• 検索結果がありません。

「共創」の関係性の考察に用いた手記

第 7 章 誰もが安心して暮らせる社会に向かうヘルスプロモーショ ンの思想 ンの思想

巻末資料 2 「共創」の関係性の考察に用いた手記

巻末資料 2 「共創」の関係性の考察に用いた手記

手記:同居人Cさん(アルコール依存症)の入院まで (作成日:2013年12月10日)

※第5章1節3項「閉じ込められるものなら」は、この手記からの抜粋である。

ここでは、共に生きる仲間として対等に出会うということ、そこで関係性を構築すると いうことを具体的に描くために、筆者が所属していた1999年から2002年の間におこった エピソードを記述する。まずは、筆者が所属していた場の概要を説明する。

「わっぱの会」では、1993年から愛知県知多郡で本格的に無農薬有機農業に取り組み始 めた。これは、無添加・国産小麦によるパン作りを皮切りに、添加物や化学調味料を使わ ない食品製造に力を入れてきた「わっぱの会」にとって、その材料を自分たちでまかなう、

消費する側ではなくて生産する側にたつという意味を持つプロジェクトであった。そのは じまりは、「わっぱの会」活動歴10年以上の健常者のTさんが農業を中心とした場づくり を目指して知多へ移り棲んだことにある。そして、その町に暮らし、少しでも外で働く機 会を求めていた精神障害者のNさんと出会い、精神障害者と共に働く活動が展開していく。

1993年からの3年間は、農場とTさんの住処兼事務所のみを拠点として、精神障害を 持つ者たちと農作業をすることが活動の中心だった。1996年、農場に通っていたメンバー の一人、K君の家を改築し、共同生活体回春堂(以降、回春堂)を開所する。ここに、地 域に受け皿がないために長年入院し援護寮1生活訓練を受けていた精神障害者が入所した。

活動開始当初は2人で細々と農作業をしているのみだった活動も、いつしか10名を超え るメンバーが所属するようになり、2000年には農業と農産加工を主軸とした「わっぱ知多 共働事業所」と地域生活支援の拠点となる「ひろばわっぱる」を開設、共同生活体も2つ になり、一気にメンバーが30名を超す大所帯となる。筆者は、この2つの施設の開所の1 年前から開所後2年間の計3年間、立ち上げのために3年間というあらかじめ期限つきの 約束で、活動に参加した。

ここから、筆者とCさんの間で起こった2001年のエピソードを、当時の日記やメモと 記憶から記述する。ここでいったん、執筆の視点を筆者から「私」に移すこととする。

私が活動に参加した1999年4月当時、わっぱの会・知多のメンバーは、10名前後だっ た。知多での農業を中心とした場づくりをはじめたTさん、そのパートナーのAさんが、

1 1993年の障害者基本法制定を経て1995年の精神保健福祉法制定により、医療・保健領

域のみならず福祉領域での精神障害者施策が進められようとしていた時代であり、精神病 院でも社会的入院を軽減していく取組が始まっていた。その一つが援護寮である。援護寮 は入所期限が2年と決まっており、そのため、回春堂の開所は、退所後の住処を探してい た病院・援護寮のケースワーカーにとっても期待を持って受け止められた。

巻末資料 2 195 主に場をきりもりしていた。精神病院への入院歴がある人が7~9名前後、そのうち5人

(4月の半ばに1人退所しそれからは4人)が回春堂で暮らしていた。この時期、次年度 に事業所のオープンを控え、その体制を整えるために健常者メンバーの増員があり、私と もう2人の健常者メンバー(精神障害者支援の専門家、福祉領域で働いてきた退職シニア)

が活動に加わった。

先述したように、「わっぱの会」は社会福祉法人共生福祉会としての顔を持つ。共同生活 体は、精神障害者地域生活支援事業の中に位置付けられたグループホームとして補助金を 受けていた。私はグループホーム回春堂の世話人の肩書を持つことになり、回春堂から車 で10分程度のところに住むこととなった。4月1日付で仕事がはじまる。朝、回春堂に迎 えに行き農場へ出勤、一緒に農作業をした後、夕方回春堂へ戻る。週のうち何回かは夕飯 を一緒にたべる、といった日々が始まった。当時の私は、福祉については全くの素人であ ったし、精神保健の常識も知らなかった。精神病については学部時代から関心を持って本 を読み漁っていたが、精神病で入院歴のある人との会話がどのように成り立つのか、その ための注意事項というような教科書的な知識は全く持っておらず、それらは、精神病院の 入院歴のある回春堂の住人とのやりとりから、直に学んだ。

