第 4 章 :日本語とペルシア語の「手」を含んだ慣用句の対照
4.3 メトニミーによる「手」の意味拡張
4.4.1 メタファー、メトニミーと「手」の慣用句
日本語の「手」の機能による派生された諸意味の主なタイプをまとめて見ると次のよ うになる。16F17
1.ある動作をする人・労力:「手が足りない」など。
2.所有・支配:「手に入れる」「手にする」など。
3.手段・方法・策略:「手を尽くす」「手がある」「手が付けられない」など。
4.手数・手間:「手を掛ける」「手を抜く」「手を省く」「手が省ける」など。
5.世話:「手が焼ける」「手を煩わす」「手が届く」「手塩に掛ける」など。
6.腕前:「手が上がる」「手を上げる」「手が落ちる」「手がある」など。
7.能力:「手に負えない」「手に余る」など。
8.力・助力:「手を貸す」「手を借りる」「手が届く」など。
9.暴力:「手が早い」「手を上げる」など。
10.窃盗:「手を掛ける」「手を出す」「手癖が悪い」など。
11.同盟・約束・協力・提携:「手を握る」「手を結ぶ」「手を組む」
12.しはじめる・着手・関係:「手を付ける」「手を染める」「手を出す」など。
13.関係断絶:「手を切る」「手を引く」「手を別る」「手が離れる」「手が切れる」など。
14.回数(助数詞):「三手で詰む」など。
15.手間、細工:「手のこんだ細工」など。
16.支配:「手の者」など。
17.傷:「浅手」「痛手」など。
18.わざ:「四十八手」など。
19.方面、方角 :「右手、左手」
20.文字、筆跡:「この手紙はお母さんの手だ」など。
21.種類、品質:「その手の話は苦手だ」など。
22.器具などの手で持つようにできている部分:「鍋の手」など。
次に、上記の日本語の「手」諸意味のタイプの中から使用率が高く、本稿の対象であ る「名詞+助詞+動詞(動詞慣用句)」あるいは、「名詞+助詞+形容詞(形容詞慣用句)」 という構造を持つ慣用句の用例を考察し、それに対応するペルシア語の「手」の慣用句 を分析する。
手で動作をする人・労力を表す用例:
日本語:
17同じ表現が複数の意味を持っている場合があるので、同じ表現がいくつかのカテゴリーに含ま れたり、異なるメタファー、メトニミーが関わったり場合もある。その例としては「手を打つ」
「手を出す」「手が届く」「手を握る」「手を上げる」などがある。
手が足りない(人手が足りない)
中小企業はどこも手が足りなくて困っています。(人手不足で困っている)
(『分野別・日本語の慣用表現』1992)
上記の例では「手」が「人」を表現している。日本語の場合は「手」は「手伝う人」
や「作業や役割をする人」つまり、「人間全体」を表し、部分―全体関係に基づくメト ニミー表現に当てはまる。その意味は人間が、普段、作業や労働をするとき、「手」を
「道具」として使うことから由来していると推測できる。
ペルシア語:
ﻦﺘﺷﺍﺪﻧ ﺍﺪﺻ ﺖﺳﺩ ﮏﻳ/yek dast sedā nadāštan/一つの手から音が出ない(意訳:みんな協力し ないと、一人である大きな動作をやることができない)
ﺍ ﺎﻣﺍ ﺪﻨﺸﮐ ﯽﻣ ﺖﻤﺣﺯ ﺎﻫ ﺍﺪﺧ ﻩﺪﻨﺑ ﻦﻳﺍ ﻥﻮﭼ،ﺪﻨﻨﮐ ﮏﻤﮐ ﯽﻧﺎﻬﺟ ﻡﺎﺟ (ﻪﺑ) ﺕﺭﺪﻗﺮﭘ ﻦﺘﻓﺭ یﺍﺮﺑ ﯽﺒﻧ ﻭ ﻥﺎﻴﺷﺎﻔﮐ ﻪﺑ ﻪﻤﻫ ﻡﺭﺍﻭﺪﻴﻣ
.ﺩﺭﺍﺪﻧ ﺍﺪﺻ ﺖﺳﺩ ﮏﻳ omoīdwaram hame be kafāšīan va nabī barāye raftan-e por qodrat (be) jāme jahānī komak konand,čon īn bande xodā-hā zahmat mī-kešand amā yek dast seda nadārad.
