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わが国において、「所得」に対する課税が行われるようになったのは、明治 20(1887)

年所得税法からである。その後、明治32(1899)年所得税法改正によって、第1種所得 税として初めて法人所得課税制度が導入された。

明治 32(1899)年所得税法においては、その体系の未熟さゆえに法人の決算を支配し

ていた商法の影響下にあり、課税所得計算の原則等は法人の損益計算、すなわち、財産法 による「純資産の増加」を利益とする商法の規定に大きく依存していた。その課税所得概 念は、「一定期間におけるあらゆる純資産の増加」を「所得」と観念する「純資産増加説」

に依拠しており、損益の年度帰属の基準として、原則として、「権利確定主義」を採った ものだった。その後、大正期に入り、法人企業の発展や軍費の増大を中心とした財政需要 を背景に、法人所得課税制度は当初のそれより様変わりしていくこととなる。

そこで本章では、わが国法人税法における課税所得概念を理解するため、課税所得概念 がどのように形成され展開されていったか、そして、法人税法第22条第2項に規定する

「無償取引」に係る収益の認識(収益発生事由)を解明するため、引き続き、大正期を中 心に、第1種所得税とこれに対する附加税および法人資本税等が統合され「法人税」が創 設された昭和 15(1940)年法人税法創設までの法人所得課税における課税所得概念とそ の計算構造を研究する。

第1節 大正初期の所得税法

明治32(1899)年所得税法における第1種所得税は、「所得税ヲ課セラレタル法人ヨリ 受ケタル配當金」は非課税とされていただけでなく、課税の公平を図るためとはいえ、個 人所得の場合の累進税率に比し比較的低率の比例税率が適用されていた。このため、日露 戦争(明治37年2月~明治38年9月)による所得税の増徴を契機に、税負担を回避す るための法人成は依然として継続していた1。戦費確保による所得税の増徴および法人成 に対応する形で、明治37・38(1904・1905)年に第1次・第2次非常特別税により増税 が行われた。

第1次非常特別税法(明治37年法律第3號)の増税は、第1種および第3種の所得に 対し本税額の7割を増徴した2。その後、明治38(1905)年法律第1號により行われた第 2次非常特別税法では、本税においてさらに8割を増徴し、特に法人の所得である第1種

1 高橋誠「明治後期の所得税制―日本所得税制史論 その二―」『経済志林』第27巻第1號、1959年、

103-113頁。

2 雪岡重喜『調査資料 所得税・法人税制度史草稿』(国税庁、1955年)、6頁。

「第2種に対し増徴を行なわなかつたのは、第2種所得は主として公債の利子から成るものである から、公債利子に対する課税をなるべく低位に止め、戦時公債の価格を維持する必要に出たもので ある。」(同上、14頁)。

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所得税は次のように改正された。第 1 種所得税では、法人所得を甲(株主または社員 21 人以上の株式会社および株式合資会社の所得)と乙(その他の法人の所得)とに 2分し、

甲に対しては従来通りの比例税率を適用し、乙に対しては個人企業に近いものとして、所 得税を8段階に分け累進税率を適用した3

このような増税の基礎となった非常特別税法は、戦時における一時的な措置として日露 戦争後速やかに廃止されるはずであったが、戦後経営にもとづく財政需要の増大のため、

一時的な措置であった非常特別税法は戦後も継承され、漸く大正2(1913)年所得税法改 正の機会に廃止されたのであった。

大正2(1913)年所得税法改正(法律第13号)では、非常特別税法によってはじめら

れた、合名・合資会社および少数株主(20 人以下)からなる株式会社および株式合資会 社に対する分離課税が恒久化された。また、同所得税法第3 条は、「第一種…ノ税率ヲ適 用スヘキ場合ニ於テハ法人ノ事業年度ノ月數ヲ以テ十二月ヲ除シタル數ヲ其ノ事業年度 ノ所得金額ニ乗シタルモニ對シ適用シテ算出シタル金額ヲ十二分シ其ノ事業年度ノ月數 ヲ乗シテ其ノ税率ヲ定ム」と定められ、累進税率の本格的導入に伴い、事業年度の月数の 異なる法人の所得について不公平を生ずることを回避するために、所得を事業年度の月数 に応じて調製する規定を設ける等の技術的な規定が整備されるとともに4、法人はその申 告において各事業年度の財産目録、貸借対照表、損益計算書および所得の明細書の添付を 要することが定められた5

