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公共圏的コミュニケーションと権力――他者性・知覚・承認

ドキュメント内 NGO 運動における「正当化」の社会学的考察 (ページ 31-38)

第1節 他者の排除をめぐる現在的課題――権力に吸収されるNGO運動

本章では、コミュニケーションにおける正当化の影響力について、「他者性」をキーワー ドにして検討していく。前章では、コミュニケーションの成立時に正当化が入り込んでく る様相を見てきたが、ここでは、その知見を背景に、他者認識や他者との関係形成におけ る正当化の影響力、すなわち関係性における権力的なるものの様相について検討していき たい。

NGO運動の展開において、「他者との連帯」は要になるものである。運動の展開におい て支持を広げていくことは重要であるし、また人権問題など直接的に他者とつながり、関 係性を保持することで運動の目的が達成されていくような活動領域もあるからである。し かしながら、序章や第1章で指摘したように、運動の展開において実際には、他者との連 帯ではなく、排除が起こっている場合がある。ハーバーマスの想定のように、他者を包摂 する公共圏を形成するはずのコミュニケーションにおいて、なぜ他者の排除が生じてしま うのかについて、他者性をキーワードとして本章では検討してみたいと思う。そのことに よって、他者性が正当化を揺るがす基盤というだけではなく、正当化を成立させる基盤と もなっていることを確認していきたい。

NGO 運動の実践的課題へのアプローチも、他者との連帯だけでなく、他者の排除の検 討にあると考えられる。NGO は、蹂躙された人権や環境汚染された社会を改善すべく、

実践的活動に乗り出す。そこで考えたのが、アドボカシー戦略であった。NGO は、実践 的に解決すべき途方もない現実に直面し、ひとりひとりを助けることや目の前の課題を解 決することと同時に、政策的にその現実に対処することを試みてきている。結果的には、

冒頭で確認したような成功を収めつつも、しかしながら何ら影響を与えることのできない 現実の側面が残った。ここでNGO研究においては、NGOにさらなる自律性を求める研究 上の提案があり、また実践への呼びかけがなされているが、本論文が提案しているのは、

政策と実践をつなごうとする動きへのアプローチではなく――もちろん、それが実践にお いて必要であることは認め、かつ筆者自身も現実的には参画できる限りしているが――、

政策的言説と実践が切り離されてしまったのはなぜかを問うということである。次の稲葉 の発言に見られるのは、自律性を求めることへの苦悩である。「[政策的言説を追い求める NGO運動は]ロングタームな、どういう世界を目指すのかというその理念のところに関し て、より大きなレヴェルで社会の変革を訴える運動と対話をしながら、ありうべき世界像 をしっかり作っていかないと、権力に吸収されてしまう危険性があります。ここのリスク というのは、凄く考えなければならないところです」(稲場の発言からの引用 → 稲場・

立岩 2007:149、 [ ]内は筆者による加筆)。稲葉のいう大きなレヴェルでの変革理念の共 有が解決策になるかは別にして、この苦悩に研究的課題をもって向き合うとすれば、なぜ この苦悩―すなわち、政策的言説と実践との分離―が生じているのかを断面的にでも明ら かにすることであると考えられる27。本章で見ていくのは、この点に関する理論的基盤で

27 稲葉自身も述べるように、仮に政策が実現したとしても課題が山積することが予想される。次の発言

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ある。問題は、他者との連帯をしているはずの活動において、なぜ他者を排除してしまう のかである。

ここから、ホネットにおける他者の位置づけを確認し、そこにおいて何がさらに問われ るべきかについて検討していきたい。まず、ホネットの展開する「承認をめぐる闘争」に おける批判について概観していきたい。『承認をめぐる闘争』(Honneth 1992=2003)にお いてホネットが示したのは、社会的病理として「尊重の欠如28」が生じた場合に、それを 契機として、抵抗や闘争が発生し、そして剥奪の諸段階(暴力的抑圧、権利手の剥奪、尊 厳の剥奪)に応じて、それぞれの回復に対応する「愛・法(権利)・連帯」という3つの承 認形式による相互承認関係が達成され、社会の規範的発展がなされるということである。

そうした過程が「承認をめぐる闘争」である。ホネットにおいては、連帯は、愛・法にお ける承認形式を包含するものとして構想されている。また、批判の契機は「尊重の欠如」

という事態の発生によって生じることが確認される。ホネットは、そうした「尊重の欠如」

を感受するものを「正義の他者」として概念化している。

ホネットによれば、「正義の他者」とは、「人間の気遣い(menschliche Fürsorge)」の 対象であり、それらが不正からわれわれを救う手立てだということである(Honneth 2000:133-170=2005:145-185)。ホネットがここで定義する正義の他者とは、具体的な人間 というよりは、人間に行使された不正を感受する、いわば不正の感受性を体現するもので ある。この正義の他者のことを、他者性の特質とした場合、次のような論理構成に留意が 必要である。1)関係性において立ち現われる、不正という現象に対する感受性としての 概念である点、2)したがって、正義の他者が「人間の気遣い」であるということは、不 正への是正に関わる主体―客体の関係性に属する特性であるという点、である。ところで、

