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第3章  オーステインにおけるソフトウエア産業クラスターの生成と発展

3.3. 比ccの成果と影響

ロビー活動はとても大変な政治的戦いでした。第一に私たちは 22名の株主企業を説得して、全員一致で「イエス」っていって もらわなければならなかったのです。また私たちは、 4つのボー

ドミーティングを通過しなければならず、しかもすべてのミーテ ィングで全員一致の「イエス」でなければならなったのです。 MCC の何人かのバイス・プレジデントは私たちのスピンアウトについ て反対でした。彼らは利益相反にひっかかると主張したのです8。

その後、クレイグ・フィールズ(Craig Fields)が委員会に入ってからは、 ETIの悲観

的な見通しに光がさしてきた。フィールズは彼女たちのスピンオフを支持し、彼女たちを 擁護したのである。そしてついにETIは彼女たちの試作品のコピーを研究スポンサーであ

ったイーストマン・コダック、テキサス・インストウルメント、モトローラ、 NCR,ハネウ エル、コントロール・データ、ブリーチャーに与えるという条件で、スピンオフを認めて もらった。ハマーとカールはこうして1991年、 ETIをスピンオフすることに成功したので ある。 ETIはその後、テキサス大学オーステイン校の下部組織であるインキュベータ、オ

ステイン・テクノロジー・インキュベータ(ATI)に入居しIPOを果たした。

たし、それがオーステインのハイテク化に大きな影響を与えた。第二に、 MCCはオーステ インに技術の多様性をもたらした。後述するように、テキサス・インストウルメント(TI) やIBMのいくつかのプロジェクトは、技術的知識が豊富なエンジニアをひきつけた。しか し彼らのもつ知識はそのプロジェクトの目的達成のために緊急に必要とされたものだった。

つまり大企業は、例えばuNI‡とかFORTRUNについて深い知識をもつエンジニアたちをプロ ジェクトのためにかき集めたのである。彼らはその分野に精通はしていたものの、他の分 野についてはそれほど詳しくなかった。ところがMCCではソフトウエアからハードウエア にいたるまで、多様なテーマが取り扱われていた。その結果、多様なタイプのエンジニア や研究者が集められることなり、オーステイン全体の技術に多様性がでてきた。第三にMCC は全米、全世界に「オーステインはハイテクシティーである」という印象を与えた。この イメージは、オーステインが企業はエンジニアを誘致するときに、重要な役割を果たした。

以上の点についてMCCはオーステインに貢献してきたといえる。しかし実際のところ、

何名のMCCの研究者たちがオーステインのビジネス・コミュニティーに参加し、どの程度 の技術がオーステインのビジネスと関係をもっているのかは未だ明らかではない。この点 については再調査の余地があるであろう。

4.大企業の役割

1970年代から1980年代初期にかけて、オーステインの大企業はハイテク製品の開発を はじめた。この変化によって、エンジニアに対する需要が急増し、大企業の依頼をうけた リクルーティング企業が他の地域からエンジニアたちをかき集めてきた。こうしてこれら 大企業は磁石のような役割を果たし、オーステインに優れたエンジニアをひきつけたので ある。また大企業は大学を卒業したばかりの新卒者に基礎教育を施すという役割も果たし てきた。

4. 1. 「トレーニングセンター」としての大企業

IBM、テキサス・インストウルメント(TI)、モトローラのような大企業は、大学卒業間 もない大学や単価大学の学生を採用していた。そして彼らを‑から教育したものであった。

このようなシステムの背後には、多くの雇用者が終身同じ企業で働くであろうという暗黙 の前提が存在していた。 1990年代にはいると、状況は一変したものの、そのときまでこの 前提は根強く残っていた。

テキサス・インストルメント(TI)は、オーステインの典型的な大企業である。 TIは

「トレーニング・インステイティーション(Traininglnstitution)」と呼ばれていた。つ

まりTIではあえて新卒を雇用し,低いランクからはじめ、現場で内容の濃い教育をみっち

/

り施す、まさに「トレーニング・インステイチュ‑ション」という役割を果たしていた9。

5年から8年もたち、特定の技術分野の基礎を習得すると、かつての新卒採用者たちはそ の技術が生かせるような新たな職をもとめてTIを辞めるのである。例えばディジタル・リ

サーチ・インスティテューション(DigitalResearchInstitute (DRI))は、 MRI, Inc (前

逮)のスピンオフ企業でオペレーティング・システムを開発している会社である。 DRIの従 業員の約60%がかつてTIで働いていたというIO。

4. 2.大企業のソフトウエア関連プロジェクト

‑オーステインに立地する大企業が、ソフトウエア関連のプロジェクトをオーステインで 行ったことも、ソフトウエア・エンジニアの集積を加速化する大きな要因となった。

①TI(テキサス・インストウルメント)、 ASCプロジェクト.