大正2(1913)年所得税法改正における第1種所得の算定については、同所得税法第4

条第1項において、「第一種ノ所得ハ…各事業年度總益金ヨリ同年度總損金ヲ控除シタル 金額ニ拠ル且シ第二條ニ該當スル法人ノ所得ハ此法律施行地ニ於ケル資産又ハ營業ヨリ 生スルモノニ限ル」と規定した。また、同所得税法第4条第2項は、「總益金中此ノ法律 ニ依リ所得税ヲ課セラレタル法人ヨリ受ケタル配當金又ハ此ノ法律施行地ニ於テ支拂ヲ 受ケタル公債社債ノ利子アリタルトキハ之ヲ控除ス」と定め、その文言は明治32(1899)

年所得税法第4条第1項第1号および第4条第2項とほぼ同様のものであった。

この大正 2(1913)年所得税法第 4 条第 2 項の規定からもわかるように、当時の第 1 種所得税においても他の法人より受ける配当金については非課税とされていた。当該規定 の解釈によれば、「他の法人の株式を所有する場合に於て、其の爲めに受くる利子又は配 當金は當然其の總益金中に包含すへきものなるを以て、若し其の益金を以て直ちに所得金 とするときは此の法律に依り所得税を課せられたる法人より受けたる配當金…に付いて は二重に所得税を負擔するの結果を來し穏當ならさるものなるを以て當然之を控除する

3 同上、6-7頁。

高橋誠、前掲注1、104頁。

4 吉国二郎・武田昌輔『法人税法〔理論編〕 改訂3版』(財経詳報社、1972年)、91頁。

5 大正2年所得税法第7条「第一種ノ所得ニ付納税義務アル者ハ命令ヲ以テ定ムル期間内ニ各事業年 度ニ於ケル財産目録、貸借対照表、損益計算書及第四條ノ規定ニ依リ計算シタル所得ノ明細書ヲ添 付シ政府ニ申告スヘシ」

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ものなりとす」6と解されており、当時の法人観においても法人を独立の課税主体と捉え ていたことがわかる。しかし、明治 32(1899)年と同様に、租税政策上および負担関係 を考慮した結果、配当所得を非課税とする措置をとったことにより、「法人擬制説」の立 場へと傾いたのである。

また、明治32(1899)年所得税法と同様に、第1種の所得を算定する際にその柱とも なる総益金および総損金については法文上には明確な定義は与えられていない。したがっ て、その内容については解釈に頼らざるを得ない状態であったと解される。

総益金および総損金の解釈について、当時、大蔵省に所属し所得税法改正にも携われた 武本宗重郎氏は、「各事業年度總益金より同年總損金を控除したる金額を以て所得とす、

而して益金又は損金の性質に付ては税法中別に規定なしと雖、商法の規定に依れは損益 は畢竟會社財産の增減を云ふものなるが故に、本法に於ても亦此の意味なりと解すへき ものとす、故に其の事業年度に於ける總収入金、法人の所有せる資産價格の增加及其の 事業年度内に於て法人に屬せし權利の價額等は總て益金として計算すへきものにして其 の營利の事業に屬すると否と又一時の所得なると否とを問はさるなり、又法人の資産價 額の減損額及其の事業年度内に於て其の性質上利益の有無に係はらす負擔せる支拂義務 額を以て損金とすへきものとす」7と述べられている。

したがって、総益金および総損金の解釈および損益の年度帰属については、大正 2

(1913)年における第1種所得税においても明治32(1899)年第1種所得税と同様の 解釈がなされていた。つまり、総益金および総損金とは、会社財産の増減が損益である と商法が規定しているものとして、第1種所得税においてもこれを援用するとしている ことから、「総益金=収入+財産評価益」および「総損金=支出+財産評価損」と解され ていた。また、損益の年度帰属については、「事業年度内に於て法人に屬せし權利の價額 等は總て益金として計算」し、「事業年度内に於て其の性質上利益の有無に係はらす負擔 せる支拂義務額を以て損金」としていることから、「権利確定主義」に則った権利・義務

(債権・債務)まで含めた広い意味で用いられている。しかし、「法人の所有せる資産價 格の增加」もまた、課税所得に含まれることから、「権利確定主義」は、原則的なもので あった。

また、「其の營利の事業に屬すると否と又一時の所得なると否とを問はさるなり」とい う解釈から、総益金には反復的・継続的利得のみでなく、一時的・偶発的利得である所 有財産の評価益および恩恵的利得も包含されていることとなる8。すなわち、課税所得概 念においても明治 32(1899)年と同様に、「一定期間におけるあらゆる純資産の増加」

を「所得」と観念する「純資産増加説(包括的所得概念)」であったと考えられる。ここ でも、明治32年同様、所有資産の評価益も課税所得に含めていたことから、当時の「純

6 武本宗重郎『改正所得税法釋義』(同文館、1913年)、94頁。

7 同上、93頁。

8 金子宏『租税法〔第18版〕』(弘文堂、2013年)、178頁。