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PDF 井上靖「明妃曲」論 - 福島大学

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(1)

︵一︶

井上靖﹁明妃曲﹂論

勝   倉   壽   一

一  はじめに

井上靖の歴史小説﹁明妃曲﹂は︑昭和三十八年︵一九六三︶二月の﹃オール読物﹄︵一八巻二号︶に発表された︒漢王朝の西域諸国との和親策である和蕃公主降嫁政策の一環として︑前漢の元帝の紀元前三十三年︑その後宮に入っていた王昭君︵王明君︑王明妃︶が匈奴の呼韓邪単于のもとに嫁した故事に取材したものである︒作品は匈奴ファンを自称する大学生の﹁私﹂と︑図書館職員の田津岡に関わるストーリーを外枠として︑王昭君に関する伝説を紹介しつつ︑新たな王昭君物語を語るストーリーに焦点を当てた額縁構造をなしている︒新たな王昭君物語は︑西域に嫁した薄幸の佳人たちの代表的な悲劇として知られる王昭君伝承を﹁作りごと﹂として否定し︑新たな真実の王昭君の生涯を描くことを標榜したものであり︑田津岡が紹介した随筆﹁漢宮秋﹂なる典拠資料は所在不明とされている︒作品中の王昭君は国の犠牲になることを決意して匈奴に赴き︑単于の死後漢に戻る機会も与えられたが︑それを断り異境の地で生涯を終えたという︒王昭君がなぜ漢に戻らずに匈奴で生きることを選んだのか︑悲運の女性の真の胸中を探ることを主軸とした作品である︒王昭君の史実と伝承に関わる主な文献として井上靖が作品中に挙げているのは︑後漢の班固撰﹃漢書﹄匈奴伝︑晋の葛洪の作と伝わる逸話小説集﹃西京雑記﹄︑および元の馬致遠の雑劇﹃漢宮秋﹄である︒一方︑井上靖は﹁明妃曲﹂の発表と同時期に﹁王昭君﹂という文章 も発表しており︑そこで宋代の王安石の詩﹁明妃曲﹂と欧陽脩の唱和詩﹁明妃曲﹂︑その他の資料について次のように述べている︒宋の学者欧陽脩の﹁明妃曲﹂︑政治家王安石の﹁明妃曲﹂︑その他の雑著には︑王 ︵傍線引用者︑以下同じ︶昭君が北行の途上自ら琵琶を弾じて︑郷里を思う曲を詠ったとか︑後に毒を飲んで死に︑冢 ちょうそう独り青色を呈したとか︑いろいろな説話が紹介されている

︶1

︒このうち︑匈奴への旅の途上における孤独な王昭君の唯一の心情表現として琵琶の演奏を記すのは王安石の詩﹁明妃曲﹂第二首︑また実の息子に嫁す運命に抗して服毒自殺したと記すのは後漢の蔡邕著になる琴書﹃琴操﹄である︒井上靖が王安石の詩﹁明妃曲﹂二首を披見したことについては︑﹃中国詩人選集﹄全十六巻が昭和三十二年︵一九五七︶から昭和三十四年まで刊行された折に︑井上靖自身が﹃中国詩人選集﹄の内容見本パンフレットを執筆していることが注目される 2

︒次いで︑﹃中国詩人選集二集﹄全十五巻が昭和三十七年・三十八年に刊行され︑王安石の﹁明妃曲二首﹂を含む﹃中国詩人選集二集四  王安石﹄は︑昭和三十七年︵一九六二︶五月に岩波書店から刊行された︒井上靖の﹁明妃曲﹂は︑それから八ヶ月後の昭和三十八年二月に発表されている︒﹁明妃曲﹂という作品は︑作品名︑その内容も含めて王安石の詩を典拠として成立したことが考えられよう︒さらに︑井上靖が﹃敦煌変文集﹄に収められた﹁王昭君変文﹂を参照したと推定されることも注目しておきたい︒井上靖は﹁敦煌﹂の執

(2)

