第 5 章 「共創」の関係性に生きるということ
本章では、「わっぱの会」や「もやい」に観られる「共創」の関係性とはどのような質 を持つものであるかを探求する。これは、「共創」の理論化をするための材料をさらに用意 するためである。これまでに行ってきた「わっぱの会」と「もやい」の実践の考察からは、
これらの団体の活動を牽引してきたものが、「共創」の関係性であったことを述べてきてい る。本章では、「共創」の関係性そのものに着目し、その力動や特徴を明らかにする。
「共創」の関係性を分析するにあたり、ここでは、第3章2節1項で用いた「わっぱの 会」の齋藤の言葉を再び用いて、彼らの活動の展開において障害を持つ者と持たない者の 関係性が基盤であったことを再認識する作業から始める。以下の引用は、齋藤が、「わっぱ の会」という場について、「公私を混同しちゃあかん、私を持ち込むな、みたいな感覚は全 くない」と語り、障害を持つ者も持たない者も皆、自然体で付き合う場であることを語っ た中での言葉である。
そういう風にして(好き嫌いといった感情を抑えず自然に)つきあうのがあたりま えだから、そのやっぱり、サービスの利用者だっていう考え方だったら、サービスを 提供できる時は提供してサービスが切れたら関係ないよってことになるわけで、でも、
そうじゃなくて、(わっぱの場合、)特定のこの人との関係があって、特定のこの人と のつながりを大事にしたいってことになれば、サービスを提供してるかどうかってこ ととは関係なく、、それをとことんこだわって大事にしたい、ということになってくる、
そういうことだったと思うんで…
この言葉は、「わっぱの会」の40年以上の実践の中には、メンバー間(障害当事者と健 常者)に、「つながりを大事にしたい」という関係、きってもきれない関係にある者たちが 数多く存在することを示している。その関係性があってこそ、「わっぱの会」は、山積する 課題を抱え矛盾を抱えながらも、いくつもの事業所を開所し、サービス分野を拡大し、地 域社会の中に「共に生きる」場を拡大する活動を展開することができたのであろう。
これは、「もやい」の場合も同様である。そのことは、第4章の2節で、次々と新たな場 が創られていった経緯で示してきたとおりである。「貧困」というテーマに向きあう中で、
行動へと駆り立てられていくという力動は、まさに「もやい」設立時の湯浅と稲葉にもみ られたものである。それは「駆り立てられる」というよりは、「押し出された」というべき かもしれない。湯浅と稲葉は、連帯保証人提供事業を行うにあたって、設立当初から数年 間は個人的に連帯保証人になってきている。もちろん、そのことの責任は承知の上である。
彼らは、誰かがやらなきゃならない、誰もやらないなら、自分たちでやるしかないという
第 5 章 「共創」の関係性に生きるということ 132 決断を下している。これは、自ら望んだ行為、もしくは、自己の願望の充足に向かった行 為といった種類のものとは異なる。まさに、関係に押し出されたかのような決断である。
本章では、ここまで特別な説明を加えずに使ってきた「共創」の「関係性」という言葉 が持つ内実を、明らかにしていくことを目的としている。ここまでは、対等な仲間である ことや共に創る関係性であるということを自明のこととして扱ってきた。ここからは、「わ っぱの会」や「もやい」のような新たな創造に向かう、「共創」の原動力となる「関係性」
ということを意識して、この「関係性」を分析していく。ここで見ていくのは、ある人を、
道なき道へと押し出す「関係性」である。
第 5 章 「共創」の関係性に生きるということ 133 第 1 節 「共創」の関係性の分析-2 つのエピソードから
ここでは、「わっぱの会」と「もやい」から1つずつエピソードを用いることとする。
エピソードの選択にあたっては、「関係性」が表面化しやすい場面として、とっさの決断や 言動が求められた場面を選ぶこととした。結果として、「もやい」は、稲葉のエピソード、
「わっぱの会」は、筆者自身のエピソードを使用する。筆者のエピソードを選んだ理由は 後述する(3項)。筆者のエピソードは巻末に収録した手記の抜粋である。この手記は、筆 者が活動していた時期につけていた日記や当時の資料やメモをもとに、Cさんとの出来事 を2013年12月に論文執筆の資料として書き起こしたものである。
1. 「僕が嫌なんだ」という関係性 ――稲葉のエピソードより
