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ラストシーン ― 「溝」、父の教え、息子の自覚

ドキュメント内 <906C95B68B D38382D967B95B62E706466> (ページ 107-110)

コンプソン氏は帰路に向かうさい、ナンシーに閂をかけるよう指示するが、彼女は動かず彼らを見 ようともせず戸口を開けたまま放置する。それは生を放棄したような挙措であり、彼女の存在の底板 がはずれたかのようである。いぶかしがるキャディは “Whatʼs  going  to  happen?” と尋ねるが、コン プソン氏は “Nothing” とのみ答える(308)。かように彼女の疑問をおさえこむのは、それ以上の詮索 をゆるさないためであろう。ナンシーが戸締りしないのは、ジーザスによる殺害を甘受したように思 われるが、同時に、コンプソン氏が今晩舞い戻るという疑念がないからでもあるだろう。

そして彼らは溝をおりていくのだが、そのとき不透明な謎にみちた描写がなされる。

Jason was on fatherʼs back, so Jason was the tallest of all of us. We went down into the  ditch.  I  looked  at  it,  quiet.  I  couldnʼt  see  much  where  the  moonlight  and  the  shadows  tangled.

“If Jesus is hid here, he can see us, cant he?” Caddy said.

“Heʼs not there,” father said. “He went away a long time ago.”

“You  made  me  come,”  Jason  said,  high;  against  the  sky  it  looked  like  father  had  two  heads, a little one and a big one. “I didnʼt want to.”

We went up out of the ditch. We could still see Nancyʼs house and the open door, but we  couldnʼt see Nancy now, sitting before the fire with the door open, because she was tired. “I  just done got tired,” she said. “I just a nigger. It ainʼt no fault of mine.” (emphasis mine 308-09)

溝のなかでは月光と影がもつれクエンティンの眼は霞をへだてたようにあまりよく見えていないの だが、こうした月光と影の関係や視界の限界は何を意味しているのだろうか。

ジーザスが隠れているとナンシーが主張する溝という場は、彼女の夫/不義への罪責感に由来する 恐怖のふきだまりとして解釈できるが、人種差別社会という闇において相対的に高い位置にある月光 を白人、低い位置にある影を黒人の象徴ととれば、白人が触手をのばし蔽いかぶさるように影を支配 するイメージが浮上し、白人によるナンシーの恐怖の永続的な産出を示唆する。月光と影の交錯は性 のイメージも含意するが、しかし、9 歳のクエンティンには性の実情が判然としていない様子が彼の おぼろな視力に示される。あるいは、月明かりに照らされた影が折りこまれていく窪みとは、白人性 に無自覚な子どもから白人性を自覚した白人への変容の場でもあるのだろうか。溝の底は、存在の深 みと裂け目であり、風景の不透明さは、自我の発見に近づき、その境を越えたところで〈白人〉が構 築されていく移行を暗示する。

ナンシーの内面をめぐる読者の側の解釈は、紙面の関係上別稿で詳述するが、ここでは、彼女の心 うちすべてが最終的には把握できないことを指摘しておきたい。それはジーザスのゆくえが瞭然とし

ないことと関連しているが、なによりも彼女のつじつまのあわない一連の行動に由来する。ナンシー の内面を見透すような定点は示されない。クエンティンの自己の由緒をめぐるナラティヴと同等の位 相で、ナンシーの謎めいた所為が併存している。しかし、本稿で論じてきたように、クエンティンは 父の行動にこそ問題があると示唆しているのではないだろうか。彼がナンシーの内面にまとまりをつ けないのは、いや、つけられないのは、父の真実を明白に語れないからではないだろうか。語りえな い事情までわれわれに伝えているといってもよい。この小説に点在する不透過なカオスは、近代小説 の枠組みと配置さえも破砕するほどのエネルギーを秘めている。

クエンティンはいわばナンシーを語ることでカオスを開いていくのだが、しかし後述するように、

彼の追想は最終的にそれを語り沈めていく。その意味では、柄谷流にいえば、〈白人〉の起源へと結 ばれていく遠近法的消失点は、黒人の生身を抑圧しつつ、近代文学を成立させる政治的結節点でもあ る(『起源』 222)。小説の冒頭が歴史的遠近法というフレームのなかで語り起こされ、過去の情景が 叙述されていくものの、ナンシーの声と顔は結局、〈白人〉の起源というナラティヴの内部へと沈潜 していくからである。意味づけえない〈黒人〉をめぐる物語的併置は『行け、モーセ』(1942)であ らわれ、そこにフォークナーの近代文学の解体、新たな歴史的領野への企てが神話的空間の開きとと もに示されているだろう。いわば白人をめぐる小説世界と、黒人をめぐる物語世界が、中心化も周縁 化もされぬままに存立した作品といえようが、その分析は別稿で行う。

さて、ここでいったん次男のジェイソンに焦点をあてるならば、ジェイソンがこれまで通り姉キャ ディが自分を連れてきたと主張し責任を押しつける流れに変わりはないのだが、黒人小屋で彼はナン シーの膝に抱えられ(303)、黒人英語を模倣するかのように話していたにもかかわらず(aint の多用  297,  298、Yawl の使用 306)、ここで父におぶさっているときしだいに白人の世界へといざなわれ回 帰していくように思われる。黒人性に調和した少年が〈白人〉の男に変貌する過程を映すかのようで ある。実父と同じ名をもつ彼は、溝という黒人と白人の世界の境界/接点を父と同じく流動的に往還 する。