︵二︶ 筆にあたり︑﹁﹃敦煌変文集﹄を座右に置いた 3

︒﹂と記している︒﹃敦煌変文集﹄は昭和三十二年に北京で出版された︒﹁敦煌﹂は昭和三十四年︵一九五九︶一月から五月まで雑誌﹃群像﹄に発表されており︑﹁明妃曲﹂は昭和三十八年の成立である︒したがって︑井上靖の﹁明妃曲﹂の典拠資料としては︑作中に明記された﹃漢書﹄﹃西京雑記﹄﹃漢宮秋﹄の記事のみならず︑王安石の詩﹁明妃曲﹂︑﹃敦煌変文集﹄に収められた通俗文芸﹁王昭君変文﹂の内容︑および六朝・宋の范曄撰﹃後漢書﹄の王昭君伝︑宋の司馬光撰﹃資治通鑑﹄の記事にも注目しておくことが必要である︒井上靖自身は昭和三十六年︵一九六一︶六月二十八日から七月十五日まで︑中国対外文化協会の招きにより﹁日本作家代表団﹂の一員として中国を訪問している︒しかし︑この訪中は日中国交正常化が成立した昭和四十七年︵一九七二︶九月より十一年も前のことであり︑内陸の王昭君の墓地︵冢草︶を訪れたかは不明である︒

二  王昭君の史実と伝承

まず︑作品の内容に関わる史実と思われる記録を年表にまとめると︑次のようになる︒⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝文帝・前一七四︵恒六︶年  匈奴の冒頓単于死去︒老上単于即位︒⁝漢書匈奴伝宣帝・前五六︵五鳳二︶年

書匈奴伝        同・同呼韓邪︑使者を漢に派遣して奉献︒⁝漢 ⁝漢書宣帝紀    同・前五一︵甘露三︶年匈奴の呼韓邪単于が漢に来朝︒臣と称する︒ 書宣帝紀・匈奴伝   匈奴五単于に分裂︒郅支単于自立︒⁝漢   同・前四九︵黃龍元︶年

  同・前三三︵竟寧元︶年 匈奴伝︑資治通鑑 殺し︑長安の市に首を晒す︒⁝漢書元帝紀・    同・前三六︵建昭三︶年甘延寿・張湯率いる官軍が郅支単于を誅 ⁝漢書匈奴伝   元帝・前四四︵初元五︶年郅支単于︑漢の使者を殺し︑康居国に西遷︒ 伝   呼韓邪︑再び入朝︒⁝漢書宣帝紀・匈奴 説﹁宦者中行説﹂として発表している 4 与えたことである︒その経緯を︑井上靖は﹁明妃曲﹂と同年に歴史小 朝廷の意に反して匈奴側に寝返り︑前漢の対匈奴政策に多大な損害を 公主を遣わし︑傅育官として燕人の宦官中行説を送ったところ︑漢の このうち︑文帝・前一七四年の史実は︑即位した匈奴の老上単于に ⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝ ⁝漢書匈奴伝    同・前二〇︵鴻嘉元︶年復株累若鞮単于死去︒捜諧若鞮単于即位︒ 紀    同・前二五︵河平四︶年復株累若鞮単于︑漢に入朝︒⁝漢書成帝 即位︒⁝漢書匈奴伝   成帝・前三一︵建始二︶年匈奴の呼韓邪単于死去︒復株累若鞮単于 漢書元帝紀・匈奴伝︑後漢書南匈奴伝   漢︑王昭君を呼韓邪単于に嫁がせる︒⁝

︒また︑王昭君の登場に先立つ匈奴の興隆と辺境諸民族の動向︑および中国歴代との争闘・和親の歴史については︑﹃漢書﹄匈奴伝の記述に従っている︒次に︑作品の中心をなす王昭君伝承のうち︑史実に関わる記述としては︑﹃漢書﹄元帝紀︑匈奴伝の記事が挙げられる

︶5

︒◇﹃漢書﹄巻九・元帝紀第九竟寧元年春正月︑匈奴虖韓邪単于来朝︒詔曰︑﹁匈奴郅支単于背叛礼義︑既伏其辜︑虖韓邪単于不忘恩徳︑郷慕礼義︑復修朝賀之礼︑

(3)

