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オーステイン・モデルの形成と限界

: Innovation Clusterの形成から見たTechnopolis Wheel Model成立の条件

1.はじめに

テキサス州の州都オーステインは、 1980年代以降、アメリカにおいて試みられた、構造 変化を通じた経済再生を象徴する都市である。 1970年代まで,オーステインは、州都とし ての行政都市、及びテキサス大学オーステイン校(‑本部機能を有する)が所在する大学 都市という、複合機能を持つ人口25万人程度の中都市であった1。 1970年代のスタグフレ ーションのもと、行政と大学に依存するだけでは、発展が望めなくなり、シリコンバレー をモデルに、ハイテク製造業の誘致を図った。労働力、土地、住宅などが低廉であり,工 場移転のコストパフオマンスの良さをインセンティブにするものであった。だが、 70年代 後半以降における国際競争の激化によって、この程度のコストパフオマンスだけでは誘致 した工場を引き留めることは出来ず,これらの誘致工場は、メキシコやアジアなどに再移 転されることになる。

そこで、誘致政策から、ハイテク産業創出基盤となる研究開発拠点、及びその製品化を 担う生産拠点の形成を目指す、新たな政策が策定されることになる。この政策は、第1章 でも指摘したように、テクノポリス政策と呼ばれた。オーステインにおけるテクノポリス 政策が成功したのは、産学官により構成されるTechnopolis粕eel Modelが形成され、機 能したためだといわれている(図表6‑1、以下TWMという) 。 TWMは、産学官が、ハブと してのインフルエンサーにより結集・統合され、ハイテク産業創出策としてのテクノポリ ス政策の実現に向けて、その機能を提供することだと定義される(R. Smilor, G. Kozmetsky

& D. Gibson, "The Austin/Sam Antonio Corridor: the Dynamics or a Developing

Technopolis" , R. Smilor, G. Kozmetsky & D. Gibson edt. CrealJ'ng the TechnopolJ'S:

LJ'nking Techno/ogy Commercl'aJJ'zal)ron andEconomjc DeveJopmenl, Bat I inger Publ i sh ing, 1988)。 TWMによれば、産(大企業、 VB、支援団体) ,学(大学) 、官(連邦、州、地方)

の7組織が各々提供すべき機能が示され、インフルエンサーという特殊な機能を果たすエ ージェントを介して結集・統合され、ハイテク産業創出に必要な機能が提供されることに

なる。

確かに、 TWMは、目的、構造、能力も全く異なる産学官という組織が、インフルエン

サーという特殊なエージェントを介して、結集・統合され、その組織が持つ機能を提供し

つつ、他組織から提供された機能との協働により、ハイテク産業創出に必要な支援システ

ムが形成される構造を示していた。 TWMが、テクノポリス政策実施に当たって、市場メ

図表611 Techology Wheel Model

出所) A. Smi】or, G, Kozmetsky. A D. Glbson. op. clt.. T). 146より

カニズムとは異なる新たな組織間連携の必要性を提示していた点は評価されねばなるまい。

それは、第1章で提起したように、 InnovationClusterにおける産学官のネットワーク重 合の必要性を示唆するものであった、といえるからである。

だが、同時に、現時点から見て、 TⅦはそれ自体の成立条件は示しておらず、そのこと が、モデルとしての普遍性に関し、一定の制約になっているように思われる。今日、産学 官連携は、ハイテク産業創出の基盤として、世界的なテーマとなっており、産学官が結集・

統合されれば、テクノポリス政策の実現を担保しえるか否かが、新たな論点となっている。

また、 TWMによる、ハイテク産業の持続的成長可能性も問題にされている。すなわち、特 にTWMによってIT産業の基盤を作り、 90年代に成功事例といわれたオーステインにおい て、 ITバブル破綻後、その経済的沈滞が見られ、 TWMだけでは済まない要因が作用してお り、その復活には別の要因の導入が必要になっていることを否定し難くなっているからで

ある。

本章では、このような問題意識から、改めてオーステインにおけるハイテク産業創出過 程を分析し、 TWMの成立条件を明らかにすることを通じて、 TWMが示唆したネットワーク重 合としてのInnovation Clusterが機能する条件を解明したい。

2.ハイテク産業創出過程

オーステインにおけるハイテク産業創出過程は3期に区分されている(図表6‑2) 。な かでも、特に第2期のMCCとSEMATECの誘致が最も重要であった。 MCC誘致は1983年、