ホネットは、正義の他者の概念化にあたって、レヴィナスのいう他者性を参考にしていた。

たとえば、正義の他者の性質について論じる際に、レヴィナスの他者の顔の議論を参考に 次のように述べる。

他の人格の『顔』を目の前にして、我々は、その人を直接的に助け、死活にかかわ る問題を克服するよう義務付けられているのである(Honneth 2000:161=2005:174)。

は着目に値するものである。「ミレニアム開発目標が2015年までに達成されればそれでよいという話に なるかどうか。ミレニアム開発目標のなかの最大の目標は、2015年までに11ドル以下で生活してい る人間、あるいは飢餓状態にある人たちを半減するというものです。ところが、半減を達成しても、残り の半分は以前よりも貧乏になっているかもしれない。ミレニアム開発目標がすべてを解決するわけではな いのです。さらに2015年になったときに、予想しうる危険性というのは、フランスなりヨーロッパの国々、

あるいは米国が、主観的にはたくさんのお金を動員して貧困の克服・開発を一生懸命してあげたのに、

2015年になってまだ達成できていないのは、途上国の自己責任だ、ということに転化してしまうかもし れない。2015年以降の貧困については途上国の責任だとか、われわれの植民地主義の責任は2015年ま での努力で清算されたのだ、などと言い出しかねない。こうしたものにどう立ち向かうかということです」

(稲場の発言からの引用 稲場・立岩 2007:149)。

28 ここで、「尊重の欠如」という用語について説明を加えておきたい。「尊重の欠如」の言語は、Mißachtung

であり、Achtungがないこと」を現わしていると捉えることができる。ホネットは、承認の核心として

尊重(Achtung)という概念を提示していること(Honneth 2001 → 2003)を考えると、承認と承認 のないことが、「AchtungMißachtung」によって表現されていると考えることができるであろう。こ の訳語については、別の案「無視すること」、「シカトすること」なども文脈によっては検討すべきである。

この訳は藤野が「尊重の欠如の社会的ダイナミズム」論文(Honneth 1994 2000=2005:93-119)の訳 稿で採用している。この点については、後段の本章第2節も参照のこと。

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この箇所の記述は、レヴィナスによる、「顔と倫理」についての議論を参考にしたもの である。レヴィナスは、次のように、他者の顔が自己に対して倫理的存在として絶対的に あることを示した。「〈他者〉が私に対置するのは、だから、より大きな力――計量可能で、

したがって全体の一部をなすかのように現前するエネルギー――ではない。全体との関係 において、〈他者〉の存在が超越していることそのものである。〈他者〉が対置するのはど のような意味でも最上級の権力ではなく、まさに〈他者〉の超越という無限なものである。

この無限が強いのであって、〈他者〉の顔としてすでに私たちに抵抗している。この無限な ものが〈他者〉の顔であり本源的な表出であって『あなたは殺してはならない』という最 初のことばなのである」(Levinas [1961]1984:173=2006[下]:41)。レヴィナスにおける他 者の顔の議論は、他者の持っている絶対的な特質として概念化され、他者性というテーマ のもとに論じられてきている29。ホネットは、レヴィナスの顔の議論を参照に、コミュニ ケーションにおいて立ち会われる倫理性、ホネットの用語でいえば、「正義の他者」を見出 し、近代社会において、それらが契機となって漸次的に正義が達成される可能性を示唆し た。

ここで、この記述に代表されるような他者の性質を、先行研究同様に、他者性というの であれば、本論文は、他者性について次のような問いを持っている。すなわち、他者性の 現出ではなく、他者性がいかに排除されているかを問うことである。

ホネットにおいて、正義の他者に関わって現出する関係性が、「承認」関係論によって 展開されていることを付け加えたうえで、次の指摘を見ておきたい。『承認と権力――アク セル・ホネットと批判理論の伝統』(van den Brink & Owen 2005)における叙述による と、「承認」の理論的展開、すなわちいかにして承認が達成されるかについての理論ではな く、いかに、権力を行使されているかの考察が必要であることが指摘される。

ホネットのプロジェクトの深刻な問題は、承認についての倫理的な形態とイデオロ ギー的な形態とを区別することであり、しかもそれを、『承認の闘争は、道徳的な学習 プロセスを表現しているのだ』と単に主張するのではなくて、行われなければならな い(van den Brink & Owen 2005:21)。

ここで指摘される、承認のイデオロギー的形態とは、権力によって構成される承認のこ とであり、いわば、ニセの承認関係のことである。こうした指摘に対して、ホネットは、

基本的には自らの立ち位置を変えていないが30、こうした視点からホネットの議論を検討 した場合に、本論文にとっても興味深い知見がある。それについて次節で見ていきたい。

29 レヴィナスの他者性についての理論的展開については、例えば、熊野(2003)が参考になる。

30 たとえば、ホネット(2005)では、承認のイデオロギー的な形態について、現代社会における権力の 問題と絡めながら論じているが、承認関係が基底的だとするホネットの基本的なスタンスは変わらない。

このホネットのスタンスは、引用部にある、「承認の闘争は、道徳的な学習プロセスだ」と主張すること に収斂される。

ドキュメント内 NGO 運動における「正当化」の社会学的考察 (ページ 31-38)