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国のための自害、<勇子>―異国趣味の投影―

第一節 ジャポニスムの中の物語

「勇子―一つの追憶―」Yuko: A Reminiscenceは『東の国から』Out of the East(1895)

に収められた作品で、1891 年 5 月 11 日に滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で起きた傷害事 件いわゆる「大津事件」を背景に描かれた作品である。日露関係を揺るがしかねないこの 事件に心を痛めた天皇陛下のため、<勇子>という一人の女性が命を絶つという物語で、

この女性もまた、畠山勇子という実在の人物がモデルとなっている。

大津事件と畠山勇子へ強い関心を持ったハーンが、これらについて記したのはこの作品 だけではなく、後に『仏の畠の落穂集』Gleanings in Buddha-Fields(1897)の「京都紀 行」Notes of a Trip to Kyotoにおいてもまた、数年後の見解を示している。

本章では大津事件と畠山勇子、そしてハーンによる「勇子―一つの追憶―」に描かれた

<勇子>を比較し、史実と再話の違いから、そこに存在するハーンの描き出した女性像に 注目してみたい。この作品は、事件に関する日本社会全体の描写、<勇子>の心理描写と 行為、そしてそれに関する報道についての言及という三つの部分に分けられる。ここでは 特に、<勇子>に関する部分に注目していく。

まず、該当部分のあらすじを見てみよう。<勇子>はサムライの血を引く娘である。大 津事件により、「陛下が御心配あそばされているという公表126(only the announcement that the Emperor sorrows127)」に心を痛めている<勇子>は、何かを献上したいという思いに駆 られる。しかし奉公中の身である彼女には献上できるものは何もなく、悶々とする。そし て夜になると、彼女は亡くなった先祖の霊と話をする。「天子様の御心配を休め奉るには、

わたしは、何をさしあげたら、よろしいでしょう?」と聞くと、その先祖は「おまえの一 身をささげろ。おまえが一家の犠牲になれ。君に一命をささげる。これこそ、至高の忠義 だぞ。」と彼女に答える。その「声なき声(voices without sound128)」に導かれ、彼女は自 殺を決意する。彼女は自分の死後、黄泉の国で「おぬし、よくぞやったのう。――それで こそ、サムライの娘じゃ」と迎えられることを期待していた。そして、京都に着くと、

126 小泉八雲著、平井呈一訳、前掲(註 20)343 頁。

127 Hearn, Lafcadio.(1895)Out of the East; reveries and studies in New Japan, Boston, New York, Houghton, Mifflin Company.332.

128 Hearn, Lafcadio、同上、336.

美しく身なりを整え、訴願状をしたため、自殺へと向かう。彼女はサムライの娘として一 切乱れることなく、見苦しい死にならぬよう細心の注意を払い、喉をかき切って亡くなっ た。

以上が<勇子>に関する記述である。本章ではハーンの初期の作品であるこの「勇子―

ひとつの追憶―」に注目し、この作品に描かれた女性像が 19 世紀の読者に向け、どのよう に提示されているかを見てみたい。『お菊さん』のピエール・ロティや『蝶々夫人』のジョ ン・ルーサー・ロングといった人物をはじめとする、ジャポニスムという奔流の中で、ハ ーンがいかに彼なりの日本を発信しようとしたか、そしてそれは現実の日本とどれだけ距 離を置いたものだったのかという点について考察していく。

第二節 烈女、畠山勇子

「勇子―ひとつの追憶―」について論じる前にこの物語のモデルとなった畠山勇子につ いて触れておく必要があるだろう。ここで彼女の生い立ちから性格、死に至るまでの経緯 を、尾佐竹猛『大津事件―ロシア皇太子大津遭難』、沼波武夫『大津事件の烈女畠山勇子』

を基に、ここで一旦まとめておくこととする。

まず、畠山勇子は 1865 年、千葉県で畠山治兵衛の長女として生まれた。10 歳で小学校に 入り、17 歳で若松吉蔵と結婚したが、23 歳で離婚。その後は再婚する意志もなく、東京に 出て、万里小路家の婢となり、また横浜の原六郎の婢となり、1890 年には東京の魚商白鳥 武平方の婢となった。彼女は当時の女性の中では珍しく、政治小説や新聞を好んで読み、