︵三︶ 願保塞伝之無窮︑辺垂長無兵革之事︒其改元為竟寧︑賜単于待詔掖庭王檣為閼氏︒﹂◇﹃漢書﹄巻九十四下・匈奴伝第六十四下竟寧元年︑単于復入朝︑︵略︶単于自願壻漢氏以自親︒元帝以後宮良家子王牆字昭君賜単于︒︵略︶王昭君号寧胡閼氏︑生一男伊屠智牙師︑為右日逐王︒︵略︶復株累単于復妻王昭君︑生二女︑長女云為須卜居次︑小女為当于居次︒これに拠れば︑元帝の竟寧元年︵紀元前三三︶︑漢の朝廷は匈奴との和親政策の一環として︑来朝した呼韓邪単于に後宮から王昭君を降嫁させたこと︑呼韓邪単于との間に一男︑後継の復株累若鞮単于との間に二女を儲けたことが記されている︒これに対して︑﹃後漢書﹄列伝八・南匈奴列伝第七十九の王昭君関係記事には︑その降嫁の経緯︑ならびに匈奴における生活が詳述されている︒昭君字嬙︑南郡人也︑初元帝時︑以良家子選入掖庭︑時呼韓邪来朝︑帝勅以宮女五人賜之︑昭君入宮数歳︑不得見御︑積悲怨︑乃請掖庭令求行︑呼韓邪臨辞大会︑帝召五女以示之︑昭君豊容靚飾︑明漢宮︑顧景裴回︑竦動左右︑帝見大驚︑意欲留之︑而難於失信︑遂与匈奴︑生二子︑及呼韓邪死︑其前閼氏子代立︑欲妻之︑昭君上書求帰︑成帝勅令従胡俗︑遂復為後単于閼氏焉 6

︒王昭君は元帝が呼韓邪単于に与えた五人の宮女の一人であり︑入宮後の数年間にわたり元帝に冷遇されたことを悲しみ怨み︑自ら願い出て匈奴に嫁した︒その後は終生匈奴の地にあり︑呼韓邪単于との間に二子を儲け︑夫の死後は漢に帰還を望むも成帝の命により匈奴にとどまり︑復株累若鞮単于の閼氏︵正妻︶となったという︒井上靖は作品の構想にあたり宮女五人の降嫁のこと︑成帝の命により帰国の願いが叶わず匈奴にとどまったことは捨象したが︑後宮生活における王昭君の複雑な心理に焦点を当てて︑匈奴への降嫁の経緯を印象深く叙述し ている︒王昭君が後宮に据え置かれる運命を怨んで自ら志願して匈奴に降嫁したとする︑漢宮の﹁閨怨﹂の伝承は﹃後漢書﹄の記事に見られるものであるが︑南宋の劉義慶の作と伝わる﹃世説新語﹄下巻上﹁賢媛﹂第十九に収める﹃琴操﹄にも見られる︒﹃琴操﹄ではさらに︑呼韓邪単于の死後︑その後を嗣いだ実子に嫁することを拒んで服毒自殺したこと 7

︑﹃琴操﹄巻下﹁怨曠思惟歌﹂には﹁胡中多白草︑而此冢独青︒﹂という﹁青冢﹂の故事が記されている 8

︒王昭君伝承が一般に普及したのは︑﹃西京雑記﹄によって定着化した︑いわゆる﹁画工曲筆﹂の設定である︒元帝後宮既多︑不得常見︑乃使画工図形︑案図召幸之︒諸宮人皆賂画工︑多者十万︑少者亦不減五万︒独王嬙不肯︑遂不得見︒匈奴入朝求美人為閼氏︑於是上案図以昭君行︒及去召見︑貌為後宮第一︑善応対︑挙止閑雅︒帝悔之︑而名籍已定︒帝重信於外国︑故不復更人︒乃窮案其事︑画工皆棄市︑籍其家資皆巨万︒画工有杜陵毛延寿︑為人形︑醜︑好︑老︑少必得其真 9

︒元帝は絵師に後宮の女性の肖像画を描かせ︑それを見て寵愛する女性を選んだので︑女性たちは絵師に賄賂を贈り︑少しでも美しく描いてもらおうとした︒ところが︑気位の高い王昭君だけが絵師毛延寿に賄賂を贈らなかったので醜く描かれた︒そこへ呼韓邪単于が漢朝の娘を所望したので︑肖像の醜い王昭君が選ばれた︒いよいよ出国のとき︑王昭君の姿を見た元帝はその美貌に驚き︑原因を調査して絵師の不正が発覚し︑絵師はみな処刑されたという︒さらに︑元曲﹃漢宮秋﹄では︑和親策の犠牲となった王昭君が匈奴に嫁いだ故事をもとに︑元帝を主役に据えて皇帝の悲恋を描いたところに特色が見られる︒画工毛延寿に賄賂を贈らなかったために冷宮にあった王昭君の琴の音が︑ある夜散策中の元帝の耳に達して寵愛を受けるに至る︒一方︑命の危機に瀕した毛延寿は匈奴に走り︑単于に王

