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後悔と罪責 ― クエンティン、語りの衝迫

ドキュメント内 <906C95B68B D38382D967B95B62E706466> (ページ 110-113)

さて、このように作品を再読したうえで、今一度冒頭の場面に立ち帰ってみたい。Hans H. Skei に よれば “The whole historical introduction, given by the grown-up Quentin Compson, is not found in  the  manuscript,  and  the  perspective  as  well  as  the  emphasis  of  the  story  thus  changed  conspicuously  during  the  process  of  revision” (179)であるが、この「歴史的な導入部」にはナン シーと父の問題をクエンティンに引き受けさせるフォークナーの意図があり、引き受けたクエンティ ンがその後の人生をどのように生きたのか、見つめていたのかが示されている。

クエンティンが現在の町の情景から受ける厭わしさと不気味さは、自らの人生への感情そのもので ある。まず自動車の立てる不協和音へのいら立ち――“alert and irritable electric horns, with a long  diminishing noise of rubber and asphalt like tearing silks” (289)――は町の近代化への疑念や反撥 だけでなく、自らが〈白人〉として近代を生きてきたことへの違和と嫌悪も暗示する。この感覚をも たらしたのは、黒人女性を置き去った 9 歳のときの自己の所作、実父の秘かな罪業に対する自覚であ る。彼にとってナンシーを見棄て白人として成長し大人になった体験は、近代の洗礼を受けつつ月日 を過ごしてきたことと同義であった。白人と黒人の差異なき融和な領域を棄却し、しかし、胸奥に残 存する悲哀と後ろめたさを忘却せずに生きることこそが近代の営みであったのだ。

またクエンティンが、街路樹を切り倒した電話・電機会社の立てた鉄柱にぶら下がった街灯を

“iron  poles  bearing  clusters  of  bloated  and  ghostly  and  bloodless  grapes” (289)に喩える理由は、

台所を性的トポスとして彼が認識していたという見地から読み解けるだろう。血の通っていない葡萄 として電灯がクエンティンの目に映じるのは、ナンシーが夫に惨殺され血がひろがる悲劇を妄想した 姿を回想するからであり、また、そのような妄想を招来するほど黒人を追いこんだ白人には救済の血 は回収しえないという感覚が彼の心にあるからである9。キリスト教の聖餐式において、パンとワイ ンはジーザス・クライストの肉と血であり、それを食する者は罪を贖われる。しかし、クエンティン の生きる/生きてきた近代に贖罪は訪れていない。なぜなら街灯の光は、救済をもたらすことなく白 人のおぞましさと彼の罪を照らしつづけているからだ。食を通して贖いを提供するはずの台所が性的 搾取の現場となり罪業の空間と化した事実は彼の心に深い傷として刻まれ、その傷は父の罪責を知り ながらも心の奥底にそれを押しこめた狂おしい罪意識を産み落とし、近代を生きる日々の罪悪として 彼の良心をさいなめてきたのである。

こうしたクエンティンの苦悶と罪障は、冒頭の場面以降の朴訥とした語りにも滲みでてくる。たと えばナンシーが「水」を流すとき「泣いているんじゃないんだ」とぽつりといった過去の記憶に彼の 後悔が溢出する。ナンシーの哀しみを受け止めきれずに大人の世界の深い闇から逃避するべく幼い自 分はそういわざるをえなかった、そう自らにいい聞かせたとしても、彼女を放擲し白人への道程を歩 んだ紛れもない事実にどれほどの罪の感情を抱き耐えてきたというのだろうか。「私たち」という観 念を形成しはじめた彼には、彼女の不安と怖れの原因に白人男性(実父までも)が関与した事実への 自覚も芽生えはじめていたのであり、それは白人になる以上、黒人女性への思慕を棄却しなければな らないという社会的言説からの要請と、黒人女性の感情の忘却と切断をめぐる倫理的な心痛との相剋 である。

最後にナンシーを小屋に置いて父とともに去るときに「彼女はくたびれていたから」(“because  she  was  tired”)と述べて語りが混乱するのは、なるほど彼の情緒の乱れであるが(平石  35)、彼女 の「疲労」が白人による性の搾取に起因する、もっといえば、性労働の疲弊かもしれないというクエ ンティンの薄明の認識が裏側にはりついている。少なくともクエンティンが 24 歳になって語るとき、

その認識の辛さが、なまなましい肉感となって、彼の思考を揺さぶり追想の論理を乱しているのでは ないだろうか。ひとりとり残された人間の恐ろしいまでの孤独を視つめたのである。

ただし、クエンティンは語りの時点でもナンシーの境遇を必ずしも十全に理解してはいないのかも しれない。ナンシーが “I just done got tired” といったとき、その tired が「疲労」というよりむしろ

