
、⑪ 楽
、⑫ 年 中 行 事
・ 風 土
、
⑬ 風俗
、
⑭ 葬送 儀 礼
、⑮ 新 羅
・百 済 と の関 係、
⑯ 大 業 三年
(
六
〇 七
、 推 古 天 皇 十 五 年
)の 遣 使
、⑰ 明 年(
大 業 四 年、 六
〇八
、 推 古 天 皇 十 六 年
) の 裴 世清 の 来 日、
⑱ 倭 国ま で の 行程
、 と なる
。 こ う し た記 述 の スタ イ ル は、 じ つ は倭 国 伝 だけ のも の で な く、 東 夷 伝 に は 同 様 の 構 成 を と る も の が い く つ か あ る
7
。 な か で も 共 通 点 が 多 い のは
、 高 麗伝
・ 百 済伝
・ 新 羅伝 の 三 伝で ある
。 た とえ
ば
、 高 麗 伝 は、
① 高 麗の 先 祖 の出 自
・ 高麗 の 成 立、
② 北魏
・ 北 周 へ の 遣 使
、
③ 平原 王
(
在 位 五 五 九
~ 五 九
〇
) に よる 隋 へ の 遣 使
、
④ 風 土
(
面 積
・ 都
・ 国 土 の 特 徴
・ 新 羅 と の 関 係 な ど
)、
⑤ 位 階制 度
・ 官職
、
⑥ 服 装
・ 行 事
、
⑦税 制
・ 刑罰
、
⑧ 楽、
⑨ 風 俗・ 為 人
、⑩ 婚葬 祭
、
⑪ 開 皇 初 の 遣 使、
⑫大 業七 年
(
六 一 一
) の 遣 使
、
⑬ 大 業 九 年
(
六 一 三
) の 遣 使
、
⑭大 業 十 年(
六 一 四
) の 遣使
、 の 項目 か ら なる
。 同 様 に
、 百 済伝 は
、
①百 済 の 先祖 の 出 自・ 百 済 の成 立・ 国 号 の 由 来
、② 開 皇 年間 の 遣 使、
③ 風 土
、④ 位階 制 度、
⑤ 行政
、⑥ 風 俗
・ 行 事
、
⑦ 開 皇 十八 年
(
五 九 八
) の 遣 使
、
⑧百 済 の 王 位 継 承 の次 第
、
⑨ 大 業 三 年(
六
〇 七
) の 遣 使
、
⑩ 大 業 七 年
(
六 一 一
) の 遣 使
、
⑪ 大 業 十 年(
六 一
)四
の 遣 使、
⑫ 百 済の 属 国 の諸 項 目 を記 載 し、 新 羅 伝 に は
、
① 新 羅の 位 置
、② 新 羅 王の 出 自
・新 羅 の 成立
、③ 開 皇 十四 年
(五 九 四
)の 遣 使
、④ 位 階制 度
、⑤ 行 政区 画
・ 軍
・風 俗
・ 刑 政
・ 衣 服
、
⑥ 年 中行 事
、
⑦新 羅 人 の特 徴
・ 婚葬 祭
、
⑧国 土 の特 徴
・ 産 物
・ 隋 へ の朝 貢
、 の順 で 記 載が あ る
。 増 村 宏 氏 は
、こ れ が 東夷 伝 す べて に わ たる 叙 述 のス タ イ ル で あ る か のよ うに 説 か れ る が
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、 かな ら ず し も そ う と は い え な い
。 た と え ば
、靺 鞨伝 で は
、① 靺鞨 の 位 置、
②部 族
、③ 地 理
、
④ 風 俗
・ 為 人
、
⑤ 開 皇初 の 遣 使、
⑥ 靺 鞨使 者 の 無礼
、
⑦ 近隣 国契 丹 と の関 係
、
⑧ 煬 帝の 初 め にお け る 隋・ 高 麗 戦争
、
⑨ 大業 十 三年
(
六 一 七
)
の 煬 帝 の 行 幸へ の 同 行、 と い った 項 目 につ い て 記載 があ る が
、高 麗 伝 な ど とは い さ さか 出 入 りが あ る
。 ま た
、流 求伝 で は、
①流 求 の 位置
、② 流 求 王の 名・ 居 所
、③ 土 地 の 特 徴、
④ 統 治形 態
、⑤ 服 装・ 装 飾・ 武 器
、⑥ 為 人、
⑦ 税・ 刑
、
⑧ 文 字 の 有無
、
⑨ 顔の 特 徴
・身 分 制 の有 無
・ 風俗
、⑩ 婚 葬 祭
、⑪ 国 土 の 特 徴・ 気 候
、⑫ 信仰
、⑬ 大 業元 年(
六
〇 五
)の 遣 使
、⑭ 大業 三 年
(
六
〇 七
) に お け る 朱 寛 の 流 求 派 遣
、
⑮ 大 業 四 年
(
六
〇 八
) 再 度 の 朱 寛 派 遣、 と い った 体 裁 であ っ て
、さ き の 高麗
・百 済
・ 新羅 と く ら べ ると 形 が 崩れ て い る。 こ れ ら は、 隋 が 把握 して い た 情報 量 の ち が いに も よ るの で あ ろう が
、 いず れ に して も
、東 夷 伝 の各 条 が こ と ごと く 倭 国伝 解 釈 の参 考 に なる も の では ない
。 し か し
、そ れ で も、 高 麗 伝・ 百 済 伝・ 新 羅 伝の 各 条が 比 較 的 倭 国 伝 に 近 い叙 述 の 体裁 を 採 用し て い るこ と は
、 たし かで あ る
。つ ま り
、 こ れら 各 条 では