(4)

︵四︶

昭君を求めることを勧める︒大軍を率いた単于の要求の前に︑やむなく王昭君は匈奴に嫁することになるが︑悲しみのあまり国境の川に入水して果てる︒元帝は僻地の王昭君を想い夢に見るも︑雁の声に目覚めれば︑昭君入水の報が届くことになる︒雅俗語の調和した絶妙の歌詞を綴った傑作として知られる︒作品世界は﹃漢書﹄﹃西京雑記﹄﹃漢宮秋﹄の記事を紹介しつつ︑漢宮の﹁閨怨﹂﹁画工曲筆﹂の要素を踏まえ︑主に﹃漢宮秋﹄の構成に従って展開される︒久しく冷宮にあった王昭君の琵琶の音が散策中の元帝の耳にとまり寵幸を受けたことや︑匈奴に走った画工毛延寿の画策のこと︑国の犠牲となることを決意して匈奴に向かう途上︑国境を流れる黒河に身を投じたという筋立ても踏まえられている︒一方︑匈奴の使者として登場した若者︑のちの復株累若鞮単于との衝撃的な出会いを設定し︑﹁元帝を憎み︑匈奴の若者を愛﹂する新たな王昭君像を描いている︒その人物像の構築に影響を与えたと思われるのが︑王安石の詩﹁明妃曲﹂︑ならびに﹃敦煌変文集﹄に所載の﹁王昭君変文﹂である︒

三  王安石の詩

次に︑井上靖が﹁明妃曲﹂を構想するにあたって︑王安石の詩にどのような示唆を得たのかについて考えておきたい︒﹁明妃曲二首﹂

   其  一明妃初出漢宮時    明妃初めて漢宮を出でし時涙湿春風鬢脚垂    涙は春風に湿おいて鬢脚垂る低徊顧影無顔色    低徊して影を顧りみ  顔色無きも尚得君王不自持    尚君王の自ずから持せざるを得たり帰来却怪丹青手    帰来  却って怪しむ丹青の手入眼平生未曾有    眼に入りしは平生未だ曽つて有らず 意態由来画不成    意態は由来画がけども成らず当時枉殺毛延寿    当時  枉殺す  毛延寿 10

﹃西京雑記﹄の悲劇の構図を踏まえつつ︑元来人の姿︵精神と姿態︶を完全に描くのは不可能であるとする観点から︑無実の罪で毛延寿を処刑した元帝の処置を理不尽であると批判する︒毛延寿を冤罪者と見て﹁画工曲筆﹂を否定し︑王昭君の悲劇に対する歴代の評価を逆転させる手法により︑王昭君詩に新しい解釈を提示する導入部をなす︒王昭君の悲劇は画工の邪心が原因ではなく︑元帝の冷遇にこそあったのであり︑本末転倒であると解している︒一去心知更不帰   一たび去れば心に知る  更び帰らざることを可憐著尽漢宮衣   憐れむべし  漢宮の衣を着尽くしたり寄声欲問塞南事   声を寄せて塞南の事を問わんと欲っすれば只有年年鴻雁飛   只だ年年鴻雁の飛ぶ有るのみ家人万里伝消息   家人は万里消息を伝う好在氈城莫相憶   好に氈城に在って相い憶うこと莫かれ君不見咫尺長門閉阿嬌  君見ずや  咫尺の長門に阿嬌を閉ざすを人生失意無南北   人生の失意に南北無し﹁南﹂は漢宮を︑﹁北﹂は匈奴を指す︒﹃漢書﹄蘇武伝の故事に託して匈奴に嫁した王昭君の生活と望郷の思いを綴るとともに︑前漢武帝の寵愛を失って長門宮に幽閉された陳皇后︵阿嬌︶の例を挙げて︑異郷に暮らす王昭君の失意の思いを相対化している︒

   其  二明妃初嫁与胡児    明妃初めて嫁して胡児に与えしとき氈車百両皆胡姫    氈車百両  皆胡姫なり含情欲説独無処    情を含んで説かんと欲すれども独り処無し伝与琵琶心自知    琵琶に伝与して心に自ずから知る黄金捍撥春風手    黄金の捍撥  春風の手弾看飛鴻勧胡酒    弾きて飛鴻を看  胡酒を勧む

(5)

