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バザンからドゥルーズへ――フランスの理論的系譜

Bazin, André, [1950, 1952, 1957] 1958, “L’évolution du langage cinématographique,” in Qu’est-ce que le cinema ? I. Ontologie et lagage, Editions du Cerf.

(アンドレ・バザン,小海永二訳「映画言語の進化」,『映画とは何かII 映画言語の問題』

美術出版社,1970年,176-202頁.1950年,1952年,1957年に異なる媒体に発表された 論考を総合したもの)

アンドレ・バザンの「映画言語の進化」には,奥行きの美学に関する先駆的な記述をみ ることができる.当時,ディープ・フォーカスに象徴される奥行き表現は,『市民ケーン』

を通じて発見されたばかりの最先端の技巧であり,バザンはここにおいて,モンタージュ を中心に展開してきた映画芸術が空間的深さを獲得することにより,「ありのままの現実」

にいっそう近づくことができたという映画の表現史における「進化」を見出した.いうま でもなく,この手放しの礼賛には,写真映像ないし映画の本性がリアリズムにこそあると するバザンの確信がある.映画の歴史的進化を信じて疑わないバザンの態度は,観念論的 であるという批判を招き,とくにジャン・ミトリ,ジャン=ルイ・コモリによって論難さ れた.とはいえ,今日ではバザンがいう「画面の空間的な深さ(profondeur de champ)」と は,必ずしも技術としてのディープ・フォーカスそれだけを意味するものではないと考え

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られている.とくにジル・ドゥルーズが,『市民ケーン』における奥行きを解釈するなかで,

バザンの「画面の深さ」という表現を踏襲したことにより,バザンのいう「画面の深さ」

は未だに議論可能な概念だとみなされるようになった(cf. Diane 2011).

Mitry, Jean, [1966] 2000, “The Liberated Camera and Depth-of-Field,” in Christopher King (tr.), The Aesthetics and Psychology of the Cinema, Indiana University Press, 168-229. 特に “Depth of Field”(190-201). (Original French edition is published in 1966.) フランスの代表的な映画理論家ジャン・ミトリは,主著『映画の美学と心理学』におい て,鮮明なフォーカスに象徴される奥行き表現の歴史を論じた.ミトリは,ディープ・フ ォーカス撮影が1925年から1940年代にかけて衰退していたことを理解するにあたって,

バザンがこれを美学的な問題と捉えたことに異を唱えた.ミトリがディープ・フォーカス 衰退の真の理由だと主張したのは,トーキー以後の技術変遷(とくに移動撮影の積極的な使 用)によって映画に「運動性と持続」という新しい価値観が定着したことであった.

Comolli, Jean-Louis, 1971-1972, “Technique et idéologie : caméra, perspective, profondeur de champ,” in Cahiers du cinéma, no, 229-231, 233-234/235, 241.

(ジャン=ルイ・コモリ,鈴木圭介訳「技術とイデオロギー――カメラ,遠近法,ディープ・

フォーカス」,岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編『映画理論集成② 知覚/表象/読解』フィ ルムアート社,1999年,32-101頁)

新しい映画表現の確立や達成がただ一人映画作家の偉業としてみなされがちであった時 代,ジャン=ルイ・コモリが提起した議論は,そうした趨勢を真っ向から批判するものだ った.コモリはまず,映画における奥行き表現の起源を中世絵画の遠近法描写に見出すこ とで,ヨーロッパ至上主義的な審美的感覚の波及を示し,その無意識的な選択を批判した.

コモリの最終的な目的は,『市民ケーン』に代表されるハリウッドにおけるディープ・フォ ーカスを用いた「リアリズム」的作品の量産が,功利的なスタジオの戦略によって首尾よ く制御されていることを指摘することで,特定のイデオロギーの連鎖的伝播を浮き彫りに することであった.一般的に論争的な正確を持つ論文として理解される.(『市民ケーン』論 にも関連)

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Deleuze, Gilles, 1985, Cinéma 2: L’Image-temps, Les Editions de Minuit.

(ジル・ドゥルーズ,宇野邦一・石原陽一郎・江澤健一郎・大原理志・岡村民夫訳『シネ マ2*時間イメージ』法政大学出版局,2006 年.特に「第 5 章 現在の諸先端と過去の諸 相――第四のベルクソン注釈」[135-174頁])

『時間イメージ』における奥行きへの言及は,主に第 5 章の『市民ケーン』にかんする 箇所のなかにみられる.ドゥルーズは,奥行きを表すバザンの表現,「画面の深さ」 la profondeur de champ を引き継ぎながら,『市民ケーン』においては「画面の深さ」が「過 ぎ去った回想」や「過去の諸相」という物語上の主題を喚起する時間イメージであると論 じている.なお邦訳においてはla profondeur de champはすべて「パンフォーカス」と訳 されている.

岩城覚久, 2006, 「ディープ・フォーカスとイメージの深さ――ドゥルーズ『シネマ』の奥 行き論への一考察」, 『人文論究』56(3), 89-105.

映画の奥行きにかんするドゥルーズの概念「画面の深さ(profondeur de champ)」の解釈 を再考察した論文.岩城は,この言葉が日本語でしばしば「ディープ・フォーカス」ない し「パンフォーカス」と訳されてきたことを問題視し,ドゥルーズがバザンを踏襲しなが ら言う「画面の深さ」がディープ・フォーカスという撮影技術による効果に還元できない 複雑な概念であると指摘する.岩城はヴェルフリンを援用しながら,ドゥルーズの「画面 の深さ」の概念が,「鮮明な輪郭線」を持つディープ・フォーカスとは「相容れない」とい う立場を取る.しかし「画面の深さ」がむしろ「「不明瞭な」イメージを想定している」と いう結論には議論の余地がある.

Arnaud, Diane, 2011, “From Bazin to Deleuze: A Matter of Depth,” in Dudley Andrew (ed.), Opening Bazin: Postwar Film Theory and Its Afterlife, Oxford University Press, 85-94.

映画における奥行きにかんするアンドレ・バザンの思考のジル・ドゥルーズによる復権 を考察した比較的短いエッセイである.第1節と第 2節では,ドゥルーズがバザンの概念 を念頭において使う「画面の深さ」(profondeur de champ,英訳ではdepth of field)の意味 を探求している.ディアーヌ・アルノーは,「演劇性の増大」,「シークェンス・ショット」,

「デクパージュ」など,バザンからドゥルーズへと踏襲された複数の概念へと注意を向け,

ドゥルーズがバザンを通じて奥行きを認識し,またそれらの概念を哲学的に解放したのだ

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と主張している.第 3 節では,ドゥルーズの「結晶イメージ」の概念を予見するかたちで バザン自身が「結晶学」という表現を用いていたという著者自身の指摘から,ドゥルーズ によるバザンの救済の意味が再検討される.