SEMATECは1988年である。この両機関は、その目的や研究分野など、大きく異なっていた

が、ハイテク産業創出の基盤となる技術シーズ創出拠点とハイテク雇用者をオーステイン

にもたらした点では、共通する効果を持っていた。この技術とヒトの集積が、のちにVB

創業の基盤となり、支援システムとしてのInnovationClusterを形成する動因となったか らである2。

第.期転換   国表6二2 オーステイン市の発展

出所) Ned Cenbq EcQnDmy・ SJLdOmmg rJzeJILLSTWJ RegJOn 's E亡0〝OmlEJldvDntOgE Jn tJIE ZJ'CEntEIJ}・. Tlle GrealeT AtJStln ChTTltKI OE Commtrce、 p. 4より

2.I MCCの誘致

MCCは、 Control DataCorporation (CDC)のW・ノリス会長の呼掛けにより、企画された。

MCCは、その対象を、 CAD/CA肌 パッケージング、ソフトウェア、次世代コンピュータの4

分野に絞り込み、各々の分野で開発研究まで行い、その成果をもとにした製品開発と製造

は各参加企業が行う、という基本構想のもと、参加企業を募り、 AMD、 CDC、 DEC、ハリス、

ハネウェル、モトローラ、ナショナル・セミコンダクター、 NCR、 RCA、スペリーを株主と して、 1982年8月にデラウェア州に設立時登記された。

MCCは、対日戦略上重要なPre‑competitiveTechnologyに関するインダストリー・コン

ソーシアムではあったが、反トラスト法違反の可能性を抱えており、その適用を回避する には、出資者からの自立性と、連邦政府の科学・技術政策に即した事業計画を策定し、司 法省などの意向を尊重した事業活動を行わねばならなかった。そこで、一定の中立性と国 策に沿うという要件を整えるため、元海軍提督で、 82年にCIA副長官を退任したB・イン マンを社長に選任した。この人選によって、 MCCはワシントンとの強いパイプを持つこと ができ、国策に沿う機関として、全国的注目を浴びることになる。さらに、全国公募によ る設置場所の選定に入ったのである。

2ハイテク雇用者(High‑technology employment)とは、化学.製薬、コンピュータなど29業種の雇用者で、科学者,

技術者、コンピュータ専門家などの職に就き、準学士以上の学位を持つ雇用者と定義される。貸金水準も、全雇用者

ーMCCの設置場所の公募に対して、全米27州57都市からの応募があり、最終選考の結果、

当初は最も順位の低かったオーステインが選定されたのである。その成功要因は、テキサ ス大学オーステイン校を中心に、その強化を狙い、州政府、オーステイン市、及び地元産 業界が一致団結し、最も効果的な産学官連携の組成にあったことは知られているが、この 組成には、テキサス大学付属IC2研究所のG・コズメッキ‑の調整機能が大きく作用してい た。コズメッキ‑は、当初サン・アントニオ市長がイニシャテイブを取っていたMCC誘致 に対して、電子工学系大学を持たないサン・アントニオは応募条件を満たさないことを説 得して、オーステインーサン・アントニオ・テクノポリス構想のもと、 MCCはオーステイ ンに誘致した方が得策であることを了承させるとともに、テキサス州知事などにも働きか

I‑ け、オーステインへのMCC誘致の協力を取り付ける(図表613) 。こののち、オーステイ

ン市、大学、商工会議所を中心とする地元産業界にも働きかけ、 MCC誘致産学官連携を立 ち上げたのである。この働き掛けがなければ、これほど有効な産学官連携はできず、 MCC のオーステイン誘致は失敗していたであろう。 G・コズメッキ‑は、インフルエンサーとし て、産学官組織間に生じていた「構造的空隙」を仲介する「第三者」としてこれら組織を 結集・統合し、誘致活動を推進する役割を果たした。最終選考で落ちた他の地域には、こ

うした「第三者」が居らず、その誘致活動の積極的一体性に難点があったのである(D.

Gibson & E. Rogers RGD CoJJaboTalJ'on on TrJ'aJ, HBS Press, 1994) 3.

回■表6‑3 G・コズメッキ‑のインフノレエンサーとしての機能

LIll'7f) D. GibsoTl A EL Rogers, op. cit.. I. 113より

T■1JLJL  Coy●ー■I〇一  LAJtLⅥ由■ 

tbVLJh. LTT‑EhJId■. 

血■■一KI  IIIJLd‑ btJrL肌iー 

TtIAI  pre一tL一■tbL  t○LLtMCC. 