ここで取りあげるエピソードは、「もやい」の創始者の1人である稲葉自身が、連帯保 証人提供をはじめる前に新宿の路上生活者支援を行っていた時の出来事である。稲葉は、
このエピソードを、「自分の正義感の薄っぺらさを思い知らされ」た強烈な出来事であった と振り返っている。稲葉は、路上生活者に関わるようになってから、「路上死をなくす」こ とを一つのこだわりとしていた。新宿で夜回りをする時は、彼はいつも、路上生活者の中 に具合の悪そうな人を「目を皿のようにして探しまわり」、声をかけ、救急車を呼んだり、
福祉事務所まで同行し施設入所にこぎつけたりすることを自らに果たしていた。そんな稲 葉にとって、内臓が悪いにもかかわらず治療を受けることを拒否しつづけていた工藤さん
(仮名1997年当時60歳)は、気にかかる存在であった。当時、稲葉は週に数回は新宿に 通っている。そして、ことあるごとに工藤さんに「病院に行こうよ」と声をかけていた。
しかし、工藤さんはかたくなに拒否するばかりであった。以下は、そのようなやりとりを 繰り返していた工藤さんと稲葉の感情がぶつかり合った場面である。お互いがお互いにと ってどのような関係があったのかが表出した場面として、このエピソードをとりあげるこ ととする。
路上生活者に関わる中で、私には「これだけは言わないでおこう」と心に決めてい た禁句があった。冷たい路上で寝ている人たちと、家に帰れば暖かい布団で寝ること ができる私との境遇の差を考えると、絶対に言ってはいけないと思っていた言葉。そ れは、「生きてりゃ、いいことあるよ」というものであった。ところが、ある日、あま りにかたくなな工藤さんの態度にいらついた私は、この禁句を口に出してしまったの である。
第 5 章 「共創」の関係性に生きるということ 134 私が「しまった」と思った時はもう遅かった。工藤さんは烈火のごとく怒って、ま くし立てた。
「いったい俺にどんなことがあるって言うんだ!うまいこといっても、老人ホーム で独りで死ぬだけじゃないか!」
当時、20代だった私は頭が真っ白になってしまった。そして真っ白になった頭で、
自分の中から出てきた言葉を口に出すしかなかった。
「だって僕が嫌なんだよ。工藤さんが死ぬのを僕が見たくないんだ……」
そんなことしか言えない自分が情けないと思いつつ、私はその時の率直な気持ち を吐露するしかなかったのである。
その時の説得が功を奏したのかどうかはわからないが、工藤さんはその後、福祉事 務所に行き、病院に入院した。(稲葉 2012:8)
このやりとりから稲葉が学んだことを稲葉自身の記述をもとに要約すると、以下2点に まとめられる。1つ目は、「どんな立派な活動理念よりも『私』と『あなた』という個対個 の関係を大切にしなければ、人は動かない」ということである。2 つ目は、路上死をなく すことへのこだわりだけでは限界があり、「路上脱却後」を見据えた活動をしなければ、結 局、路上死すらなくせないということであった。稲葉は、工藤さんとの出来事を経て気づ いたことを以下のように記している。「今の苦しい状況から抜け出した後についてのプラス のイメージを持てなければ、人は今の状態から抜け出そうという意欲すら持てなくなる」。 そして、稲葉は、「工藤さんのような人が希望を持てるようなモデルを作りたい」と思うよ うになったと述べている。
工藤さんとのこの出来事から約 3 年後、稲葉は、湯浅と共に「もやい」を立ち上げた。
「もやい」が設立当初に掲げたミッションには、稲葉が工藤さんとの出来事を経て学んだ ことが明確に反映されている。つまり、連帯保証人提供という、路上生活を送る人個人を 救うという方向のみでなく、路上生活者を作り出す社会自体を問い、社会へ働きかけてい くという方向性を持つものであった。連帯保証人を自らが引き受ける決断をした時のこと を、稲葉は、こう振り返っている。
連帯保証人の責任は、調べれば調べるほど重いものであることがわかり、しかも一 度責任が生じてしまえば、そこから逃げることは不可能に近いことがわかってきた。
そのことは私の気を重くさせたが、一方でこのような重い責任を特定の個人に背負わ せないと安定した住まいが確保できない、という日本社会の現状にも腹が立ってきた。
「無縁社会」という言葉が社会に登場するまでには、その後、10 年の月日が必要 であったが、当時すでに家族関係の希薄化は問題になっていた。連帯保証人という制 度自体が今の時代にそぐわなくなっていることは明白であった。