キャファシアンとナビーはすごく頑張っているが、一つの手から音が出ないので、皆は 彼らが力強くワールドカップに出場するための手助けてくれるのを願っている。(直訳)
キャファシアンとナビーはすごく頑張っているが、みんな協力しないと彼らは合格する わけではないから、皆は彼らが力強くワールドカップに出場するための手助けてくれる のを願っている。(意訳)
(「Hamšahri On Line」2013.11.16)」
上記の「ﻦﺘﺷﺍﺪﻧ ﺍﺪﺻ ﺖﺳﺩ ﮏﻳ/yek dast sedā nadaštan」は文字通りには「一つの手から音が
出ない」という意味がある。例文での考察からも分かるように、「みんな協力しないと、
一人である大きな動作をやることができない」ことを意味する。つまり、「一つの手か ら音が出ない」を通して「みんな協力しないと、一人で、大きな動作をやることができ ない」と捉えられる。すなわち、文字通りの意味から抽象的な意味が発生している。そ こで、この表現は全体的に、「ﻪﻳﺎﻨﮐ/kenāye/メタファー」である。しかし、「手」自体は「身 体部分」の意味から「身体部位が属する主体」、つまり全体的概念を表す「人」へと拡 張され、「部分-全体」(ءﺰﺟ ﻭ ﻞﮐ ﻪﻗﻼﻋ /’alāqe-ye kolyat va jozyiat/全体-部分あるいは部 分-全体)という関係に基づいて拡張し、「ﻞﺳﺮﻣ ﺯﺎﺠﻣ/majāz-e morsal/メトニミー」として も分類できる。
手で所有・支配を表す用例:
日本語:
手に入れる(自分のものにする)
どんなことがあってもくじけない、あきらめないで、欲しいものを手に入れようとする 素子さんは、本当に立派だと思います。
(『向田邦子シナリオ集Ⅲ、幸福』:509)
上記の表現では「手に入れる」とは「欲しいものを所有する」という意味である。こ の場合は、「手」は「具象」すなわち、「身体部位」から「何かを自分のものにする」の
「抽象」へ転義している。「手」は「所有」を表し、「入れる」は「手」を「容器」とし て見立てるから、メタファーに関わる表現であると考えられる。また、「手」が「所有」
を表すため、その意味が隣接関係に基づくメトニミーとしても分類できる。
ペルシア語:
ﺍ ﺖﺳﺩ ﺯ ﺭﻭﺁ ﺭﺩ ﯽﺴﮐ
ﻥﺩ /az dast-e kasī dar āvardan/人の手から取り出す(意訳:人の財産や持
っているものを詐欺で自分のものにする/他人に占領される/持っているものが他人に 奪われる)
.ﺪﻧﺩﺭﻭﺁ ﺭﺩ ﺶﺘﺳﺩ ﺯﺍ ﺍﺭ ﺭﻮﭘ ﻞﻴﻋﺎﻤﺳﺍ ﺩﻮﻌﺴﻣ یﻼﻁ ﻝﺍﺪﻣ medāl-e talā-ye mas’ūd-e esmāīl pūr rā az dast-aš dar-āvardand.