歴史にも関心を抱いていたため周囲からは変わり者と見られていた。そしていつも「学資 があれば少しでも人間らしい学問をすることができたのに、このように歳月を過ごしたの は口惜しい」と言っていたという。

大津事件が起きると、新聞を読んでは嘆いていたが、主人も友人も「また例の癖が始ま った」と言って相手にするものはいなかった。しかし 17 日に、ニコライが日本旅行の予定 を切り上げ帰国すると聞き、いてもたってもいられなくなった彼女は、主人に帰郷しなけ ればならないと言って休暇を取り、最も尊敬する叔父、榎本六兵衛129を訪ね、自分がどれほ ど遺憾に思い、天皇陛下を心配しているかを熱弁した。六兵衛は、「それは最もな話ではあ

129 沼波武夫は著書の中で、「畠山勇子が烈女たり得たのは、両親や師の薫育にもよつたであらうが、その 最大原因は伯父榎本六兵衛の感化であらうと思ふ。勇子はこの伯父の純公無私の人格を最崇拝して居 た。」と述べている。沼波武夫『大津事件の烈女畠山勇子』(斯文書院、1926)69 頁。

るが、女の身分で政治をとやかく語るべきではない」と説得し、その夜は宿泊させ、翌日 主人方へ帰らせることにした。翌朝、彼女は六兵衛宅を出ると、持っていた剃刀を床屋で 研がせ、京都へ向かった。人力車で東西本願寺、三十三間堂、清水寺に詣で、同志社の女 学校を見たり、二条城を眺めたりした後、京都府庁門前で一通の書を渡そうとした。

しかし受け付けられなかったため、人がいなくなるのを見計らって、白い布を敷き、帯 を解いて、白布の上に座り、持っていた剃刀で喉を貫いた。門番や巡査が来て、「発狂した のか」と聞くと、彼女は首を左右に振り、ただ天を指すのみであった。それから医師が来 たが、後に倒れて息絶えた。携帯品の中に左の数通の遺書があった。

彼女のこの一連の行為について、当時の新聞は以下のように報じている。

去る二十日午後七時過ぎ、京都府庁の門外にて婦人が咽喉いんこうを突きて自殺せしその詳 細なることを聞くに、同日午後六時頃、二十七、八ばかりの容貌ようぼうみにく醜くからぬ束髪の婦 人が、同府庁の門前を人待ち顔に徘徊しおりたりしが、午後七時過ぎ、千葉県畠山勇 子より露国大臣宛ての一通と日本政府御旦那様と記したる二通の書面を、門番所に投 じて去りたる人力車夫あり。門番はこの書面を直ちに警察部に差し出したるに、 訝いぶかし き文意なれば、その差出人を吟味せんとする折柄おりがら、門外に婦人の自殺しおることを急 報する者あり。早速上京警察署に報じ、その筋の人々出張して検視せしに、剃刀にて 咽喉と胸部を深く切り、死後見苦しからぬよう両足を手拭にて括りおりたるが、未だ 死せずしてしきりに苦痛し、天を指して苦し苦しと大声に叫びおりたるをもって、

医師は治療をなしたるも、深手なれば効なく、ついに絶命したるをもって、区役所 に引き渡し仮埋葬をなしたり。同人の衣服は絹二子線筋の袷に、博多と繻子し ゅ すの合わせ 帯を締め、絹きぬまゆの羽織を着て白しろ縮緬ちりめんの裾除けをなし白足袋を穿き、所持品は一円兌換券だ か ん け ん 五枚、読売新聞一葉いちよう、鉛筆と剃刀、風呂敷、手拭と旅中の日記、その外に母弟等へ宛 てたる遺書及び書類の草稿もあり130

この史実から浮かび上がってくる畠山勇子像は、「新女性」として生きたいと熱望し、ま たその素質があるにも関わらず、それが果たせなかった女性である。そして、彼女が死を 以てそれを示すまで、周囲は彼女を「変りもの」として白眼視することしかできなかった。

そうした社会に生きた畠山勇子は、自分の思いと現実の社会との狭間で苦しみ、尽きぬ日

130 『東京日日新聞』(1891 年 5 月 24 日付)

本への憂慮から自殺という行為へと進んで行ってしまうのである。こうして、国を憂い、

その思いを勇気ある態度で示した彼女は、死後にようやく「烈女」と称えられるようにな った131

ここで注目したいのは、前述した 5 月 16 日付Japan Weekly Mailにおいて彼女に関する 記事が掲載されていないということである。西洋の新聞記者たちにとって、一日本女性の 死は、報ずるに値しない無意味なものにすぎなかった。当時の新聞の関心事は「大津事件」

