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ナンシーの罪悪 ― 「台所」という空間

ドキュメント内 <906C95B68B D38382D967B95B62E706466> (ページ 103-107)

9 歳のクエンティンにとって黒人女性ナンシーは、謎にみちた他者であった。ストーヴァル氏との 一件などは、“the image of Nancy as doomed victim of the racial, sexual, and economic matrices by  which she is defined” (Carothers “Writing” 42)を印象づけるが、性的にも人種的にも理解しがたい 不可思議な存在であったといってよい。

ジーザスによる殺害というナンシーの恐怖は、白人の権力に脅迫された夫がその怒りを白人の子を 身ごもった妻、すなわち “the living symbol of his humiliation by the whites” である自分に与えると いう不安から生じると Edmund L. Volpe(78)は読むが、しかし Noel Polk(238)や Gakuji Nakano

(48-62)が示唆するように、ジーザスとナンシーは愛し合い、ナンシーは夫の愛情を知るからこそ不 可解な行動を見せるのではないだろうか4

たとえば、ジーザスへのナンシーの愛と嫉妬が披瀝される印象深い場面がある。夫のジーザスが町 に戻ったという噂を聞いて暗闇に怯えるナンシーを小屋まで送っていく途中で、コンプソン氏がジー ザスはセントルイスで別の女を妻としナンシーのことは忘れているだろうというと、彼女は突如激し

い嫉妬心をあらわにする。

“If he has [got another wife], I better not find out about it,” Nancy said. “Iʼd stand there  right over them, and every time he wropped her, Iʼd cut that arm off. Iʼd cut his head off  and Iʼd slit her belly and Iʼd shove̶”

“Hush,” father said.

“Slit whose belly, Nancy?” Caddy said. (295)

この暴力的な情念は、貧しいながらも二ドルのうち一ドルを与えてくれた夫(294)への愛情の残 滓を照らすが、重要なことは、激情の矛先がジーザスと相手の女だけでなく「腹を裂き」最終的に

「殺す」対象として胎児に向けられる点である。ここにはおそらく、ナンシーが白人の子を身ごもり 堕胎した経験が横たわっているのだろう。また夫ジーザスの(仮想の)「妻」の子を殺めようとする のは、嫉妬と怒りだけでなく不義の子を殺めた自らの罪責感も「妻」に投影するからであろう。その とき「妻」の身体はナンシーのそれでもあり、「妻」への攻撃性は自己処罰衝動と表裏一体である。

ジーザスへの愛があるからこそ罪責感が嵩じるのであって、夫への愛執は夫の妻という自覚をそのま まに、夫の不倫相手に自らの罪悪を投射することになる。ナンシーは売春という不義密通を行うが、

夫ジーザスの自分以外の女性との交接はゆるしえない5

ディルシーが病気のあいだ、コンプソン家の者たちはナンシーを小屋まで毎晩送り届けていたが、

キャロラインが不満を吐露してからは、ナンシーは屋敷の「台所」に藁布団をひいて寝泊まりする。

ある晩、ナンシーの発する「音」で子どもたちは目がさめるが、それは「歌っているような歌っても いないような」黒人特有の音として認識される(96)。そしてナンシーの「目」は、まるでエド ガー・アラン・ポー(Edgar  Allan  Poe  1809-49)の「黒猫」(“The  Black  Cat”  1843)を想起させる ような不可解な光芒を放つ。

Then  it  [the  sound]  stopped  and  we  heard  father  going  down  the  back  stairs,  and  we  went to the head of the stairs. Then the sound began again, in the stairway, not loud, and  we  could  see  Nancyʼs  eyes  halfway  up  the  stairs,  against  the  wall.  They  looked  like  catʼs  eyes  do,  like  a  big  cat  against  the  wall,  watching  us.  When  we  came  down  the  steps  to  where she was, she quit making the sound again, and we stood there until father came back  up from the kitchen, with his pistol in his hand. He went back down with Nancy and they  came back with Nancyʼs pallet. (emphasis mine 296)

ポーの「黒猫」では、壁の向こう側、つまり、不可視の空間から声が聞こえてくるのだが、「あの 夕陽」において、壁を背にしたナンシーの声は何を意味しているのだろうか。黒猫を連想させる黒人 ナンシーの恐怖とはいかなるものであり、クエンティンが感知する黒人/黒猫の復讐を惹起する白人

の罪とは何であるのか。眼は彼女の秘め事だけでなく、それを見る者の内面をも明るみにだすのでは ないか。

父親のコンプソン氏がピストルを手にするのは “in case an intruder is in the house” (Towner and  Carothers  156)であるが、それほどまでにナンシーの「音」から警戒心を抱いていることがわかる。

一度台所を見てきたのは彼女の異変の原因を確かめるためであろうが、以前にジーザスが屋敷の「台 所」に入り会話していた事実をふまえれば(292)、ジーザスが何らかの手段でそこに侵入していない か確認する意図もあったということだろう。

コンプソン氏は怖がるナンシーを藁布団とともに子どもたちの部屋に移すのだが、彼女の眼は暗闇 で光りつづける。闇のなかで猫に他者化された彼女の目は、クエンティンの眼孔深くに “the  sun” の 残像のように焼きつく(296)。それは暗闇にとけこんだ彼女の解かれることのない警戒心と恐怖心の 刻印であり、漆黒の闇でこそ彼女の存在は緊張とともにその輪郭を際立たせる。ナンシーの寄り目―

―“She looked at Caddy, like when your eyes look up at a stick balanced on your nose” (303)――

