第三章 コモン・ロー・共和主義・民主主義~ Sedition Act 論争と Libel の法理
七 小括~古典古代的な共和主義からスコットランド啓蒙へ、イングランドのコモ
本章は、新しいデモクラティックな政治文化を背景とする憲法解釈と、主な政治主体を
「財産と教養」があるものに限る、古典古代的な政治文化を背景とし、コモン・ローの法 理を基礎とする憲法解釈が対立した、1798年のSedition Actに関する論争を考察し、
ケント、ストーリーの修正第一条解釈を検討した。この論争とその後の展開に関する言説 を分析する中で浮かび上がって来るのは、上記の政治社会の変容の中で、アメリカの政治 社会に重大な影響力を持つ修正第一条解釈が、二つの大きな解釈の枠組みの中で衝突した ことである。この相克の中で、コモン・ローの法理の憲法への影響が生じたものと考えら れる。そして、このSedition Act論争に見られる相克の背景には、①アメリカの政治文化、
政治社会の変容とそれに対する政治経済思想的な認識枠組み、②コモン・ロー継受に関す る相克、③成文憲法なきイギリスの法であるコモン・ローと近代成文憲法の構造的な配置 の問題、という三つの問題があったものと分析できる。
「財産と教養」を有する者が政治主体として想定され、そういったジェントリー的な政 治文化を柱にした古典的な政治社会から、ordinary peopleが主な政治主体として想定され るデモクラティックな政治社会へと変わっていくアメリカ政治社会の変容の中で、憲法や 法を支える原理・思想の側面において新しい考えが生じ、大きな対立が生じることになっ た。その政治社会の変容は、同時に、イングランドという異なる政治、社会体制を持つ国 の法体系であるコモン・ローを、アメリカにいかに継受すべきであるのか、その在り方を めぐる対立を孕んでいた。すなわち、デモクラシーの台頭に対して法的な安定性を重視し、
ジェントリー的な政治文化を引き継ぎ、「恭順に基づく政治」の政治文化を保存させようと する考えに親和的な者は、その母国であるイングランドの国制に比較的違和感なく、コモ ン・ローの継受に賛意を示したが、デモクラシーや信教の自由の観点からアメリカとイン グランドとの国制上の断絶を重視する者は、コモン・ロー継受に批判的であった。さらに、
前述の政治社会の変容、法の継受という問題は、新たな国家、社会における憲法のありか たという問題を生じさせた。すなわち、いわゆる成文憲法なきイングランドにおいて機能 したコモン・ローの法理、準則が、新たに出現した近代成文憲法の意味付けにどのような 役割を果たすべきなのか、憲法とコモン・ローがどのように配置されるべきなのか、とい う憲法とコモン・ローの配置関係に関わる問題である。302
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アメリカに大きなインパクトを与えたブラックストーンの『釈義』においては、Public WrongsとPrivate Wrongsの区別が導入され、Sedition libelは、Public Wrongsという 政府や共同体を保護法益とした法概念のなかに収容されていた。すなわち、ブラックスト ーンは、『釈義』において、Public、Privateの概念を導入し、雑多なwrongsの集まりを 整理し直し、犯罪と非行を、社会的、集合的な権能(capacity)を持った一個の共同体、
共同体全体に害悪を加えるPublic Wrongs「公的不法(違反)行為」とし、それをpublic law の侵害としていた。303 ブラックストーンの釈義の段階において、もっぱら私法的世界 の法であったコモン・ローにおいて、公法的要素を帯びた法概念がWrongs(不法(違反)
行為)において構築されていたのであり、Sedition libelはその中に収容されていた。304 その背景には、伝統的に state の概念が乏しいイングランドにおいても state の概念が存 在し、それを前提とする近代的な公法概念の萌芽が存在したことを示しているものと言え るかもしれない。だが、前述のように、ブラックストーンにおける「古来の国制」論と国 会主権の調和という名誉革命体制の論理と、それを支えるジェントリーの人的な支配を前 提としたブラックストーンの『釈義』の論理では、<憲法-国家―人民>という枠組みを 基にした、成文憲法に基づく公法の体系や、抽象的な個人の権利、人権の概念を構成する ことはできなかった。デモクラティックな社会へと変容し、人権条項を有した近代的な成 文憲法を制定したアメリカにおいて、始めてその構成の可能性があった。だが、アメリカ においては、コモン・ローというイングランドの国制を前提とした法が大きなインパクト を持っており、建国初期のアメリカにもジェントリー層類似の階層が存在し、彼らを支持 層としたフェデラリストは、これまで見たようにジェントリー的な政治文化と、それに親 和的なコモン・ローの継受に前向きであったと言える。この相克の中で、コモン・ローに 対して、新しい憲法、特にその人権条項がどのような位置を占めるのか、ということが
