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ホームレス生活実態調査と支援ニーズ調査へのボランティアの取り組み

ドキュメント内 二つの公共性と官、そして民 (ページ 86-122)

1 ヒアリング調査の原点 

(1)<ヒアリング調査の原点:東京のホームレス1:1989のヒアリング記録から> 

高度成長期の前半期、実に多くの人が、寄せ場に吸い寄せられてきた。そこにみる人生史は、①農 村から大都市への上京、②建設労働の層、他の職種から、早々に、移動してきた層、そして、③出稼 ぎ層である。その一例を、Mさんの人生にみることができる(注1)。 

 

(2)大都市に吸収された労働力のケース:東京のホームレス事例 

 1989年12月3日の夜11時すぎ(11時5分)、筆者は埼玉県所沢市の西武池袋線狭山ヶ丘 駅から、池袋行きの終電ひとつまえの電車に乗り込んだ。次の小手指駅に着くと、大きな紙袋を2つ さげ、うす黒く汚れた、いわゆる「しょうゆで煮しめた」ような作業服の上に、これもまた汚れた背 広の上着を着込んだ、初老の男性が乗り込んできた。その男はちょうど筆者の前にすわった。 

 そのおじさんがしばらくのあいだ野宿生活を続けていたらしいことは、服装の汚れや針金のように 固まった髪の毛や、すすけた顔色から容易に想像できた。顔に刻まれたしわの数が、それまでの人生 の紆余曲折を物語っていた。 

 大事そうにたずさえる紙袋の片方には、おそらくは駅構内のゴミ箱からかき集めたと思われる週刊 誌がたくさん詰まっていた。年の瀬もおしつまり、現場仕事もなくなり、お金もなく困っているだろ うと思った筆者は、「おじさん、その週刊誌売ってくれる?」と声をかけた。 

 「ああいいですよ。どれでも好きなものを取っていってください。」と白髪まじりで50がらみの おじさんは答えた。実にていねいな語り口調が筆者には意外で、なんだか神秘的な印象を受けた。そ れに、のび放題のひげはある種の威厳さを感じさせた。だが、よくみるとそのひげの一端には、はな くそらしいかたまりが一塊こびりついていた。わたしはそのおじさんとそれから約1時間余りおつき あいした。 

 おじさんの名前はMさん。1934年に大阪府に生まれ、小学校は大阪で卒業した。戦時中は疎開 のため、父の実家があった熊本に行く。戦後、1952年頃、太平住宅という住宅建築販売会社に入 社した。太平住宅といえば、現在は(インタビューの当時は)けっこう大きな会社に発展している。

Mさんは18歳で結婚した。これが初婚である。ところが、新婚生活を支えるために一生懸命働いた ものの、営業成績はついてこなかった。戦後の荒廃がまだ残る時期に、家一軒売り込む商売がいかに たいへんだったかがうかがわれる話である。人のいい純朴なMさんには、営業の過酷な仕事は向かな かったようで、成績はあがらず、20歳の時に、とうとうクビになってしまった。一家を養っていけ なくなり、自信を失ったMさんは、ほどなくして離婚した。 

 いつまで熊本にいても過去を引きずるだけで、両親にも顔が立たず、また仕事にもありつけないの で、一大決心をして家出同然に熊本を後にして、上京した。1954年のことである。東京ではおも にトビ職の仕事をして、飯場中心の生活が続いた。同じ建築関係の仕事でも、「家を売る仕事よりも、

家を建築する仕事のほうが自分には合っている」とMさんは思った。成績の浮き沈みに悩まなくてす むし、なにしろ体を動かした分だけが仕事の成果として残るからだ。それから30有余年、山谷や高 田馬場の寄せ場で仕事をみつけて生活してきた。現場仕事であったが、景気がよく仕事にのっている 時は、何人もの部下がいた。 

 2年前の53歳の時に再婚した。相手の年齢は不明。その妻は大泉学園の都営住宅に住んでいる。

妻とのあいだには幼い子どもがひとりいる。Mさんの人生にとって2度目の山場がおとずれたかにみ えた。 

 ところが、ふた月ほど前に、妻に家を追い出された。寄せ場の仲間を自宅に連れてきては飲んで騒 いだ。そんなことが何度も続いたため、とうとう妻にあいそをつかされたのだ。妻にしてみれば、家 庭内に騒動を持ち込んでばかりのMさんをゆるすことはできなかったのだろう。堪忍袋の緒が切れた のだ。 