︵五︶ 漢宮侍女暗垂涙    漢宮の侍女は暗かに涙を垂れ沙上行人却回首    沙上の行人は却えに首を回らす漢恩自浅胡自深    漢恩は自のずから浅く胡は自のずから深し人生楽在相知心    人生  楽しきは相知の心に在り 可憐青冢已蕪没    憐れむべし青冢は已に蕪没せしも尚有哀絃留至今    尚哀絃の留どめて今に至る有り傍線部は﹁愁悶悲思﹂︵司馬相如﹁長門の譜﹂序︶の境涯に落ちた陳皇后の事例と漢王朝における﹁閨怨﹂の実態を踏まえて︑望まれて匈奴に嫁した王昭君の生涯に幸福の可能性を認めるべきだと説く︒人生の幸福は帝王の寵遇の華やかさではなく︑互いの﹁相知の心﹂にこそあるのだとする︒松本肇氏は﹁王安石の﹃明妃曲﹄の最大の功績は︑漢と胡の対立の図式を解消したことにある﹂が︑そのために﹁人々の反感を買い︑とりわけ﹃漢恩自浅胡自深﹄の句に非難が集中した﹂と説いている 11

︒井上靖が王安石の詩に注目したのも︑王昭君の失意を相対化することにより悲劇のヒロインとする固定観念を排除し︑匈奴に嫁いだ王昭君が漢の冷宮から解放されて人間としての幸福を獲得したとする解釈の革新性にあったであろう︒井上靖の﹁明妃曲﹂は︑王安石の﹁明妃曲二首﹂の﹁漢恩自浅胡自深﹂﹁人生楽在相知心﹂という詩句を具体化した作品であるとも考えられるのである︒

四  ﹁王昭君変文﹂の位置

﹁明妃曲﹂の構想に影響を与えた資料として︑﹁王昭君変文﹂にも触れておきたい︒敦煌から出土した﹁王昭君変文﹂は﹁六朝の明妃曲と元曲の漢宮秋とのあいだをつなぐ唐代の講唱作品 12

﹂で︑パリ国民図書館所蔵ペリオ蒐集文書二五五三号写本は首部を欠いており︑王昭君の胡地への道行 きからその死と弔祭に至る部分が残されている︒いま︑金文京氏が紹介された翻刻文 13

によってその構成を確認しておくと︑次のようになる︒①王昭君の道行き②匈奴への到着と婚礼︒王昭君の嘆き︒以下﹁下巻﹂③王昭君を慰めるための単于の狩の催しと王昭君の嘆き④王昭君の病気と単于の嘆き⑤王昭君の死︒葬礼と単于の嘆き⑥葬礼の様子︒青冢のこと⑦哀帝の弔問使派遣と青冢における弔祭このうち︑下巻③には﹃西京雑記﹄の毛延寿による画工曲筆の話柄が暗示されているが︑中心をなすのは王昭君の漢宮への怨慕と死︑単于の王昭君への愛情の深さである︒原文を見ると︑④・単于雖是蕃人︑不那夫妻義重︒頻多借問︒明妃遂作遺言︑略叙平生︒

  ・公主時亡︵亡時︶僕又死   誰能在後哭孤魂⑤・日夜哀吟︑無由蹔掇︒慟悲切調︑乃哭明妃処︑

  ・早知死若︵后=後︶埋沙裏   悔不教君還帝郷とあり︑漢朝廷の冷淡さを恨み望郷の思いに沈む王昭君と︑夫婦の情を繋ごうと腐心するも心通わず︑病死の床に臥せる王昭君とともに死なんと思い詰め︑王昭君を失って慟哭し︑砂漠に埋葬するのを悔いる単于の心の動きが克明に描かれる︒金文京氏は﹁﹃王昭君変文﹄のテーマは︑王昭君の漢への怨慕と共に︑あるいはそれ以上に単于の王昭君に対する一途な愛であ﹂り︑単于の﹁片思いの文学﹂であると説いている 14

︒﹁王昭君変文﹂に強調される単于の強く一途な愛と︑王安石﹁明妃曲﹂の﹁漢恩自浅胡自深﹂﹁人生楽在相知心﹂の詩句が相俟って︑匈奴の若き支配者に恋するという作品の新たな王昭君伝承が形成されたと言ってよいであろう︒

(6)

