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子どもの両義的な発話 の生成と教師の対応(研究2)

1.問題と目的

本節では,学級集団は,集団としての教室談話の生成において,発話

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行為者の意志や制度的環境に対して,どのように対応を行っているのか, ということを明らかにする。具体的な課題としては,次の三点を明らか にする。一つには,子どもの発話のうち,課題解決の文脈においてフォ ーマルともインフォーマルともとれる「両義的」なタイプの発話がどの

ように生成されているのか,ということである。二つには,それに教師 がどのように対応しているのか,ということである。三つには,子ども の「両義的」なタイプの発話は,教師に対応されることで,学級の教室 談話の進行においてどのような意味をもつのか,ということである。

従来,授業の言語的相互作用に関する研究は,科学的な内容をもち, 公式度の高い表現形式で生成される発話を,主たる分析対象としてきた。

それに対して,近年,言語実践の具体性(茂月, 1997b)に着目する研 究では,教室談話に複数の発話タイプが存在することを指摘している。

例えば, 「科学的概念のレジスター」と「生活経験に基づくレジスター」

(ワトチ, 1995), 「共通語」と「方言」 (茂呂, 1991, 1996a, 1996b, 1997b, 1997d, 1999), 「丁寧体」と「普通体」 (岡本, 1997)などである。これ らの研究は,授業における発話が, 「科学的概念」, 「共通語」, 「丁寧体」

といった公教育において正統的であるとみなされている点で「フォーマ

ル」なタイプと, 「生活経験」, 「方言」, 「普通体」といった日常的な認 知表出や表現の手段とみなされている点で「インフォーマル」なタイプ に分類されうることを明らかにした。つまり,教室談話が教育システム という制度的環境や学級集団の社会的環境に加え,非制度的なもの,個

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人的なものから成立していることを明らかにしたといえるだろう。

だが,授業における発話生成の当事者である子どもや教師にとって, 授業における発話タイプは,フォーマルかインフォーマルかに収欽でき

るのだろうか。前節で論じたように,子どもは授業の社会的制度的環境

‑の対応として,独自の発話スタイルをと?ているならば,授業の当事 者による発話タイプの運用は,課題解決が進行している「今‑ここ」の

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状況においてダイナミックに展開するのではないか。そうすると,次の 二つの問いが立てられるだろう。

第一の問いとして,子どもの発話生成は発話タイプの使い分けによる のだろうか。先行研究からは,子どもの発話生成について,次のことが 予想される。

一つには,子どもの発話生成は課題解決‑の関与の仕方を反映してい るだろう。例えば,社会科の討論場面での子どもの発話は,共通の課題 についてのものであっても,発話の意味内容や表現の形式は個人的な経 験や印象の表出である場合もあれば,科学的概念の使用である場合もあ り,多様である(山住,‑1994, 1998)。子どもの発話内容は,自分なりの 観点や経験に基づく,課題内容との関わり方に応じているといえる。ま た,国語の討論場面では,はっきりとした理由や根拠がなくても意見を 述べ,話し合いのなかで他者の意見を取り入れ,自らの読みを構成して いく者もいれば,自分の意見が確定するまで発話を留保する者もいる(佐 藤1996;佐藤・星野・竹本, 1987)あるいは,単独では自信がなくて

も,他者と共感できる点について自分なりの疑問を提示することで,算 数の問題の構成に参加する者がいる(大谷, 1997)。子どもの発話内容

は,子どもなりの課題解決の進め方も反映しているといえる。そうする

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と,子どもは,課題解決の活動において,インフォーマルなタイプの発 話を用いることもあるだろう。

二つには,子どもの発話生成は授業進行‑の意志を反映しているだろ う。例えば,子どもは,教師からの指名を拒絶したり,授業の続行を要 求するときには,丁寧体ではなく普通体を用いて,教師に非公式に交渉 しようとする(岡本, 1997)。また,自分なりのこだわりや合理性の追 求により,教師の発話に茶々を入れたり反発するなど,自己中心的に発 話を生成し,他者との乳蝶を生みながら課題解決を遂行する者もいる(本 山, 1998, 1999)。さらに,自らの経験や考えが表出できない場面で,い かにも授業に参加しているようにみせるために独特な韻律特徴(例えば

