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作家論と作品論

ボードウェルの研究の特徴は,ディープ・フォーカス撮影をめぐる議論のなかで提示さ れてきたいくつかの論点――改革者としての作家,絶え間ない技術革新,スタジオ・シス テムに象徴されるイデオロギー――を,「古典的パラダイム」という彼自身の一貫した問題 関心のなかで取り扱う点である.ここでは,『市民ケーン』におけるグレッグ・トーランド の仕事にとくに注目して,ディープ・フォーカス撮影の歴史的意義が再検討された結果,

ディープ・フォーカスという特権的な技巧から,トーランドというキャメラマン個人の類 稀なる才能というよりも,ハリウッド・スタジオ・システムの機能の一部としての撮影監 督の存在を浮かび上がらせることに成功した.ボードウェル論文では,キャリンジャーの 研究にくらべ,膨大な資料がより緻密で精確な検証を可能にしている.

Altman, Rick, 1994, “Deep Focus Sound: Citizen Kane and the Radio Aesthetic,” in Quarterly Review of Film and Video, 15(3), 1-33.

ディープ・フォーカスの画面における音響設計

Conningham, Stuart, 1992, “The Magnificent Ambersons: Deep Focus, the Long Take and Psychological Representation,” in Continuum: Journal of Media & Cultural Studies, 5(2), 15-28.

(2)その他の外国映画

Bordwell, David, 1981, “Early Film: The Construction of Space”, in The Films of Carl Theodor Dreyer, University of California Press, 37-59.

Bowman, Barbara, 1992, Master Space: Film Images of Capra, Lubitsch, Sternberg, and Wyler, Greenwood Publishing Group.

1930年代から1960年代のアメリカ映画における四人の重要な監督(フランク・キャプラ,

エルンスト・ルビッチ,ジョセフ・フォン・スタンバーグ,ウィリアム・ワイラー)による映 画空間の使用にかんするユニークな論文である.バーバラ・ボウマンは,彼らの特徴的な スタイルとさまざまな背景を検証し,これら独特の視覚的スタイルがいかに相互補完的で あるかを明らかにする.このことは,『ニノチカ』や『上海特急』から『我等の生涯の最良 の年』,『素晴らしき哉,人生!』にいたるまでの古典的アメリカ映画の傑作に象徴される.

(Book Descriptionより)

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Hall, Sheldon 2004, “Carpenter’s Widescreen Style,” in Ian Conrich, David Woods (eds.), The Cinema Of John Carpenter: The Technique Of Terror, 66-77.

『ジョン・カーペンターの要塞警察』(1976)以後,一貫してシネマスコープによる映画 づくりにこだわってきたジョン・カーペンターを取りあげた論文.前半部では,そのバッ グ・グラウンドにあるシネマスコープの過去の作品(とくにヒッチコック)について論じて いる.後半部ではカーペンターのスタイルが最も顕著にあらわれている作品として『ハロ ウィン』(1978)のケース・スタディーが行われている.

若山滋・北川啓介・夏目欣昇・伊藤裕子, 2005, 「映画『旅情』と『ベニスに死す』におけ る〈画面空間〉の奥行き」, 『日本建築学会計画系論文集』592, 85-91.

『旅情』,『ベニスに死す』の二つの映画における空間構成を比較考察した論文.映画学 的ないし美学的見地からではなく,建築学的な関心に基づいて,「奥行きの度合いの平均・

ばらつき・奥行きが深まる方向を数学的に求め......

,さらに映画ならではの特徴といえる時間 推移を考慮に入れ」分析するというユニークな試み(括弧内の傍点は引用者).映画学以外 の学問領域からのアプローチとして貴重な文献と思われる.

小川佐和子, 2009, 「エウゲーニイ・バウエルのスタイルの変遷――現存作品(一九一三〜

一九一七年)を中心に――」『演劇映像』50, 1-20.

帝政ロシア時代を代表する映画監督・エウゲーニイ・バウエルの現存作品を網羅的に扱 い,そのミザンセーヌの変遷を分析した論文.ステージングの観点から人物の動きに重き が置かれてきた先行研究に対して,小川論文ではバウエルの作品を「ステージング重視の 前半期」と「カッティングとステージングが併存する後半期」に分類することで,より精 緻な分析が試みられている.小川は,登場人物のアクションを制限する空間上の舞台装置 の配置や,トラッキング・ショットによる空間の操作,ヨーロッパ・スタイルのカッティ ングの導入がバウエルのフィルモグラフィーに与えたスタイルの変化を論じ,最終的には,

ロシア映画全体がアメリカナイズされていく過程との関連性を示唆した.

斉藤綾子, 2011, “CinemaScope and ‘The Orient’,” 『藝術学研究』21, 1-7.