は、その思考が内向きになり妄想に固執し状況を客観的に把握できない狂いを示す。また「棒」の喩 えは、すこしでもバランスがくずれれば精神・命が崩壊してしまう危うさ、緊迫した心的状態を示す

(303)。

「太陽」を時間の象徴と捉えれば、時間が流れることの恐怖、つまり、自らの運命が近づく怖れが あらわれる。しかし矛盾することに、ナンシーはそうして神の裁きを怖れる一方で、神に救いを求め ている。キャディに “Did he [Jesus] try to come into the kitchen?” と問われると、彼女は “Jesus” と いい、その音に〈神〉の到来というニュアンスを響かせる。しかし、その発声は “Jeeeeeeeeeeeeeeeesus,  until the sound went out, like a match or a candle does” (296)であって、マッチやキャンドルの光

――「ジーザス」という〈神〉の救済の灯火――のように、その救済を願う「音」は現実の暗がりへ と吸いこまれ消失していく。

ここで注目したいのは、ナンシーが「音」を発する原因となる場所が「台所」である点だ。なぜ ジーザスの台所への侵入を恐れるのか。コンプソン屋敷の台所でジーザスは、ナンシーとクエンティ ンやキャディら子どもたちをまえにしてナンシーの身ごもった子を “a  watermelon” に喩え、ナン シーがそれは “your vine” からとれたものではないと返すと、“I can cut down the vine it did come  off  of” と隠語で白人の男性器の切断をほのめかす(292)。このような発言をしている現場をコンプソ ン氏がつかまえたらどうするとナンシーが問うと、ジーザスはこう主張する。

“I cant hang around white manʼs kitchen,” Jesus said. “But white man can hang around  mine.  White  man  can  come  in  my  house,  but  I  cant  stop  him.  When  white  man  want  to  come in my house, I aint got no house. I cant stop him, but he cant kick me outen it. He  cant do that.” (emphasis mine 292)

白人男性と黒人女性の結合を暗示したうえで、家のなかでも「台所」という特定の場が焦点化され ているのはなぜか。黒人女性が家事をするプライヴェートな台所に白人男性が侵入し、黒人男性の

「家」という存在の手ごたえを瓦解させるほどの行為とは、白人男性による黒人女性への性的アプ ローチであろう6。ナンシーは、ジーザスが不在のときにふたりの小屋で白人男性と野合したと推測 される。さらにナンシーが白人屋敷で洗濯物を回収する場所が台所であった事実(289)も想起すれ ば、白人屋敷の台所でも交渉をもったという推測が成り立つ。その相手のひとりにコンプソン氏もい たと想定すれば、ここで夫ジーザスが示唆するのは、ディルシーが病気になり妻が屋敷で食事を作る ようになって以降、屋敷の台所で妻とコンプソン氏が交合した事実、または、その可能性である。

ディルシーの療養中、ナンシーが屋敷の台所だけでなく小屋でもコンプソン氏と関係を結んだ可能 性は否定できない。屋敷で家事をしたナンシーを小屋まで毎晩送っていた「私たち」(295)とは、ク エンティンら子どもたちだけでなくコンプソン氏も含んでいるのだろう。ディルシーが病気になる以 前もコンプソン氏がジーザスの不在のときに小屋に訪れていた可能性、病気のあいだは屋敷の台所で つがい、夜にひとりで見送ったとき、あるいは、見送ってから、ひとりで小屋を訪れた可能性もあ る。

じじつコンプソン氏が小屋に夜に訪れていた可能性の根拠として、ナンシーが子どもたちにいうセ リフが挙げられる。夜、ナンシーが子どもたちに小屋への移動を誘うとき、母が許さないだろうとい うクエンティンに対して “Donʼt  bother  her  [Mrs.  Compson]  .  .  .  We  can  tell  her  in  the  morning” 

(300)と返すのだが、この会話からキャロラインが家族のメンバーの夜の外出に気づかないことをナ ンシーが把握している様子がうかがえる。屋敷の台所でナンシーが夜中に音を発したとき、母の部屋 に明かりがともり父が裏の階段をおりていくとクエンティンが語るように(296)、夫婦は寝室を別に しており、たとえ夫が夜に外出――ナンシーの小屋に訪問――しようとも妻は知りえなかっただろ う。

重要なことに、ブルースの伝統のなかで台所は、“a  metaphor  for  a  womanʼs  body” (Benett  339-42)である。Tim  A.  Ryan(106)が指摘するように、Bessie  Smith の 1929 年リリース曲 “Kitchen  Man” (“No one else can touch my ham, I canʼt do without my kitchen man”)もその一例である。

台所が性の舞台としてサブリミナルに働きかけるとすれば、その作用から彼女は性の罪過を想起し、

ジーザスへの恐怖を抱き、ブルースを思わせる「音」を発するのだろう。同時に、コンプソン氏が小 屋だけでなく屋敷の台所でも彼女に接近する、少なくともその蓋然性を怖れるがゆえに「音」を発す るのだろう。ナンシーの様子をいぶかしがるキャディの “What  did  you  see  down  there  in  the  kitchen?” という問いに彼女は “God  knows” とくり返すだけであるが(297)、彼女が視たもの、幻想 したものとは、彼女自身の罪責感と恐怖である。彼女の眼が黒猫の眼に比されるのは、そうした異人 種間の罪が暗い家の内部で混合し秘匿されているからである。クエンティンはナンシーの眼のなかに 実父の罪を見つめ、その奥に芽生えつつある〈白人〉としての自意識をも感受していたのである。ナ ンシーの眼の烈しさは、彼の内部に生じている摩擦と不安の反映である。

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