マスウード・イスマイリの金メダルが他人に手から取り出された(意訳:奪われた)。
(「Sīmāye Xānevāde」)
この表現は、実際に「マスウード・イスマイリ」という人物は「所有するべきだった 金メダルが渡されなかった」ということを表している。この表現は前述の日本語の「手 に入れる」場合と同様に、具体的に「手」が「所有」へと拡張し、手の「握る」「掴む」
という機能から派生され、隣接関係に基づくメトニミー(ﺕﺭﻭﺎﺠﻣ ﻪﻗﻼﻋ/‘alāqe mojāverat / 隣接性に基づく理由/関係/関係の理由による「ﻞﺳﺮﻣ ﺯﺎﺠﻣ/majāz-e morsal/メトニミー」であ ると考えられる。
ペルシア語では、「手」で「所有」を表す「ﻥﺩﺭﻭﺁ ﺖﺳﺩ ﻪﺑ/be dast āvardan/手に入れる/入
手する」「ﻥﺩﺎﺘﻓﺍ ﺖﺳﺩﻪﺑ/be dast oftādan/手に落ちる」という表現もあるが、これは慣用句で
はなく、一般的な動作を表す連語である。
両言語では、手で「所有」や「占領」を表す慣用句が、上述の表現の以外に、「手に 握る」「手にする」「手に入る」「手に落ちる」「ﻥﺩﻮﺑ ﯽﺴﮐ ِﺖﺳﺩ/dast-e kasī būdan/だれかに占 領(所有)される」「ﻦﺘﺸﮔ ﺖﺳﺩ ﻪﺑ ﺖﺳﺩ/dast be dast gaštan/手から手に渡る」「 ﯽﺴﮐ ﺖﺳﺩ ﺯﺍ
ﻥﺩﺭﻭﺁﺭﺩ/az dast-e kasī dar-āvardan/誰かに持っているものを奪う」「ﻥﺩﺎﺘﻓﺍ ﯽﺴﮐ ﺖﺳﺩ ﻪﺑ/be dast-e kasī oftādan/何かが誰かの手に入る(手に落ちる)」「یﺰﻴﭼ یﻭﺭ ﻦﺘﺷﺍﺬﮔ ﺖﺳﺩ/dast gozāštan roye
čīzī/何かを占領する」などがある。
手で手段・方法・策略を表す用例:
日本語:
手を尽くす
陸から遠ざけようと手を尽くした人たちの心が通じたか、やつれた巨体はきのう、ゆっ くり沖へと向かった。
(『朝日新聞、天声人語』 2009.6.2)
上記の「手を尽くす」とは、「物事の実現や解決のために、あらゆる手段を試みる」
「可能な限りの手段方法を取る」という慣用的意味を表している。この場合、「手」の 解釈には身体性の意味が失われ、「何かに対処する方法、手段」という意味になる。こ れは「手」の機能によって成立されたメトニミー表現である。林(2007)によれば、「手」
と「手段」の関係は「主体-機能」に基づいている。
ペルシア語:
ﻥﺩﺮﮐ ﻻﺎﺑ ﺖﺳﺩ/dast bālā kardan/手を上げる(意訳:手を尽くす)
یﺭﺎﮐ ﮏﻳ ﻭ ﻦﮐ ﻻﺎﺑ ﺖﺳﺩ ﻮﺷﺎﭘ.ﯽﻨﮐ ﯽﻣ ﺮﻴﭘ...ﺎﻬﻟﺎﻴﺧ ﻦﻳﺍ ﺎﺑ ﺍﺭ ﺕﺩﻮﺧ یﺭﺍﺩ ﻭ ﺖﺴﻫ ﺖﻴﮔﺪﻧﺯ ِﻝﻭﺍ ﻻﺎﺣ ﻮﺗ،ﻥﺯ:ﻢﺘﻔﮔ ﻡﺩﻮﺧ ﻪﺑ .ﻩﺪﺑ ﻡﺎﺠﻧﺍ be xodam goftam;zan,to halā avale zendegīt hast va dārī xodat rā bā īn xīāl-hā...pīr mī konī,pāšo dast bālā kon va yek karī anjām bede.
私は自分自身にこう言った:おーい!女!今はあなたは人生のスタートにいる(まだ若 い)…という空想は自らを老いさせるぞ。立ち上がれ、手を上げて(意訳:手を尽くし て)、何とかをしろ!