Sedition Act論争の背後にある「法の構造」に関する重要な問題のひとつであったと考え
られる。
ブラックストーンから、ケント、ストーリーらの体系書における言論、出版の自由の位 置を検討することによって、“Public Wrongs”(におけるlibelと区別されたものとして言 及)→“Of the Absolute Rights of Persons”(good nameに対する侵害と区別されたもの として言及)→“Amendment”(修正条項)というように、代表的な体系書を検討すると、
徐々に憲法上の権利としての位置を得てきたことが理解できる。だが、ケント、ストーリ ーと法学体系書が展開していく中でも、Sedition libelというコモン・ローの法理はその位 置をしっかりと確保し、体系書レベルにおいても、実務上でも、憲法解釈そのものを規定 するインパクトを持つこととなった。
だが、ストーリーのSedition libel 法理の正当化の論証は、イングランドのコモン・ロ ーやイングランド国制に対する単なる憧憬に由来したものでは無かった。「近代社会」にお けるデモクラシーという、それ以前とは質的に異なる政治社会の認識が存在しており、こ れに対応するための法理としてコモン・ローが用いられ、社会契約理論、自然権理論とは 違い、まさにコモン・ローの法理によって、「近代的」な政治社会の弊害に対処できるもの とされていた。
Sedition Act及びSedition libelの法理に関する論争は、以上の三つの問題を凝縮したも のであったと考えられる。そして、本章で検討してきたSedition Act及びSedition libel
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の法理に関する論争、すなわち、アメリカ建国期におけるコモン・ロー解釈の憲法へのイ ンパクトは、以上の問題を背景にし、建国期から19世紀にかけての「出版の自由」に関 する論争のひとつの帰結であったと考えられる。
これまで見てきたように、政治社会の形成に関わる修正第一条における、コモン・ロー
上のSedition libelの法理およびそれに基づく解釈は、19世紀の判例法理においても、
さらに、ケント、ストーリーの『釈義』にみられるように、影響力の強い体系書の中でも、
それは根強く残り続けた。その結果、修正第一条に関しては、19世紀全般を通じてこの コモン・ロー解釈が支配的なものとなった。コモン・ローの Sedition libelの解釈方法に よって、修正第一条におけるコモン・ロー上の法理に基づく憲法解釈の基盤が形成され、
これをどう破るか、これと異なる憲法上の原理に基づく解釈方法をいかに構築するのかと いうことが、革新主義時代以降の課題となった。305
以上のように本章は、憲法とは異なるコモン・ローの解釈方法が憲法解釈を規定すると いう伝統の始まりのひとつとして、修正第一条の中でも特に政治社会の形成に関わる、出 版の自由を主題に、1798年のSedition Act論争から始まり、ケント、ストーリーの著 作を検討した。
憲法解釈全般において、建国期のアメリカでは、ケントやストーリーにみられるような 影響力の強い法律家、法学者たちが、彼らが馴染んでいた政治文化、政治思想的フレーム ワークからあるべき社会を構想し、動かしえない現実としてデモクラティックな政治社会 に直面しながら、スコットランド啓蒙思想のバックボーンや、法律家としても、自己の専 門性を担保するコモン・ローの知識に依拠し306、その知識を用いて憲法解釈をし、修正 第一条解釈を行うことによって、憲法の規定や、修正条項をコモン・ローに基礎づかせな がら、それまで政治社会像が前提としてきた、「財産と教養」を有する市民から必ずしも構 成されない新しいデモクラティックな政治社会のコントロールを模索したのであった。
次章では、経済社会、「経済秩序」に関わるケント、ストーリーの著作、判例法理を分 析し、その「経済秩序」の構想を検討する。
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