 だが、Mさんにしてみると、飯場で知り合った貴重な友人はしばしばお金がなくて、住むところに も困っている人たちばかりであった。Mさんは「仲間がいて、自分に金があれば、面倒みて、おごっ てやる性格である」と自分を評した。仲間が困っていて、自分にいくばくかの金があったり、自分の ところに雨露しのげる軒があったりすれば、自分の生活の一部をさいて面倒みてあげる性分であった ようだ。初婚の失敗以来、単身者主義の生活スタイルを身につけ、同性の仲間集団を寄りどころに生 活を重ねてきたMさんは、不幸にも核家族の家庭生活を成功させることができなかった。西武池袋線 を行ったり来たりしているのは、第3のふるさと大泉学園に愛着があるからか、離婚した妻に未練が あるからか・・・。 

 困ったことは重なるもので、1ヶ月前のある日、日雇労働者の雇用保険証である白手帳を紛失して しまった。発行番号4000番台というから、かなりの年代ものである。日雇労働者にとって、白手 帳はたいへん貴重なものであって、失業保険証と健康保険証というふたつの社会保障を受けるための 証しになっている。規定の保険料を納めれば、具体的には現場仕事の度に賃金の一部から保険印紙を 購入し白手帳に貼りそれが一定の枚数になっていれば、仕事がないときの失業手当や医療費の保障が 受けられる。日雇労働者の失業手当のことをアブレという。日雇労働者はアブレをもらい、仕事がな い時の生活費とするのである。 

 酒を飲まされ、気がついたら、手帳が取られていたという。それから、アブレももらえなくなって、

青かん、つまり野宿の生活が始まる。仲間にはいいヤツもいるが、悪いヤツもいる。手帳があれば、

ヤミ(ヤミ印紙)でもなんでも印紙を貼ってアブレ手当を受け取ることができる。手帳がないと、社 会のすべての保障から無縁同然になってしまうのである。 

 そもそも最近は仕事にありつけない。「こんな汚いかっこうしていると手配師も相手にしてくれな い。」以前、高田馬場には、△△ちゃん、○○ちゃんというなじみの手配師がいた。手配師とは路上 で仕事を斡旋する仕事紹介業者である。「馬場よりも山谷の方が仕事にありつきやすい」とMさんは いう。 

 若い頃は、トビ職で人をつかうほど勢いがあった。山谷には2つの大きな労働者団体(現在は一 つ)があるが、Mさんはこの2団体とも知っている。昔は両団体の活動もしていたという。「むかし はみんなのために炊出しをする側で活躍していた。」そうだ。 

 山谷では昨日あたりから炊出しをしていることを伝えると、「それじゃ行ってみますか」と答えた。

そして、「池袋から(山谷まで)歩いてどれくらいかかりますかね」と尋ねられた。電車に乗ること を考えていないようなので、一文なしのようであった。よほど困っているとみえたので、食事はとっ ているかとたずねると、「まったくとっていません。腹ペコなんです。」という答えが返ってきた。 

 「それじゃあ、池袋で何か食べましょうか?」と提案すると、おじさんは、いまにも涙をこぼさん ばかりに、心の底から「ありがとうございます」と筆者に向かって拝むように手を合わせた。簡単な 食事をおごるだけのことで、これほどまでに感謝された経験はいまだかつて筆者にはなかった。 

 西武線池袋駅の改札口を出ようとしたところでおじさんは立ち止まった。おじさんは切符をもって いなかったから、電車を降りる前に中村橋ー池袋間の回数券を1枚差し上げたのだが、改札を数メー トル前にしておじさんはそれがみつからない。おじさんはポケットの中をかきまわしたすえに、おも むろに1枚の切符を取り出した。よくみると、12月29日付のJRの切符だった。「わたしはこれ で出ますわ」と言って、おじさんは改札口でその切符を裏返しにして駅員が待ち受ける改札の台の上 に置いた。駅員にしてみれば、そんなごまかしは百も承知なのだが、見とがめることなく、おじさん を通過させた。筆者はおじさんよりも先に改札を通過して、改札口の外でおじさんを待っていた。と いうより、駅員の対応を観察していた。駅員は、おじさんに料金を請求するのも無駄なことだと思っ