(『Farhang-e Fārsye Amīāne』:636)
日本語の「手を尽くす」と対応する「ﻥﺩﺮﮐﻻﺎﺑ ﺖﺳﺩ/dast bālā kardan/手を上げる」という 表現があり、「あらゆる手段を講じて努力する」という慣用的の意味を持つ。この表現 では、具体的な動作である「手を上げる」を通じて、抽象的な「あらゆる手段を講じて 努力する」を表している。この表現は両者の意味で使用されるがここでは話し手はその 抽象的な意味つまり、「ﺭﻭﺩ یﺎﻨﻌﻣ/ma‘nāye dūr/遠い意味」が考慮しているから「ﻪﻳﺎﻨﮐ/kenāye/
メタファー」の表現であると考えられる。
手で手数・手間を表す用例:
日本語:
手を抜く(手数を省き、いい加減にことをする)
あぁ、あのころに彼女はすごかったよ。たとえ超満員でも、客のノリが悪けりゃ、明 らかに手を抜いて、ひどい時には曲の途中でステージを降りちまったり...反対に、テ ンションが上がれば、予定時間をまるっきり無視して、いつまでも歌い続け...
(『ドラマ 相棒season 10』:)65
「手を抜く」の「手間・手数を省き、いい加減にことをする」という慣用的意味は二 つの比喩に基づき成り立っていると考えられる。この表現では「手」自体は「手間・手 数」を表し、隣接関係に基づくメトニミーである。そして、「手を抜く」全体を見ると、
「手」は「手間・手数」を表し、「抜く」は「手」すなわち「手間・手数」を「容器」
として見立て、メタファー表現であると思われる。つまり、「手を抜く」は全体的に、
メトニミーとメタファー両方が関わる表現であると言える。
一方、ペルシア語では「ﻦﺘﻓﺭ ﺭﺩ ﺭﺎﮐ ﺮﻳﺯ ﺯﺍ/az zire kār dar raftan/しなくてはならないこと をやらない」という表現があり、意味的に日本語の「手を抜く」と同じであるが、「ﺖﺳﺩ/
dast/手」を含む表現的ではない。また、日本語の「手を上げる」と類似する「ﻥﺪﻴﺸﮐ ﺖﺳﺩ/
dast keshidan/手を抜く、手を引く」という慣用句があるが、「やめる、諦める」という
意味を持ち、日本語の「手を抜く」とは異なる。
ペルシア語:
ﻦﺘﺷﺍﺬﮔ ﯽﺴﮐ ﺖﺳﺩ یﻭﺭ/roye dast-e kasī gozāštan/手の上に置く(意訳:人に手数を掛ける)
.ﺖﺘﺳﺩ یﻭﺭ ﺖﺷﺍﺬﮔ ﺍﺭ ﺭﺎﮐ ﻦﻳﺍ ﻪﮐ ﺪﻨﮑﺸﺑ ﻢﻧﺎﺧ ﺱﻭﻭﺎﻁ ﻥﺩﺮﮔ ﯽﻬﻟﺍ elāhī gardan-e tāvūs xānom beškanad ke īn kār rā gozāšt rūye dast-at.
このことをあなたの手の上に置いたターヴゥスさんに呪いあれ!(直訳)
あなたにこの手数を掛けさせたターヴゥスさんに呪いあれ!(意訳)
(『Farhang-e Fārsye Amīāne』:657)
上記の「ﻦﺘﺷﺍﺬﮔ ﯽﺴﮐ ﺖﺳﺩ یﻭﺭ/roye dast-e kasī gozāštan/手の上に置く」は「手数」を表す 表現である。「人の手の上に何かを置く」という文字通りの具体的な意味と、慣用的な 意味として「人に手数を掛ける」がある。「人の手の上に何かを置く」はこの表現の「 یﺎﻨﻌﻣ ﮏﻳﺩﺰﻧ/ma‘nāye nazdīk/近い意味」で、「人に手数を掛ける」はその「ﺭﻭﺩ یﺎﻨﻌﻣ/ma‘nāye dūr/
遠い意味」である。二つの意味の間に写像が起こり、「苦労や手数を掛けられる」とい う抽象的な意味を表すようになっている。これが「ﻪﻳﺎﻨﮐ/kenāye/メタファー」に基づく意 味拡張である。