、 共 通 して 文 帝 の時 代 の 開皇 年間 の 初 回の 遣 使 の 記 事の あ と
、隋 が 得 たそ の 国 につ い て の知 識が 記 載 さ れ、 そ れ に つ づい て 煬 帝の 時 代
、す な わ ち大 業 年 間の 遣使 を し る す体 裁 を と っ て いる と い う特 徴 が みら れ る
。そ こ か ら判 断す る と
、開 皇 二 十 年 の遣 使 に つづ け て 記載 さ れ る冠 位 十 二階 も、 か な ら ずし も こ の と きの 遣 隋 使と の か かわ り で とら え る 必要 はな い の で あ る。 そ も そ も、 東 夷 伝の 各 条 では
、 開 皇年 間 の 国交 につ い て は 敏感
で
、 か な ら ずと い っ てよ い ほ ど
―
む ろん
、 実 際に 国 交の あ る 場 合 に 限 る で あろ う が
―
記 載 があ る
。 これ は
、 やは り
、隋 代 に な っ て は じ め てひ ら け た国 交 を 重視 し て のこ と で あろ う。 だ と すれ ば
、 倭 国 伝 がし る す 開皇 二 十 年の 遣 使 もこ と さ ら疑 問視 す る 必要 は な い の であ っ て
、こ れ を 強 いて 疑 う 理由 は 認 めら れ な い。 も し
、 開 皇 二 十 年 の倭 国 に よる 遣 使 を疑 う の であ れ ば
、東 夷伝 の 他 の記 事 に も 疑 い を向 け ね ばな ら な いこ と に なる が
、 それ は 現実 的 で は あ る ま い
。 か つ て 大 庭 脩氏 は
、 魏志 倭 人 伝に み え る景 初 三 年の 魏皇 帝 の 詔 文 に ふ れ
、「
「魏 書
」 が魏 の 国 の歴 史 を 書い た も ので ある 以 上
、魏 と 倭 と の 交 渉を し る した 後 部 の二 割 が 倭人 伝 の 眼目 であ り
、 その な か ば に 及 ぶ魏 の 皇 帝の 詔 は
「魏 志 倭 人伝
」 の 中の 一番 大 切 な部 分 で あ る と考 え な けれ ば な らな い
」 こと を 指 摘さ れ た
。9
『 隋 書
』 の 場 合 に も 同じ こ と がい え る ので あ っ て、 列 伝 で周 辺 諸国 の こ と を 記 載 す る のは
、 こ れら の 国 々が い つ
、い か に して 中 国王 朝 と 関 係 を も っ てい た か(
臣 従 し て い たか
)を 明確 に し て おく 必 要が あ っ た か ら で あ る
。そ れ ゆ え、 隋 の 場合 に も
、倭 と は じめ て 国交 が 拓 け た 際 の 遣 使 につ い て
『隋 書
』 が虚 偽 の 記載 を し てい る とは 考 え が た い の で ある
。
二
、坂 本説 の根 拠と その 問 題 点 さ
て
、 以上 の 確 認を 踏 ま えた う え で、 つ ぎ に坂 本氏 の 所 説 を取 り 上 げ た い が、 氏 は
、開 皇 二 十年 の 遣 使を 疑 う とい う自 説 の 根拠 と し て
、 おも に 以 下の 三 点 をあ げ て おら れ る
。
( 1
)『 日 本 書紀
』に 触 れて い な い。 推古 天 皇十 五・ 十 六 年
、二 十 二 年 の遣 使 の 記録 は
『 隋書
』 の 合う と こ ろは 多 いが
、 開 皇 二 十 年
(
推 古 天 皇 八 年
) の 場 合 だ け 記 録 が な か っ た とい う こ と は 不 自 然で あ る
。こ れ は
、こ の 遣 使が 西 辺 豪族 の しわ ざ で
、 朝 廷 は 全く 関 知 しな か っ たか ら で ある
。
( 2
) 開 皇 二 十 年
(
推 古 天 皇 八 年
) は
、 新 羅 出 兵 が 開 始 さ れ た 年 だ が
、 もし
、 そ の出 兵 に 対し 隋 の 諒解 を 得 たり
、 何ら か の 権 威 を 負 うこ と を 求め る の であ れ ば 一、 二 年 前に 行 うこ と が 効 果 的 で あり
、 同 年で は 効 果が 少 な い。 新 羅 出兵 だ けで 大 事 業 で あ り
、そ う い う大 事 業 を行 う 年 を選 ん で
、同 じ 外国 関 係 の そ れ 以 上の 大 事 業を 開 始 する と い うこ と 自 体が 不 自然 で あ る。
( 3
)「 姓は ア メ
、字 は タ リ シヒ コ
、号 は オ ホキ ミ
」と い う の は
、 使 者 が のべ た 天 皇の 称 号 を、 先 方 が聞 き か じっ て 文字 化 し た も の で あろ う
。 当時 は 推 古天 皇 だ から
「 タ リシ ヒ コ」 で は お か し く
、天 皇 に 通有 と 考 えら れ て いた 尊 号 をの べ たも の で あ