「いいでェ‑す」)を用いることもある(宮崎, 1996a, 1996b)子ども の発話内容は,教師の授業進行‑の追随や課題解決の遂行‑の不満を表 したり,不満から生じるストレスを軽減するための反発ややり過ごし方 を反映することもあると考えられる。そうすると,一見フォーマルなタ イプの発話で教師に対応するようにみせながら,同時に,個人の欲求を 充足させようとすることもあるだろう。

以上のように,子どもの発話生成は,子どもなりの課題解決の状況や 授業進行‑の関わり方を反映している。そうすると,当事者としての子

どもの発話の運用は発話タイプの使い分けにあるのではなく,授業にお ける,学級集団のローカルな文化と制度的装置のなかでの個人的な経験 や意志の発現であるといえるのではないか。そうだとすれば, 「フォー マル」, 「インフォーマル」のほかに,次のようなタイプをみいだせる

のではないだろうか。すなわち,課題解決の文脈に即していろ点ではフ/

オーマルといえるが,認知表出としては不完全さを残していたり,個人 的経験や意志に基づいていたりする点でインフォーマルとみなすことも できるタイプである。このような発話は,フォーマルともインフォーマ ルともとれるという点で「両義的」なタイプの発話(以下,両義的な発 請)であるといえる。

だが,授業は学級としての課題解決を目的としており,教室談話は学 級としての課題解決の手続きについての合意形成や課題解決成果の共有

を目指して生成される。上述のように,授業における子どもの発話が彼 らなりのこだわりや経験に基づいているとするならば,教室談話は錯綜 し,学級としての課題解決を行うという授業の目標が達成されなくなる?

そうすると,教師としては,協同的課題解決の遂行と成果の共有という, 学級集団のローカルな文化を生成し維持するために,教室談話の管理者

として,何らかの措置を講じなくてはならない。そうすると,第二の問 いとして,両義的な発話に対して,教師はどのように対応するのか,と いうことを問わなくてはならない。

教師は,子どもの発話が自らの進めようとする授業進行に沿っていた り貢献しうる内容であれば,両義的な発話であっても,肯定的評価や支 拷,同調を行うだろう。しかし,そうでない場合にはどのように対応す

るのだろうか。例えば,国語科の話し合い場面で,子どもの意見が教師 の教材解釈と異なっていると,教師は,その子ども‑の質問を継続した り発話内容を追求することによって,自らの教材解釈に子どもの発話を 近づけるようにする(樋口, 1995 。また,同じく国語科の授業におい て,学級全体の話し合いのなかで生じた,ある子どもの「こだわり」に 基づく「枝葉の議論」を先に行わせてから,再び学級全体の話し合いに

戻すこともある(佐藤, 1996)。このように,教師は,子どもの発話が 教師の進めようとする課題解決や授業進行に沿っていなくても,明示的 に否定することはなく,個人的な発話意志の受容と学級全体での話し合 いの促進との両立に向けて対応している可能性がある。

ただし,両義的な発話のインフォーマルな側面は,否定的評価や無視 の対象ともなりうる。例えば,教師は,子どもによる非公式な要求や発 話の拒否を,丁寧体を用いた公的権限の行使によって処理する(岡本, 1997)。このように,授業進行を停滞させるような子どもの要求や教師 の働きかけ‑の拒絶,ふざけを,否定的な評価を与えるたりうけながす

ことで抑制し,授業進行が滞るのを回避しようとするのではないか。

さらに,教師自身が両義的な発話を用いることもあるだろう。例えば, 東北地方のある学級で,授業ではふさわしくないとされる「方言」の, 教師自身による使用が,子どもに生活経験を問い直させることになり, 話し合いを活性化させ授業進行の停滞を打開した(茂呂, 1991)。この

ように,教師は,両義的な発話を自らも用いて話し合いに導入すること によって,子どもの発話機会や内容の自由度を拡大し,子どもの発話生 成を促進することで,授業進行の円滑化を図る可能性がある。

以上より,子どもの両義的な発話‑の教師の対応は,課題解決の促進 や授業進行の円滑化に向けられているといえる。つまり,教師は,授業 進行の管理者として,子どもの両義的な発話に対して何らかの対応を行

うことで,課題解決の達成を行おうとしている可能性がある。そうする と,子どもの両義的な発話は,成員によって課題解決の達成が目指され る,授業という社会的制度的環境における,行為者としての子どもの意 志や経験の能動的な表出を実現すると同時に,学級文化の生成と維持に 向けた何らかの対応を教師から引き出し,教師からの対応を受けること