今日サミュエル・フラーの代表的なフィルム・ノワール作品として知られる『東京暗黒 街・竹の家』を同時代的コンテクストに指し戻し,この映画が二つの事柄――つまりシネ マスコープ作品であることと「東洋」である日本を舞台にしていること――を売り物に公 開されたことの意味を検証した論文である.斉藤によれば,シネマスコープ初期のハリウ

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ッドでは「東洋」をロケーションに設定した同様の映画が数多くつくられた(代表的なもの として『慕情』がある).しかし,これらの映画が大スターを配したメロドラマ映画として 製作される傾向にあったことからすると,『竹の家』はこのトレンドのなかで決して典型的 な作品ではなかった.斉藤は,ポスト占領期における日本とアメリカの地政学的な状況や 朝鮮戦争の影響のなかにこの作品を位置づけ,さらにはハリウッド映画のなかに女優・山 口淑子(シャーリー・山口)のコロニアルな身体性がいかにして流用されたかを分析するこ とで,『竹の家』のトランスナショナルな特権性について論じている.

(3)日本映画

Thompson, Kristin, David Bordwell, 1976, “Space and Narrative in the Films of Ozu” in Screen 17 (2), 41-73.

(クリスティン・トンプソン,デイヴィッド・ボードウェル,出口丈人訳,「小津作品にお ける空間と説話」,『ユリイカ』13(7), 140-153)

小津映画を「古典的ハリウッド」のパラダイムと相反するものとして位置づけ,その様 式的・物語的逸脱について論じている.たとえば小津映画においては,180度ルールに代表 されるような一貫性のある編集スタイルが維持されていなかったり,風景や,空の部屋,

動きのない空間を捉えたショットが多用される一方,エスタブリッシング・ショットが見 当たらなかったり,効率の悪い場面転換がなされたりする.非・ハリウッド的なものとし て小津を対象化するというトンプソンとボードウェルの論文の意図は極めて簡明であった が,近年ではこのような視点はハリウッド映画の覇権主義にもとづくと批判されることが 多い.

北 浦 寛 之, 2007, 「 加 藤 泰 研 究 序 説 ― ― 奥 行 き を 利 用 し た 映 画 の 演 出 に つ い て 」, CineMagaziNet! 11(http://www.cmn.hs.kyoto-u.ac.jp/CMN11/kitaura-katoutai.html)

映画監督加藤泰の奥行き表現,とりわけ名高い「縦の構図」の演出法について体系的に 分析されている.シネマスコープ導入以前と以後の加藤自身の映画や,同時代の他の映画 作品との比較から,加藤が確立した独特のワイドスクリーン美学が考察される.著者の指 摘によれば,加藤泰の「縦の構図」には,「大きな前景」,「人や物の重なり」,「フレーム内 フレーム」の三つの特徴が認められる.また,このような画面は,厳密には「ただ前と後 ろという前後の関係でのみ定義してしまうのではなく,上と下という上下の関係をも構築 することで,光景を前景から空間上分離して創造」している.

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Kinoshita, Chika, 2011, "The Benshi Track: Mizoguchi Kenji's The Downfall of Osen and the Sound Transition," in Cinema Journal, 50(3), 1-25.

奥行きを活かした演出で知られる溝口健二を取りあげ,トーキー到来が,彼のスタイル に及ぼした影響を分析した論文.木下によれば,サウンドの導入は作家としての溝口にと ってサイレント時代とは異なるスタイルを確立する「決定的な契機」であった.このとき 木下が注目するのは,トーキー移行期の作品である『折鶴お千』が,録音された弁士の語 りをサウンドトラックとして同期した,過渡期特有の形態で製作されたことである.木下 が指摘するところによれば,『折鶴お千』においては,テクストの制御において弁士と作家 の話法とが折衝するような状態があった.木下は,この特殊な条件下で溝口が試みた,無 声映画的でもなければ発声映画的でもない独自の奥行き演出のあり方を論証するために,

『折鶴お千』のテクストから,構図,台詞,キャメラワーク,ステージングのスタイルと その相関を緻密に検証した.

9. 「列車の到着」神話

Gunning, Tom, [1989] 1995, “An Aesthetic of Astonishment: Early Film and the (In)Credulous Spectator,” in Linda Williams (ed.), Viewing Positions: Ways of Seeing Film, Rutgers University Press, pp.114-133.

(トム・ガニング,濱口幸一 訳,「驚きの美学 初期映画と軽々しく信じ込む(ことのない)

観客」,岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編『新映画理論集成 ① 歴史/人種/ジェンダー』フ ィルムアート社,1998年,102‐115頁.原論文の初出は1989年)

ルイ・リュミエールの「ラ・シオタ駅への列車の到着」(1896)を始めとする初期の列車 映画を観て観客がパニックに陥ったという「神話」は,「神話」ゆえのしぶとさで今もなお 一部では信じられている節があるけれども,映画研究の世界ではまさに「神話」として研 究対象になって久しい.そのような事実を示す資料が存在しないことを踏まえて,クリス チャン・メッツは,現代の映画観客が自分の「信じやすさ」を否認するフェティッシュ的 な投影の対象として初期の観客の物語を必要としたのだと考えた.それに対してトム・ガ ニングは,初期映画の実証研究とヴァルター・ベンヤミンゆずりのモダニティ論にもとづ いて,メッツの解釈こそ,物語に没入する映画観客という初期映画の時代には存在しなか った観客像を過去に投影するものだと批判した.初期の映画観客は「アトラクション」と しての映画に驚き,その驚きを愉しむ観客たちだったのである.

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