︵六︶

五  ﹁明妃曲﹂の構造

作品の大筋は新たな王昭君物語の語り手である図書館職員田津岡と︑聞き手である﹁私﹂との問答形式で展開される︒﹁私﹂は古来伝えられてきた王昭君の悲劇的伝承を反芻する形で︑読者にその伝承を紹介する役割を担い︑古来の伝承を評価し︑一定の史的意義を認める立場に立つ︒これに対して︑田津岡は﹃西京雑記﹄も﹃漢宮秋﹄も﹁所詮作りごと﹂であり︑﹁王昭君の伝説の中には真実はありません﹂と一蹴する︒その根拠として田津岡は最近︑同じく﹁漢宮秋﹂と題する随筆風の新たな資料が発見されたと紹介する︒田津岡は図書館職員という立場から特別に披見する機会があったというが︑新資料は﹁大陸のある王宮の書庫﹂にあり︑﹁発見者も︑発見された場所もいまは発表できない﹂という条件付けがなされる︒したがって︑﹁私﹂は田津岡の記憶に頼ってのみその概要を知るという設定になっている︒田津岡が紹介した新資料﹁漢宮秋﹂の概要は︑次のようになる︒イ昭君の美貌伝説︒母親の体内に月光が入り︑懐から出て地に墜ちる夢を見た︒ロ十八歳で元帝の後宮に入るも自由がなく︑琵琶を弾いて気の憂さを晴らす生活︒ハ十年間︑元帝に謁する機会なし︒官吏の毛延寿の賄賂要求を拒否︒ニ後宮に入って八年目の正月︑匈奴の使者の接待役を命ぜられる︒使者である呼韓邪単于の第一子に恐怖と戦慄を覚える︒ホ翌年︑城内を逍遥中の元帝の耳に王昭君の琵琶の音が達し︑召されて寵愛を受ける︒ヘ毛延寿の教唆を受けた呼韓邪単于の強硬な要求に従い︑王昭君は匈奴に向かうが︑老単于の妻となることに絶望して国境の黒河に身を投じる︒ ト王昭君は単于の第一子に助けられ︑一年後に父単于を殺しても妻に迎えるという誓言のとおり︑単于の跡を継いだ若者の妃となった︒チ七年後︑夫単于の漢への入朝にあたり王昭君は同行を断り︑夫の死後も帰国の意思を持つことはなかったという︒田津岡の語る新資料の構成を見ると︑イ王昭君の出自から︑ヘ匈奴への出嫁の途中︑漢土と匈奴の境を流れる黒河への入水自殺までの経緯を﹃漢宮秋﹄の筋立てに従って語っている︒その間にニ建昭四年︵前三五︶正月︑郅支単于の首が都長安に晒されたという記述と︑二月には呼韓邪単于の第一子が使者としてその首を受け取りに来朝し︑その接待役を王昭君が命ぜられてその若者に愛情を感じることになるという設定が加えられている︒その設定に関わる史実・史料関係について見ると︑﹃漢書﹄巻七十﹁伝常鄭甘陳段伝第四十﹂︑﹃資治通鑑﹄漢孝元帝四年条に郅支単于の首が長安の街中に梟けられた顚末が記されている︒四年︑春正月︑郅支の首︑京師に至る︒延壽・湯︑上疏して曰はく︑︵略︶郅支の首及び名王以下を斬る︒宜しく頭を藁街の蛮夷の廷の間に懸け︑以て万里に示し︑強漢を犯す者は遠しと雖も必ず誅せらるるを明かにすべしと︒︵略︶詔して︑懸くること十日にして︑乃ち之を埋めしむ 15

︒建昭三年︵前三六︶︑郅支単于をタラス湖畔において襲殺した陳陽・甘延壽らは︑周辺諸国の離反を防ぐ方策として郅支単于の首を都長安の胡人らの住居の前に晒すことを上疏し︑元帝は詔により十日間の晒し首と︑埋葬を命じている︒﹃漢書﹄﹃資治通鑑﹄にこの時期に匈奴の使者が来朝したという記載は見られない︒したがって︑郅支単于の首を受け取りに呼韓邪単于の第一子が使者として来朝したという設定は︑王昭君とのちに夫となる復朱累若鞮単于との劇的な出会いを構想した井上靖の創作であったと解せられる︒