1‑CbkJLIb 

3 G・コズメッキーのこうした活動はFirstllevel lnfluencerとして、 TWM形成の基軸とされている。 First‑level lnHuencerは、産学官の式を自由に動き、その組織の責任者逮(Second‑level lnfluencer)に、そのピジョン実現の ため、組織の結集・統合を働きかけ,実現する機能を持つものとされる。しかも、常にSecond‑level lnrluencerの 後景にあって、成果は全てSecond‑level lmfluencerに帰属させる役割を果たすべきだといわれている(Gibson 良 Rogers, op. cit.) 。だが、これだけでは、 1nfluencerの存立基盤は明らかにならない。ここでは、バートの「構造 的空隙」を埋め.利益を得る「第三者」で、かつその利益をSecond‑level ln日uencerに与えることで.彼らの信頼 を得て、その組織を結集・統合する動因が得られる、と整理すべきではなかろうか。バートは、この「第三者」を企

業家(Entrepreneur)と定義している。企業家の場合はその利益の自己帰属化(Tertius Gaudens)であり、 Influencer はそれを他者帰属化する点で、企業家とは異なる機能を果たしえるのであった(氏. Burt Structural Holes, Harvard

2. 2 SE姐ATECHの誘致

SEMATECは、 80年代に、対日半導体競争に敗れ、市場シェアを大きく低下させたアメリ カの半導体メーカーが、競争力復活のため、製造技術から研究し直そうという意図のもと、

国防の観点から危機感を抱いていた国防総省の支援を受けて、組成したインダストリー・

コンソーシアムである。 SEMATECHには、アメリカ半導体生産の85%を占める、 14社が参 加することになる。 SEMATECHには、 MCCの設立に際して、その参加企業から日本企業と同 じ競争相手と見られた、 IBMやAT&Tも参加した。それだけ危機が深刻化していたのであ り、 SEMATECHは、アメリカの半導体産業が一致協力して対日競争力回復を狙った、コンソ

‑‑シアムとなっていたのである。

SEMATECHは、 800人のハイテク雇用者を雇い、年間2億ドルの資金が投じられるコンソ ーシアムであり、その設置場所の選定はMCC以上に激烈なものとなった。 SEMATECH設置場 所の選定条件はMCCと同様なものであり、 MCCのときと同じく、条件を提示して、設置場 所の選定に入った。その結果、 MCCのときの募集を上回る30州、 135地域からの応募があ った。 MCCの経験を踏まえ、応募内容も高くなっており,特にMCCで選定に落ちた州では、

産学官連携を強化し、インセンティブ内容を充実・強調した魅力的なプロポーザルとなっ

ていた。

オーステインは、 MCCの経験と実績を踏まえ、周到な産学官連携を組成し、減点要因を 作らないという作戦のもと、 134地域が応募書類を郵送したのに対し、担当者が手渡しし て、概要説明するといった気遣い払うとともに、テキサス大学工学部A・タッシュ教授に 依頼し、 SEMATECHで必要とされた高レベルのクリーン・ルームを通常の1/3の期間で建 設するなど、地域における技術力の高さをデモンストレーションした。

こうした対応が功を奏し、 SEMATECH もオーステインに設置されることになる。同時に、

半導体メーカー、半導体製造機器メーカーなどの研究施設や製造拠点がオーステインに集 積し、オーステインは、シリコン・ヒルズと呼ばれる、半導体生産拠点となったのである4。

2.3誘致から自立的発展へ

MCCとSEMATECHの誘致は、オーステインにおけるハイテク雇用者数を大きく増加させた

(図表6‑4) 。オーステインのハイテク雇用者は、 MCC誘致に伴い、 1980年の1万7,345

人から、85年の4万2,117人へ、2.4倍の増加となった。その後,停滞を示したが、SEMATECH

4 sEMATECHに対してわが国の評価は極めて否定的なものであったが、 SENATECHは日本に後れを取っていた製造技術改 善を実現し、アメリカの半導体産業復活の基盤を提供したとの評価を受けるまでになっている(谷光太郎『日米韓台 半導体産業比較』 、白桃書房、 2002年) 。その背景には、日本との競争から半導体産業自体の崩壊の懸念とInvestor Capitalismというべき株式市場からの収益向上圧力によって、 R&D部門の大幅リストラクチャリングが実施され、の ちにOpem lmmovationとして定式化されるような、外部成果の摂取を容易にするという組織構造の変化が生じていた

(L. Broyning 皮 J. Shetler Sematech, Texas A&M University Press, 2000) 。わが国の評価が大きく誤ったのは、