第 5 章 蓄積リングでのレーザー分光および遅延過程の観測 79
5.5 光励起スペクトル測定
レーザー波長を480 - 680 nmの範囲で変化させ,光吸収に伴って生成される中性粒子 の強度を測定し,MB+ の光励起スペクトルを得た.中性粒子の強度は,周回後に掃き出
5.5 光励起スペクトル測定 85
-5
-4 -3 -2
2 1
0 -1
log (intensity)
log (laser power) / mJ
slope
= 1.2 ± 0.1
slope
= 1.8 ± 0.2
component 2 component 1
図5.8 300 Kにおける中性粒子強度のレーザーパワー依存性
したイオンの量と光子数で規格化した.
また,300 Kと4 Kにおける光励起スペクトルの相対値を比較したものを図5.12に示
す.300 Kと比べると,4 Kにおける中性粒子収量は明らかに少ないことが分かり,これ
は,イオンが冷却されたことによって,2光子吸収後の内部エネルギーが低くなるため,壊 れにくくなったためだと考えられる.最大値で規格化して比較したものを図5.13に示す.
次に,以前に測定されたLDI,MALDIによるMB+ の励起スペクトル,および溶液中 での吸収スペクトルと比較したものを図 5.14に示す.LDI,MALDIのスペクトルと比 較し,ESIではスペクトルが短波長にシフトし,幅も狭くなった.これは,LDI,MALDI で生成したイオンは比較的高温で,より高振動励起状態からの吸収が見えているのではな いかと考えられる.また,溶液中での吸収スペクトルと比べ,真空中におけるスペクトル は短波長側にシフトしているが,これは溶媒和効果によるものである.
P. Homem-de-Melloらによってメチレンブルー正イオンの溶液中および気相中におけ
る吸収スペクトルの計算が行われた [38].これより,水溶液中と気相中でスペクトルは
0.23 eVシフトするという結果が得られている.現在,溶液中の吸収スペクトルの中心が
665 nmであるので,これより0.23 eVだけ短波長側にシフトすると気相中のスペクトル
の中心は592 nmということになる.
slope
= 2.0 ± 0.2
-5 -4 -3 -2
2 1
0 -1
log (intensity)
log (laser power) / mJ
図5.9 4 Kにおける中性粒子強度のレーザーパワー依存性
5.6 300 K におけるレーザー照射後の解離曲線の波長依存性
300 Kにおいてレーザー照射後の解離曲線を波長を変化させてプロットしたものを図
5.15に示す.これより,吸収波長によって,1光子吸収と2光子吸収の強度比が変化して いることが分かった.長波長側では2光子吸収の割合が大きかったが,波長が短くなる,
つまり1光子あたりのエネルギーが高くなるにつれ,1光子吸収の割合が多くなり,さら にエネルギーを大きくしていくと,ほぼ 1光子吸収の成分しか観測できなくなった.こ れは,波長が短くなると1光子あたりのエネルギーが高くなるため,1光子で解離のしき い値を超えることができるようになったためだと考えられる.また,1光子吸収の傾きも 変化し,波長が短くなるにつれ,寿命が短くなることが観測され,光吸収後の内部エネル ギーが高くなったため,寿命が短くなったと説明できる.さらに,500 nm付近のより短 波長側では,再び2光子吸収の割合が増えていくことが観測でき,これは,より高い遷移 状態への吸収が見え始めたのだと考えられる.
5.6 300 Kにおけるレーザー照射後の解離曲線の波長依存性 87
τ
e-IC
atom
Eint
E0
Eint
࢜ࣥ⏕ᡂ
hot &
broad
⾪✺෭༷ ග྾
cooled
㧗ືບ㉳≧ែ 㐜ᘏᨺฟ
hν hν E0
Eth
ෆ㒊㌿
࢜ࣥࢺࣛࢵࣉ ࢜ࣥ✚ࣜࣥࢢ
delayed frag.
Eint
E*
hot &
broad
E0
triplet
Eint IC
hν hν
Eth delayed frag.
FDVH
FDVH
E*
E0 㡯㛫ᕪ
図5.10 2光子吸収による解離過程の考察
intensity
700 650
600 550
500 450
wavelength / nm
300 K (2photon) 300 K (1photon)
図5.11 300 KにおけるMB+の光励起スペクトル
intensity
700 650
600 550
500 450
wavelength / nm
4 K 300 K (2photon)
図5.12 300 Kおよび4 KにおけるMB+の光励起スペクトルの絶対値比較
intensity
700 650
600 550
500 450
wavelength / nm
4 K 300 K (2photon)
図5.13 300 Kおよび4 KにおけるMB+の光励起スペクトルの規格化後での比較
5.6 300 Kにおけるレーザー照射後の解離曲線の波長依存性 89
intensity
700 650
600 550
500 450
wavelength / nm
4 K 300 K (2photon)
LDI MALDI in Water
図5.14 MB+ の励起スペクトルの比較
3 2
1 0
counts / arb. units
time after irradiation / ms
480 nm 490 nm 500 nm 510 nm 520 nm 530 nm 540 nm 550 nm 560 nm 570 nm 580 nm 590 nm 600 nm 610 nm 620 nm 630 nm 640 nm 650 nm 660 nm 670 nm 680 nm
図5.15 300 Kにおける解離曲線の波長依存性
91
第 6 章
まとめ
本研究では,あらかじめ温度制御された巨大分子イオンを静電型イオン蓄積リングへと 入射するため,新たなイオン入射システムの開発を行った.ソフトなイオン化法として知 られるエレクトロスプレーイオン化法によりイオンを生成している.生成されたイオン は,加熱キャピラリーを通して真空槽へと導入され,八重極イオンガイドを通過し,四重 極質量選別器によって目的のイオンのみを選別する.イオントラップにより一定時間蓄積 した後,掃き出されたイオンのバンチはパルス加速装置により15 keVへと瞬時に加速さ れる.このようにして,大気中で生成したイオンを10−9 Paの蓄積リングへと導入する ことに成功した.