「倦厭」に近似するのだとすれば、日常的辛苦の果ての、人種差別体制での白人の善意に隠された残 酷さに直面した精神の崩れを意味するのではないか。繋ぎとめようとした子どもたちとの輪の切断に よって強まった生きることへの諦念、存在の底板が砕かれた生の放棄までをあらわしている可能性が あるからである。柄谷によれば、「過大な希望と過大な絶望の悪循環」に「うんざり」したマクベス は、「意味づける」ことに憑かれた近代の悲劇を退け、「自己と世界との間に見せかけの距離を設定し た上で和解へと導くそのからくり」から抜けだしたと評される。マクベスの「うんざり」を「自縄自 縛」に対する内発的な心的状態とする柄谷の解釈は(『悲劇』64-66)、人種差別という外圧によるナ ンシーの倦厭とは質的に異なる。だが、一見静止しているかのようなナンシーがじつのところ、ジー ザスの帰還という「希望」と、白人男性による搾取という「絶望」の「悪循環」に「うんざり」し、

彼女を「意味づけ」「和解」しようとする白人(クエンティン)の織りなす近代的思考(近代小説)

の枠を拒絶し脱している、そのような新たな読みが開かれていく。

外界の機械文明が侵食するにつれ、クエンティンの心の内部に近代的視点が発現し、外的な近代と の乖離と摩擦が生じる。黒人女性の搾取を悪とする近代的まなざしは、搾取が存続した外的な近代世 界への違和を形成する。そうして南部白人としての罪の意識を深めながら、搾取を前提とする擬制を 生きていく。折り合うことのない矛盾したふたつの近代を生きること、すなわち、外的近代への不信 と内的近代への信頼が父への背信となり、外界との疎隔がなし崩しにひろがっていく憂いを帯びた苦 渋の時間こそ、クエンティンの《近代》であった。

クエンティンは父の悪を隠蔽し自らの声をひそめながら、他方で、再建期以後の〈白人〉という範 疇に自己を限定し捕捉しようとして迫ってくる文化的規範から精神的に逃れた南部的良心の咎めを抱 えている。南部白人という抽象的な総体ではなく、ほかならぬ実父が悪行に手を染めていたこと、あ の日の出来事には父の暗い秘密が隠されていたこと、母をだまし子をだましながら黒人女性をてごめ にしていたこと、そうした父の暗がりを認識した彼は、ついに家長になり家族をつくる途を歩みはし なかった。彼がのちに性を享受できないのはこの罪悪の認識が関わっているのではないか。つまり、

父をめぐる良心の疚しさが、文化的孤独を受容する文法となったのだ。黒人を差別するひとりの〈白 人〉でありながら、父の振舞いを悪としそれを非難するまなざしを有する「罪びと」となることが、

《近代》にほかならなかったのである。

さらに注意すべきことは、そうした異質な《近代》が、〈父〉の所業の告発を正当化できずむしろ 罪として感じさせる文化的圧力に囲繞されていた点である。24 歳のクエンティンが 1913 年ごろに語 り直すとき、ミシシッピ州は、“In a great many cases interracial sex was simply exploitative and  the  black  objects  of  white  attention  were  neither  paid  nor  willing” (McMillen  17)という状況で あった10。黒人女性の性的搾取が存続し、いわゆる「野蛮な理想」(Cash 90, 319)が醸成した風土の なかで、南部白人への糾弾は困難であったのだろう。実父の記憶に囚われた彼は、実父の罪業への憎 しみを覚えつつそれを隠し〈白人〉として生きてきた自己韜晦への烈しい憎悪を抱き、仮面をかぶら

ざるをえなかったタブーと抑圧をついに振り払って〈父〉を批判するのだが、しかし告発は贖罪とな らず、南部白人としての罪だけでなく故郷を批判した罪をも深める結果となる。

かくして実父を、父に追従した悪人としての自己をも秘かに語ることは、〈父〉の棄教、〈白人〉と しての自己放棄でもある。実父という悪の告発も「悪」にほかならないという二重拘束の苦悶に耐え ながら、〈父〉にも「父」にもなれなくなった自我の端緒にある深い傷口を開くとき、不可視化され た罪悪の日常性を照らす恐ろしさ、秘匿された罪過を隠微に語る苦しさがあふれでる。我々にそれら が重くたしかな手ごたえで感じられるとき、「あの夕陽」という〈告白〉を読むことは、語り手の測 りしれぬ苦衷に寄り添う営みになる。

ドキュメント内 <906C95B68B D38382D967B95B62E706466> (ページ 110-113)