第 3 章 「わっぱの会」
第3章、第4章では、障害者や路上生活者と、人として対等な関係において「共に活動 を創る」という理念のもと、彼らが地域社会で生活するために必要な場やしくみを制度に 先駆けて創り出してきた実践の検討を行う。第3章では、障害の有る無しに関わらず共に 生きる共同体づくりの活動を展開してきた「わっぱの会」の活動を考察する。第4章では、
路上生活者への連帯保証人提供事業を開始したことで路上生活者支援における突破口を開 き、その後も常に貧困問題の最前線に立ってきた「自立生活サポートセンターもやい」(以 下、「もやい」)の活動を考察する。これら二つの団体は、結果的に、第2章の主題であっ た「誰もが安心して暮らせる共生社会」につながる動きを創出してきている。本論文では、
これら2つの団体の実践を、今日の日本におけるヘルスプロモーションのあり方の探求に おいて有益な視座をもたらすものと位置づけ、事例分析を行う。
「わっぱの会」と「もやい」には、活動の経済基盤が脆弱な時でも、その活動のあり方 に惹きつけられた人々が活動に参画し、次々と新しい動きを生みだし、社会の中に新たな 場やしくみを創り出してきた。そのような活動は、いかにして継続され、展開することが できたのだろうか。事例検討では、この点を明らかにすることを目的として、共に活動を 創るという「共創」のプロセスの展開を追う。第1節では、それぞれの団体が創設された きっかけとその活動の変遷を明らかにする。第2節では、それぞれの団体の理念が、彼ら の日々の活動の中でどのように具現化しているかに焦点を合わせ、団体の日常のあり様を 描く。第3節では、それぞれの団体の活動実践は何が牽引してきたのか(原動力)、また、
この活動実践から何が創り出されてきたのか(創造物)を考察する。
本章では、「わっぱの会」を取り上げる。「わっぱの会」を対象とした研究は、障害者問 題や社会運動領域の機関紙等での実践報告以外で筆者が知る限り、次の 2 点のみである。
1つは、「わっぱの会」の事例から障害者運動における当事者概念と労働観を考察したもの
(伊藤 2011)、もう1つが、障害者運動の事業性と新規メンバーの加入過程の関連を考察 したもの(伊藤 2013)である。
尚、序章でも述べてきたが、「わっぱの会」は、筆者が1999年4月から2002年3月ま での3年間、メンバーとして所属していた団体である。よって本論文の記述は、筆者の活 動実践体験およびその後の聞き取り調査をもとにしている。実践および調査の概要につい ては、巻末資料1 (p.193)を参照いただきたい。
第 3 章 「わっぱの会」 71 第 1 節 活動のはじまりと変遷
1. 活動のはじまりと「わっぱの会」の立ち位置
1971年11月1日、当時の学生と身体障害を持つ者3人が、名古屋市昭和区円上町で、
「一つ屋根の下、一つの財布」で、共同生活をはじめた。これが後に「わっぱの会」と命 名される障害のある人とない人の共同体づくり運動の団体のはじまりである。当時の障害 者施策は、障害者が施設で一生涯を送ることが前提となる「コロニー政策」を主軸に進め られていた50。そして、その多くが人里離れた山の中に建設されることが多かった。「わ っぱの会」の前身であるボランティア団体が、知的障害者の成人施設でワークキャンプに 参加していくうちに、「これは、障害者への差別・偏見に基づいた、隔離政策ではないか」
と、この政策の持つ差別性に気づく。「わっぱの会」は、福祉の名のもとに行われている隔 離・収容政策へのアンチテーゼとして、地域社会(名古屋市の街の中)で障害を持つ者と 共に暮らすことを自ら開始した。翌年には、少し広い一軒家(名古屋市昭和区滝子)へ引 越し、共同生活を送る者と、その試みに賛同する者たちで、共同作業所を開所した。ダン ボール加工や印刷業を営みながら、共に暮らし、共に働き、社会への働きかけを展開して いった。
「わっぱの会」が設立された 1970 年代は、日本各地で、障害者運動のうねりが起こっ ていた時代である。「わっぱの会」は、当時の障害者運動と要所要所で連携しながらも「共 に生きる」ことを目指した独自の活動を展開していった。ここで、簡潔に、当時の障害者 運動の流れにおける「わっぱの会」の位置関係を整理し、「わっぱの会」の独自性をつかん でおこう。