まず初めに,エレクトロスプレーイオン源によるイオン生成のテスト実験を行った.水 クラスターイオン(H3O+(H2O)n)の質量スペクトル測定では,n=110程度まで観測さ れ,さらに,n=20,27といった魔法数を確認することができた.また,生体分子である アルブミンにおいては,複数のプロトンが付加して多価となったイオンが観測された.そ の他にも,ポルフィリンやインスリンなどの巨大分子イオンの生成に成功している.
特に色素分子であるメチレンブルー正イオン(MB+)では,MB+ に複数の水が付加 したイオン(MB+(H2O)n)が観測された.加熱キャピラリー温度を上昇させることによ り,付加水分子数は減少し,120◦Cでは,ほぼ観測できなくなった.また,水和分子イオ ンはn=4以上で観測され,さらにn=24が明らかな魔法数になっているという顕著な特 徴が現れた.この構造を説明するために量子化学計算コードGaussian09によるab initio MO計算を用いてn=5までの安定構造の探索とそれらの結合エネルギーの計算を行った.
その結果,MB+(H2O)5 からは 1つの水分子が蒸発する経路がエネルギー的に有利であ るのに対して,MB+(H2O)4 からは水分子が4量体としてまとめて蒸発する経路が有利 であるという結果が得られた.これにより,n=1-3のイオンが極端に少なくなるものと 説明できる.気相中,水溶液中のメチレンブルーの分光は既に行われており,付加する水 分子の数を変化させることにより溶媒和による効果を観測することが可能である.そのた
め,これは水和構造を微視的に研究するために重要な試料だと考えられる.
次に,このイオン入射システムを蓄積リングへと接続して,室温状態に制御されたMB+ のレーザー合流実験を行った.蓄積リング内の直線部で波長可変レーザーと合流させ,光 解離によって生成される中性粒子を検出した.レーザー照射後,中性粒子は増加し,その 後,ミリ秒オーダーの遅延反応が観測された.300 Kにおけるレーザー照射後の解離曲線 は,概ね2成分の指数関数で近似することができ,これは,主に2つの異なる内部エネル ギー状態が生成されていることを示している.波長により,1光子吸収と2光子吸収の強 度比が異なり,1光子あたりのエネルギーを大きくしていくと,1光子吸収の割合が増加 していくことが観測できた.中性粒子収量のレーザー強度依存性により,これらはそれぞ れ1光子吸収と2光子吸収に対応していることが分かった.また,4 K における解離曲 線は1成分の指数関数で近似され,これは2光子吸収に相当するものであった.吸収光 の1光子エネルギーと比較して,初期内部エネルギー分布が十分に小さいため,吸収光子 数が異なる励起状態からの遅延過程が明確に分離されたものと説明できる.さらに,レー ザー波長に依存した中性粒子収量から励起スペクトルを得た.MALDI法などで生成した MB+を用いた過去の測定でも,水溶液中のMB+ の吸収スペクトルからのシフトが観測 されていたが,今回の測定では,さらに短波長側へシフトした結果が得られた(図3).こ れは過去のMALDIで生成したイオンの内部温度が室温よりも高く,今回の測定で初めて 室温状態での励起スペクトルが観測されたものと考える.
93
謝辞
本研究を進めるにあたり,本当に多くの方々に支えていただき,非常に充実した研究生 活を送ることができました.心より感謝申し上げます.
東さんにはいつも実験に関し,的確な質問や助言をしていただきました.おかげで物事 を深く考えることができ,勉強不足を反省する機会をたくさんもらいました.田沼さんは いつも学生の近くにいてくれました.また,私の馬鹿な質問にも丁寧に応えてくれ,あり がとうございました.間嶋さんはこの研究に関して一番お世話になり,実験技術に関して 一から丁寧に教えていただきました.京都大学に移動してからも,常に実験のことを気に かけてくれました.私の一喜一憂やわがままなど全てに最後まで付き合ってくれ,本当に ありがとうございます.ここまで諦めずに実験を続け,多くのデータを出すことができた のは間嶋さんのおかげです.古川さんは半年という短い間でしたが,困った時など実験を 手伝っていただきました.私の失敗にも迅速に対応していただき,とても助かりました.
客員の先生方にはミーティングの際にいろいろと助言していただきました.特に,奥野さ んにはRF回路やパルス加速装置などを提供していただき,実際に実験を手伝っていただ きました.
共同研究である反応物理化学研究室の城丸先生には,論文作成や国際会議・サマース クールなど,多くのことにチャレンジさせていただきました.どれも非常に貴重な経験と なり,国内・国外問わず多くの人たちと出会うことができました.また,実験技術に関し ては非常に学ぶことが多く,とても尊敬しています.松本さんには困った時,頼らせても らいました.レーザーの調子が悪い時など,夜中まで何時間もかけて調整していただき,
ありがとうございました.
水和構造の計算においては,理論化学研究室の橋本健朗先生に2カ月間ご指導いただ きました.橋本先生の厳しくも丁寧な指導のおかげで,理にかなった計算結果が得られ,
論文作成や国際会議での発表を行うことができました.非常に貴重な経験をさせていただ き,ありがとうございました.また,励起エネルギーの計算においては,上智大学の南部 伸孝先生にご協力いただきました.
原子物理実験研究室,反応物理化学研究室の皆さんには研究生活を支えてもらいまし