ここに、活動初日から付けはじめた日記がある。精神障害者とされている人たちとどの ように出会っていったかや、活動を始めた頃の日常の様子が読み取れる内容となっている ので紹介する。わっぱの会では、お互い愛称で呼び合うことがごく自然なことになってい て、私はKちゃんと呼ばれていた。下記の回春堂の住人5名以外の登場人物としては、知 多の場の切り盛りを実質上担っていた、Tさん(知多の活動を始めた人)、Aさん(Tさん のパートナー)がいた。以下、最初の一週間の日記である。文脈を理解するに必要だと思 われる部分については、カッコ内に説明を加えた。

〈回春堂の住人5名(4月の半ば以降でOさん退所)〉

K君(50代男性、統合失調症で入院歴10年以上、回春堂はK君の家を改築して作った)、 Cさん(40代、統合失調症で入院歴20年程度、地元出身)、

Rちゃん(66歳、精神遅滞で入院歴30年以上)

Hさん(60代、非定型精神病で入院歴13年以上)。

Oさん(60代、統合失調症で入院歴7年以上、その後も短期入退院を繰り返し)

========================================

1999年4月1日

仕事始め。フルタイムでの仕事は本当に久しぶり。まあ、良い出来だったのではないか思う。

楽しかった。皆笑顔だった。

巻末資料 2 196 K君の朝の表情が重く、うつろで気になったが、帰る頃には普通の表情になっていた。帰り の車の中でも良く話ていた。「よくこんな田舎に来たねー、俺だったら敬遠するよ」とのこと。

「そんなこといいながら、自分はずっとここにいるじゃん」と私。

夕食当番はCさんとK君。私が加わることで、なんとなく皆うきうき、そわそわしていた気 もする。うどんを8個かわなきゃだの、鍋一つで入りきるかなぁだのといいながら、手際よく 美味しいうどんがつくれた。

Hさんは、足の水を注射器で抜いてもらい足も痛くなくなりましたとのこと。我々が戻った 時には、ビールを飲みにいっていたらしく、しばらくしてもどり、すぐに笑顔でお帰りと一声。

「あー、今日はKちゃんが送ってくれましたか。あしたは、病院にいってからいきますからよ ろしく」とニコニコ。

Rちゃんは、なんだかそわそわと、わたしのまわりに陣取っていた。タバコ屋まで案内して くれた。それからライターを3つもくれた。かわいいなと思った。

Rちゃん、Hさんの部屋をちょろっとのぞいたが、こぎれいでいい感じになっていた。

6時40分帰宅。

4月2日

Cさん、K君、H さんを乗せて出発。Rちゃんは気分が悪く、頭が痛いとのことでお休み。

どうやら、お金使い果たしちゃったことが関係しているらしい。

HさんをM病院で降ろし、K君をK駅でおろし、Cさんと二人で畑へ。運転中の会話によ ると、Hさんは大工の見習いで、大宮、浦和などに住んだことがあり、M病院には13年間入 っていて、この間 17 年ぶりに故郷の福岡に帰ったそうだ。年をとるとあちこち悪くなります なといいながら、「Kちゃんは若くていいね。」「Hさんも若い時あったでしょう」というと「あ ははあ、ありました。」と笑う。「足の他に悪いところありますか?」ときくと、「足と頭、脳で す。」と答える。どうやら、頭とは、精神のことをさしているらしい。「精神病院というところ は、一度入るとなかなか出してもらえんのです。ようやく出てきた時には年をとってしまいま した。」とのこと。なんとなく胸が痛い。

腐った人参の選り分け作業やレタスの定植をしながら、Cさんとあれこれ話す。主にCさん の病院歴について。Cさんは鉄工所で勤めていて、若いころはよくスナック通いをし、お金を 借りてでも飲み歩いたほど飲むことが好きだったそうだ。28の時にM病院に入院。分裂病ど 診断される。おもな症状は幻聴だそうだ。幻聴の声は「天才だ」そうで、たあいないことをは なすが、お腹が痛いとかそういうことも教えてくれるらしい。今でも聞こえるが気にならない とのこと。陽気で鼻歌を歌っているときもあるらしい。しばらくしてから、Cさんに、「今も幻 聴きこえているの?たったいまも?」と聞くと、一瞬とまって私の目をみて、それから「きこ えとるよ」と答えた。なにをはなしているのか等聞きたかったが、あまりに質問攻めになりそ うだったしやめた。