ていたようだ。駅員のさりげない応対に、なんとなくあったかみを感じる一幕であった。 

 人通りのじゃまにならない、比較的暖かいとことで、これからの対策を練ることにした。まず、お じさんに食べてもらうものでもあったら買ってこようと思い、おじさんをその場に残して買い出しに 出かけた。あいにく、池袋駅近辺には、屋台のラーメン屋、甘栗、タコ焼き屋しかでていなかった。

おじさんのかっこうからすると、一緒に入れる店はなさそうである。屋台のラーメンも難しいだろう と考えると、残るはたこ焼きしかなかった。あまり買いたくない店ではあったが、残された時間がわ ずかであった。たこ焼きは1箱しか残っていなかった。おじさんのところにいくと、ほとんど直立不 動の姿勢でおじさんは筆者を迎えた。1箱しかないので、おじさんにぜんぶ食べてもらおうと、「ぼ くはもう食べたばかりだからどうぞ」とおじさんにすすめた。おじさんは1個、また1個と、味わう ように食べ、そのつど筆者に確認をとってから口に運んだ。それから、一時の生活費にと少額のお金 を差し上げ、南千住までの切符を買って渡し、別れを告げた。おじさんは何度かこちらを振り返り、

会釈をしながら、徐々に遠ざかっていった。 

 話はすこし戻るが、おじさんの袋の中には、どこで手にいれたかわからないじゃがいも2,3個が 入っていた。衣類は何日も着込んだままでセーターなしで野宿するのはいかにも寒そうであった。金 もないし、寝るところもないので、JRや西武線を行ったり来たりで暖をとるのだそうだ。これは、

そういう立場に置かれれば、誰もが考えそうなことではある。 

 途中の駅で、食料や週刊誌を収集するのだそうだ。きっと、さっきのじゃがいももどこかのごみ箱 に眠っていたものなのである。廃品寸前のじゃがいもに価値を見いだしたのは、ほかならぬこのおじ さんなのだ。ごみ箱の週刊誌も同様である。「週刊誌は便利で枕にもなる」とおじさんは自慢した。 

 終電後の落ち着き先さがしがひと苦労のようだ。池袋駅の構内は暖かそうであったが、「ここは追 い出されるからダメ」だそうだ。 

 おじさんはポケットの中に、①馬券(勝馬投票券)②宝くじ③テレホンカード④オレンジカード⑤ チラシなどなどをたくさん詰め込んでいた。テレホンカードなどは人からもらったのだそうだが、み せてもらったら、1枚として度数が残っているものはなかった。それから、⑥拾った切符がたくさん あった。電車に乗ったり降りたりする時に適当に使うらしい。さきに、述べたように、駅員もいちい ちチェックしないのだろう。それでも、おじさんはひろった切符を駅員に渡すことで、一人前の顧客 の扱いを受けようとしているのである。 

 このように、おじさんは普通の人にとっては役に立ちそうもないものを、ポケットにたくさん詰め 込んでいる。そして決して捨てようとしない。ポケットはかなりふくらんでいるのだ。おじさんに とっては、そうした祇きれの1枚いちまいも大事な財産なのだ。だから、捨てるのにはためらいがあ る。 

 ずいぶん古い馬券、宝くじ券も持っている。もしかしたらそれが当たっているかも知れないのだが、

あえてそれを確かめようとしない。確かめて、無価値であるのがわかったら、夢がなくなってしまう からだ。同様にして、さきのテレホンカードもカード口に挿入して確かめる必要はない。電話する相 手ができたらためしてみればいいことだ。 

 かくして、おじさんはたくさんのカードをポケットに詰め込んでいる。それはまさに、たくさんの 夢をポケットに詰め込んでいるようなのだ。おじさんと別れた後で、筆者はそんなことを考えていた。 

 

2 越年調査にみる山谷労働者の高齢化、野宿者化 

(1)山谷の変質、越年調査結果の変遷 

越年事業は30余年も続いている。ここに底辺労働者の寄せ場があり、ドヤ街ができているからだ。 

ここが日本の経済、社会の矛盾の集積地として、高度成長期の走りの時期に日雇い労働者の町とい う姿が明白になった。多くの運動家、支援者が活動するようになった。越年事業は、当初越年、越冬 闘争といった。ここが革命運動、体制変革運動の起点であったからである。現在の社会構造の矛盾の

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