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︵七︶ 昭君は初めて匈奴の使者の前に出て︑相手から烈しい眼光で見詰められた瞬間︑殆どそこに立っていることができないような戦慄を感じた︒︵略︶昭君は初めて女として自分の心の内部に烈しい愛情と憎悪の念のあることを知った︒昭君は自分が元帝を憎み︑匈奴の若者を愛していることを知ったのである︒元帝が柔弱な帝王であったという田津岡の批判の根拠記事は︑﹃資治通鑑﹄漢孝元帝竟寧元年夏五月条の元帝の崩に対する班彪の賛に﹁位に即くに及びて︑儒生を徴用し︑之に委ぬるに政を以てし︑︵略︶而して上︑文義に牽制せられ︑優游して断ぜず︒孝宣の業衰ふ︒﹂とある︒田津岡の話を聞いた﹁私﹂は﹁田津岡竜英が話した王昭君の話は言うまでもなく彼の創作に違いなかった︒﹂と断じている︒﹁ひどく貧相なほんのひと握り程しかない体躯を持ち﹂﹁甚だ風采の上がらぬ﹂田津岡は︑﹁私﹂と同じく﹁小さい眼の底に冷たく光っている得体の知れぬ自尊心﹂を持ち︑自らの対極にある﹁古代の遊牧民族の持った端 たんげいすべからざるエネルギーに対して︑心の底から讃 さんぎょうの念﹂を有していた︒折からの大陸戦争に応召した田津岡は﹁昭君投身の河﹂である黒河を渡り︑王昭君の墓と伝えられる﹁青塚﹂に到ったのち︑戦死したという︒﹁匈奴のような顔をして︑そのような叫び声を上げ︑そのような闘いの仕方をして倒れた﹂であろう田津岡の貧弱な体躯と強烈な自尊心を思うとき︑﹁私﹂は戦争という蛮行に殉じた田津岡の運命に﹁いつでも怒りとも悲しみともつかぬ感情で強く緊めつけられ﹂るのであるという︒その結末に︑作者自身の学生時代における目的を見出せない暗い日常と︑従軍体験への感情移入が認められることは言うまでもない 16

︒︵二〇二二年一〇月一九日受理︶

︹注︺

1︶ 靖﹁﹂︵

15 西年︑ 房︶

2︶ 井上靖﹁中国詩人選集﹂︵﹃井上靖全集別巻﹄︵二〇〇〇年︑岩波書店︶︶︒

波書店︶︒初出は一九六〇年︒ 3︶ 靖﹁﹂︵年︑

二〇一七年一二月︶ 4︶ 拙稿﹁井上靖﹃宦者中行説﹄論﹂︵﹃福島大学人間発達文化学類論集﹄第二六号︑

5︶ 班固撰﹃漢書一一伝︹五︺﹄︵一九六二年︑中華書房︶に拠る︒

6︶ 吉川忠夫訓注﹃後漢書第十冊列伝八﹄︵二〇〇五年︑岩波書店︶に拠る︒

7︶ 目加田誠著﹃世説新語下﹄︵一九七八年︑明治書院︶

8︶ ﹃新編漢魏叢書第二冊﹄︵二〇一三年︑中国・鷺江出版社︶ 9︶ 

8︶に同じ︒

考︵上︶│その文学史的意義と歴代の批判﹂を参照した︒ │宋代士大夫詩人の構造﹄︵二〇一〇年︑研文出版︶﹁第十一章王安石﹃明妃曲﹄ 号︑︶︑著﹃ 年︑岩波書店︶に拠る︒詩句の解釈には松本肇﹁王安石の顔│中唐詩の意義﹂︵﹃筑 10 ︶ 注﹃﹄︵ 11︶ 

10︶の松本肇論文︒なお︑批判の内容については内山精也著に詳しい︒

説話│﹂︵﹃金沢大学法文学部論集﹄一一号︑一九六四年三月︶ 12︶ 雄﹁

二四号︑一九九二年一二月︶ 13︶ 京﹁本﹃﹂︵

14︶ 金文京﹁﹃王昭君変文﹄考﹂︵﹃中国文学報﹄五〇号︑一九九五年四月︶

15 ︶ ﹃続国訳漢文大成資治通鑑第二巻﹄︵一九二八年︑国民文庫刊行会︶ 究所紀要﹄五一号︑二〇一八年四月︶に詳しい︒ 16︶ 洋﹁靖﹃﹂︵西西

(8)

︵八︶

A Study of “Meihi

-

kyoku” by INOUE Yasushi

KATSUKURA Toshikazu

Contents 1. At the outset

2. Historical fact and tradition in Ousho¯kun 3. Poem of Ouanseki

4. Position of “Ousho¯kun-henbun”

5. Construction of “Meihi-kyoku”

参照

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