ただし、ジェイソンが明確な言語的認識を有したかは疑わしい。子どもであっても黒人との差異を 感知しくり返し “I ainʼt a nigger” といい、白人英語で明確に “Iʼm not a nigger” (309)と高らかに宣 言するものの、彼はその場の空気や状況に流されている面が強く、父に背負われたときには父の思想 に無自覚に追従しているように思われるからである。とはいえ難しいのは、白人として大人になった 男も白人以前の子ども時代の記憶を宿す点である。父親のジェイソン(コンプソン氏)がもつ「ふた つの頭」とは、彼の二面性、すなわち、大人の白人が抱く分裂した意識を示唆する。かつて黒人と白 人が未分化であった幼少の白人と、白人として生きていく大人の白人、換言すれば、黒人と自己を差 異化する衝動に目覚めはじめた幼少の記憶を抱きながら――したがって心の片隅に黒人女性への親和 の思い出を秘めながら――黒人女性と関係を享受しその女性を恐怖へと追いこみ「ナンセンス」とい いきって捨て去る怖ろしい顔をもつようになったということである。白人の子を守る父、黒人女性と 関係をもった父、そうしたふたつの側面を表しているようにも思われる。

コンプソン氏は子どもたちとともに溝をあがっていく。動詞の ditch には「見捨てる」という意味

がある。文字通り彼らは黒人女性を捨て去るのだが、ここには白人男性による白人の子どもたちへの 無言の教えがあるだろう。この動詞の ditch に着目した場合、ナンシーの語る女王のおとぎ話(302)

での “ditch” にはジーザスに捨てられ/ジーザスを捨てて、罪から解放され救われたい願望が読みと れる。彼女のおとぎ話は、必ずしも子どもたちのために作られたのではない。襲われそうになる「女 王」は彼女自身であり、自らの恐怖を物語っているのである。黒人女性へのアプローチを黙認する社 会にあっては、それを禁ずる公的な法が成立しない限り、彼女の精神をむしばみ身体を崩壊させるほ どの暴力性がはびこっている。恐怖の物語は、暴力の始源と隠された制度を照らすのである。いずれ にせよここでコンプソン氏は、溝の向こう側の小屋で黒人女性への共感をいっときでも寄せていた子 どもたちを溝のこちら側の白人世界へと連れ帰し、同時に、黒人と白人には冷厳な分水界が存在し自 分たちが白人であることを自覚するよう自らの所為で諭す。子どもたちは溝をのぼることで黒人女性 への共感を放擲し、白人としての自己へと出立する。

おそらくこうした父の無言の教えにもっとも自覚的であったのは、長男のクエンティンであろう。

彼らが溝をのぼったとき、クエンティンは次のような問いを父に放つ。

But we could hear her, because she began just after we came up out of the ditch, the  sound  that  was  not  sitting  and  not  unsinging.  “Who  will  do  our  washing  now,  Father?”  I  said.

“Iʼm not a nigger,” Jason said, high and close above fatherʼs head. (emphasis mine 309)

彼の「これからは誰がぼくたちの洗濯をするの、お父さん」という問いかけは、ナンシーへの

“empathy” を深めた彼の “the threshold of adult awareness” への到達(Volpe 76)、ないしは、「白人 としての自覚」の芽生え(平石  36)を示唆する。また筆者自身が述べたように、「私たち(our)」と いう感覚にナンシーをはじめとする黒人を他者化した事実がほのめかされ、彼の父への追従の瞬間で もある(149-50)7。ならばその追随は、物語を語り聞かせてくれた黒人女性と精神的に距離を置くこ とを意味する。白人であること、白人の側に立って生きることは、子ども時代の喪失、黒人との差異 なき生活の喪失と同義である。認識は喪失の痛みであり、喪失は認識の痛みでもある8。そこにはナ ンシーが不在と化すことの淋しさと不安から父に寄り添い、ナンシーへの慕情を察してほしい切なさ も滲んでいるのかもしれない。

だがより重要なことに、そう問いかけたとき、9 歳の時点では不分明であったろうが、24 歳になっ て語り直すさいには、父の暗部を鋭くえぐったことを明確に認識しているのではないだろうか。

その暗部とは、父のナンシーとの秘かな密通である。これまでの議論を整理するならば、ジーザス という彼女の罪責感と恐怖の幻影に怯えるナンシーは、小屋に戻る途中に大声で話すが、この挙止の 裏側に隠されているのは、コンプソン氏が過去に “ditch” を渡り、黒人小屋とコンプソン屋敷を往来 していた可能性である。白人は黒人の家の台所に自由に入れるというジーザスの発言(292)に示唆 されるように、黒人小屋に白人男性が出入りしていたことは確かであるが、ここでさらに暗示される

ドキュメント内 <906C95B68B D38382D967B95B62E706466> (ページ 107-110)