大企業は大きなプロジェクトをオーステインで行うことによって、エンジニアたちをオ ーステインにひきつけてきた。 1966円、 TIは大規模コンピュータ・プログラムをスタート

させた。その名はASC (Advanced Scientific Computer) Projectであった。 このプロジ

ェクトの目的は、 「地震探索の分析に必要な能力を提供し,新しい市場を支援する一般的な スーパーコンピュータを使いこなす能力を提供する」ことであった。 (ThepurposeoHhis

project Was "tO Provide needed capacity for supporting seismic prospecting, plus

offering a general super computer capability in the support o newmarket".).)す

なわちASCプロジェクトは最新鋭のコンピュータシステムを、科学のために使用するため に応用することであった。このプロジェクトはもともと応用地震探査コンピュータ

(AdvancedSeismicComputer)という名の元に、ダラスで開始されたプロジェクトであっ

た。 12。 1969年、 TIは、質の高い優秀な人材を確保するために、このプロジェクトをオ ーステインに移動した。経営陣はオーステインにおいてのTIの存在感を高めようという意 図もあった13。 ASCプロジェクトに携わっていたハードウエア・エンジニアたちはダラスか ら出向してきたが、ソフトウエア・エンジニアたちはオーステインで雇用された。そりわ けテキサス大学オーステイン校の卒業生が多かった14。 TIはまたコロラド大学、ニューヨ

g Mr・Larry Wolfe, Mr.Christopher Yurkananへのインタビューより(2002年6月13日) H'Mr・Larry Wolfe, Mr.Christopher Yurkananへのインタビューより(2002年6月13日).

ll wIJ・Watson "The TI As°: A highly modular and flexible super computer architechture" , Chapter 45.

12このプロジェクトの名前は・ TIの顧客であったコントロール・データとの競合を避けるために、後に‑応用科学 コンピュータ(AdvancedScientificComputeT" )に変更された。ちなみにコントロール・データは独自に地震探査機、

CSCスター(CSCStar)を同時期に開発していた。 (Intervie…ithMr.EmoryGarth (TI vieteran) byDr.DeirdreMendez, Sept.20,2002).

13 Dr・ Dr・Deirdre MendezによるMr・Emory Garth (TI veteran)へのインタビューより(2002年9月20日)。

H Nr・Charlie Boyd (CEO and President of 360 commerce・com・)へのインタビューより(2002年9月16日)。 TJは

‑ク州立大学などからも多数のコンピュータ・エンジニアを雇用した。その総計は約100 名にのぼったと言われている15。

プロジェクトは1975年に終了した。その後、プロジェクトに関わっていたエンジニアた ちは解散し、他のTIのプロジェクト1こ移動していった。ダラスから来たソフトウエアの多 くはダラスに戻ったが、何人かはオーステインに残り、他の大企業やそのプロジェクト、

そしてテキサス大学オーステイン校で働いたと言われている16。

②IBM AI‡ project (1984‑)17

・ JBM、 AI‡プロジェクトと当時のオ‑ステイン

IBMは1967年にオーステインに進出して以来、オーステインにおいて最大雇用者の一つ であり続けている。現在ではIBMはオーステインのハイテクセンターの一つに数えられて いるが、はじめからそうであったわけではない。むしろ1960年代、 70年代はIBMの中で もローテク部門を担う工場として見られていたようである。

IBMはオーステインに進出した当初、州政府向けの磁気テープタイプライターの製造を 行っていた。 雇用者もハイテク技術者ではなく、高校卒業や牧場経営を平衡して行って 居る人たちなど、 ‑から訓練して製造現場にたたせていた。 1972年にメモリーボードを搭 載したメモリー・タイプライターを試作し、 1983年にはIBMのフロリダ工場で製造してい たオフローデッド・コンピュータ製品の製造を行っていた。

オーステイン工場の運命を大きく変えたのはRISC (The Reduced Instruction Set Computer (RISC))という技術であった。 RISCは1974年にIBMのエンジニア、ジョン・コ

ック(John Cocke)によって発明された18。しかしその技術はIBMの中では顧みられず、

長い間お蔵入りされてきた。 1980年から1981年の間に、 RISCはついに日の目をみること になる。スタンフォード大学の卒業生によって設立された当時のベンチャー企業、サン・

マイクロシステムズがRISCに注目したのである。 そしてサンはRISC技術をUNII OS を搭載したワークステーション、SPARCに、RISC技術を応用することにしたのである。当 初、誰もそのプロジェクトをまともに受け取らなかった。しかしサンがRISC技術を商業化 すると、ヒューレット・パッカード(HP)、デジタル・イクイップメント(DEC)など他の企 業も追随した。皮肉なことに開発者を擁していたIBMはRISC技術において遅れをとり、1984 年に参入した。

)5 Nr.Charlie Boyd ( CEO and President of 360 commerce.com)へのインタビューより。ちなみにTIは1965年に

オーステインに進出していた。

L6 I)r.Deirdre NendezによるMr.Emory Garth (TI veteran)へのインタビュー調査より(2002年9月20日)。

17この節はNr. Edyard Taylor, Executive ( Vice President of Pencom SysteJnS Incorporated, the President and

founder of Collective Technologies, and former President of PSW Technologies)へのインタビュー(2002年6