この時期、コロニーに入所していた障害を持った当事者たちから、「施設ではなく地域 で暮らしたい」と声があがり、当事者とその当事者に連帯を示した者たちによって、各地 で「施設解体、地域へ」という運動が起こっていた51。「施設解体」を掲げた運動体や連 絡会は全国に数多く誕生したが、要求する内容は同じものもあれば異なるものもあった。
たとえば、健常者が創り出してきた社会のあり方に問題提起し告発し続けることを目的と した団体、労働する権利獲得を掲げた団体、教育を受ける権利、そのままの姿で存在する 権利を掲げた団体、介助を労働と認め障害者介助制度の導入に動いた団体など、さまざま である。しかし、これらの運動は、障害があっても尊厳を持って地域で生きることを主張 し、その権利を獲得していくという点において共通した運動であった52。
「施設解体・地域へ」という運動は、主に、脳性マヒ者が中心となって展開した障害者 解放運動であった。そのため、おのずと、意思を言語で表現できる者が「自己決定する権 利」を獲得していく運動として展開していった。そして、権利を獲得していく主体は、「個 人」であった。現在、中途障害の脊髄損傷による車いす生活を送る者や知的障害者を含む
第 3 章 「わっぱの会」 72 グループも存在するが、実態として、重度の知的障害者など自らを語れない者、自己決定 ができない者の存在が前面に出ることがないというのが特徴の一つでもある。
この当時、知的障害を持つ者を含めた障害者の就労という切り口からも権利獲得の運動 が起こっていた。この流れには2つの潮流がある。1つ目が作業所運動であり、もう一つ が、その作業所のあり方に疑問を呈してはじまった、「わっぱの会」が運動の中心的役割を 担ってきた「共に生き共に働く」運動である。
障害者の就労という観点から、まずは、「福祉的就労」を形作ることになった作業所運 動の流れを簡単に辿ってみよう。作業所運動の展開の背景として、当時の障害者雇用政策 の中心であった1960 年制定の身体障害者雇用促進法に注目する必要がある。これは、身 体障害者の一般就労を促進(1976年身体障害者雇用の義務化)するものであったが、精神 薄弱児(知的障害者)や精神障害者は対象にはならず、仕事に就くものは軽度の障害者に 限られていた。これに対し、「障害の種類や程度をこえてすべての障害者の働く権利の保障」
を求め、親や教師、障害者自身や福祉関係者が立ち上がり、(小規模)作業所運動を展開し ていった53。その中心を担っていったのが 1977 年に16 ヵ所の共同作業所によって結成 された「きょうされん」である。
作業所運動は、障害者の労働権の保障を求めた運動であったが、その結果、勝ち取っ た制度は、小規模作業所や、授産施設や福祉工場(自立支援法以降は、小規模作業所は地 域活動支援センター、授産所は就労継続支援や就労移行支援となっている)など、「福祉的 就労」という形態であった。「福祉的就労」は、「就労」という文言は使われているものの、
その位置づけは個人の労働保障の観点からは極めてあいまいであった。障害者は訓練を受 ける訓練生(自立支援法以降は、利用者)であり、仕事内容は、工場の下請けの単純労働 であり、賃金ではなく工賃が支払われるが、最低賃金をはるかに下回る金額である。
作業所運動は障害者の労働する権利の保障を求めて運動を展開していった結果、「福祉 的就労」という形態を獲得した。このことで、それまで行く場所のなかった成人障害者の 活動領域は広がり、成人障害者の親の負担も軽減された。しかし、「福祉的就労」が、障害 者を1つの場所に集め、通所生、訓練生として配置し、その障害者を訓練する者として健 常者の職員を配置する構造は、社会一般の能力主義や、「働く能力のない」者を社会から排 除する障害者差別の構造を無批判に受け入れてしまうことになる。
このような問題意識のもとに「福祉的就労」からの脱却をめざし、障害の種別や重度に かかわらず、障害のある人とない人が「共に働く」場を創ろうとして生まれたのが「共働 事業所54」づくりである。これは、後述する「差別とたたかう共同体全国連合」が全国的 に展開していった運動であるが、「わっぱの会」はその先駆的かつ中心的役割を担っていた。
「共働事業所」運動が重要視したのは、どんな働き方であれ、それを「労働」として認 め、「共に働く場」を社会の中に確立していくことであった。この「共に」ということが強 調されてる点が、当時の障害者運動と「わっぱの会」が大きく異なる部分である。全障連