の首謀者津田三蔵132であり、日本とロシアの国家間関係であった。巨大な軍艦を持つロシア 帝国の皇太子が、未だ弱国であった日本に来遊し、それを国を挙げて手厚く迎えるはずで あったことが、一変、一巡査によって重傷を負わされるという惨事に変ったことは、とり もなおさず国家間の危機的状況の襲来を意味した133。開国以来欧米を追随しながら近代化を 進めてきた日本は、東アジアの中で最初の文明国として認められつつあったにもかかわら ず、この事件により、再びその評価は地に落ちてしまう可能性をはらんでいたのである。

こうした大々的な報道をハーンが目にしていたことは想像に難くないが、それでも彼が物 語の主人公としたのは、津田三蔵ではなく、報道もされない畠山勇子であった。そして、

131 なお、畠山勇子の追悼については、「勇子の事新聞紙に報ぜらるヽや、いつの代にもあるかしこぶり屋 は彼女を狂人と見なしたが、一方には末慶寺へ向け、詩歌を寄せ、悼文を寄する者夥しく、又墓参して 香華を手向くる者引きも切らず、其為初め勇子の墓所は、本堂裏に、本堂と同じく東面して居たのであ るが、そこは墓前が狭くて、参詣者が込合為その向つて右即ち北方の奥に南面の地位に改葬した程であ つた。」と、畠山勇子を弔おうとする人が絶えなかったことが分かっている。また、彼女の 50 日忌辰と しての追悼会には、親族の他に京都府知事北垣國道の代理として書記官、詩人小野湖山や谷鐵臣、吉田 嘿、榊原長敏などの著名人が集まった。沼波武夫、前掲(註 129)100 頁。

132 津田三蔵の動機については、様々な憶測が飛び交い、当時の新聞には西南戦争で既に死んでいた西郷隆 盛が関与しているなどということも書きたてられた。しかし、新井勉氏の以下の指摘が最も示唆に富む ものではないだろうか。「日本の新聞が犯人は狂人であるとこじつけているが、『むしろ外国人に対する 狂信的な敵意こそが凶行の真の動機であったと見る方が本当であろう。以前から日本では、このような 狂信的な犯行によって多くの外国人が殺されてきた』として、大津の遭難事件を攘夷の動機によるもの であると見た。犯人がサムライの生れであって、昔攘夷を行った武士身分に属することに注目した。(中 略)大津におきた事件は、大国ロシアの皇太子を警備の一巡査が襲って負傷させたということの外に、

明治国家が維新以来全力をあげて推進してきた欧米追随政策の成果を覆しかねない恐れを孕んでいた。

津田三蔵は、皇太子一行の来遊を日本侵略の下調べだと誤信して敵愾心から犯行を犯したという 。

133 尾佐竹猛氏は、この事件のために日本全体がいかに狼狽していたかを記している。それによると、皇太 子へ医者を呼び寄せるため在来線が全て運休となり、早急に明治天皇出御、御前会議が開かれ、国を挙 げておびただしい数の見舞が行われたことなどが分かる。(尾佐竹猛『大津事件―ロシア皇太子大津遭 難』(岩波書店、1991)54-65 頁。)また、新井勉氏も当時の状況について次のように述べている。「天 皇も政府も皇太子に最大級の誠意を尽くして、事件に対するロシア反応を固唾をのんでまちうけた。果 してロシアが何を要求してくるか。大津事件における外交上最大の核心であり、要求の内容次第では、

その後の日露関係や明治の歴史が少しかきかえられたかもしれない。(中略)五月一六日の昼前、神戸 において、シェーヴィッチ公使はよびよせた青木外相に、五月一三日付のギールス外相の訓令の写しを 手交した。『皇帝陛下ニハ、毫モ賠償ヲ要求スル御意志ガナイ』という最上のものである。ロシア側と しては、皇太子遭難以来日本側がみせた誠意に報い、求償を行わないという訓令をみせ、その上でその 日の夕方、三日後の皇太子出港を天皇にしらせたという次第である。」新井勉『大津事件の再構成』(御 茶の水書房、1994)38 頁。